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15 勘違い
触れた唇の凹凸。接した手の熱と湿り気。目の前の存在との間にある距離にも意識が向いている。今だけ超人にでもなったのかも。蜘蛛の糸を張り巡らせているかのように、すべてがクリアに感じられる。
「あ、う……すみません!」
表面が触れただけの一瞬は、カウントができるくらい長かったように思う。飛びのき離れたバロウは、そのまま足を滑らせるようにソファから落ちた。手が離れる。床に座り込んだ彼は僕を見上げ、そしてソファへと突っ伏して、また僕を見た。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。キスするつもりがなかった……わけじゃないですけど、つい。いや、ついっていうのも失礼すぎますよね。ごめんなさい。こんな会ってすぐ、まだ交際を始めましょうって段階なのに」
早口で謝罪する彼。僕はただそれを否定するように、肯定するように、とにかく両手を振り彼の謝罪をかき消した。
「恋人なので……全然いいと思うんですけど……。抱き着いてもいいですか?」
「もちろん」
素早く直立不動状態になったバロウ。僕はゆっくり立ち上がり、一歩彼に近づいた。触れなくても相手を感じられる距離。むずむずする。もう一歩近づけば、彼の腕が迎えてくれた。
紙一枚挟むように抱き着いた。力は入れず、それでも彼の背に腕を回す。シャツ越しに彼の肉付きが分かる。どっしりと揺ぎ無い力強さ。大きな体で包み込んでくれる安心感。
体が大きく力が強い獣人は、それが理由で恐れられている。でもこうして抱きしめてもらった今、恐怖は少しも感じない。筋肉の発達した彼に、敵わない強さを感じるけれど、僕にとってそれは魅力的なものとしか映らない。捻り潰される心配なんてない。だって彼の腕はこんなにも優しい。
興奮している。同時に、とてつもない安心感がある。人肌というものはこんなに心地が良いのかと、親の腕で眠る赤子を思う。
離れようと手を下ろすと、強く抱きしめられた。紙一枚の隙間は消え、額も鼻も頬も潰されて、自分を支えるために彼に掴まった。ぎゅうっと握ってしまったシャツを離し、しわを伸ばすように体に触れる。五本の指先、付け根、手のひら全体を這わせ、その形を確かめる。腰の筋肉の張り、背骨のくぼみ。自分の両腕を結びつけるように伸ばし、それから腕に力を入れた。
額を擦り付けるようにして無意識に止めていた呼吸を再開すれば、彼の匂いがした。
背の高い彼は、僕に覆いかぶさるようにして抱きしめてくれる。子供にするように頭にキスされるのは、心がくすぐったい。
「ソーマさんの髪は綺麗ですね。いただいた指輪、あれはソーマさんの色だなと思いました」
「ああ、黒いから」
僕の髪は黒く、目も黒く、鍛えていない不健康な体と相まってぱっとしない。
「オニキス、めちゃくちゃ嬉しかったです。そう思ってくれてるんだなって思って」
「そう?」
「おれはああいうのに詳しくないので、調べたんです。それで『夫婦の幸福』って石言葉があると知って」
ちょっと待った。ぱちぱちと瞬き。それは考えてなかった。眉間にしわが寄る。素直にそんなの知らないと言えば傷つけてしまうだろうか。けど嘘を吐くより正直な方がいいだろう。
「ごめんなさい、あれは本当に魔除けとして渡しただけで、石言葉とかは全く考えてませんでした」
告白すれば、僕を包んでくれていた腕がパッと離れた。
「おれ、とんでもない勘違いをしていましたか? ソーマさんがそういう意味も込めて渡してくれたんだと、完全に思い込んでいました」
腕が離れ、体が離れ、距離がひらく。
――いかないで。
「渡した時は、考えてませんでした。けど……ええと、なんていうんでしょう。実際に僕はそういう気持ちでいたから、あれを選んだのかもしれません。良い偶然というか、結果的には正しいというか……」
「勘違いしてて問題ないですか?」
「はい。もう勘違いではないので」
不安げに細められていた目が大きく戻り、そして目じりが下がる。耳が連動しているようで、細やかに動くのが面白い。音だけでなく全身で、僕のことを見ようとしてくれている。気配を探り、嘘を確かめられている。だから、もう一度こちらから手を伸ばす。
おそらく南向きだろうリビングの薄いレースカーテン越しに差し込む光は、明るく様々なことを教えてくれる。バロウの着た白いシャツのアイロン皴も、赤茶色の髪の流れも、耳の動きもよくわかる。緊張感はまだあるけれど、部屋ごと隠し事はないですよって教えてくれているみたいだ。
腕に力を込めれば同じように返ってきて、力を緩めれば同じように解放される。けれど完全に腕の輪の中から放出されることはなくて、僕がどうしようとしているのか探り合わせられている。
「結婚のビジョンなんか何もなかったんです。一人でいたら年老いた時に寂しくなるだろうって漠然とした予感だけありました。消去法でお付き合いを考えるのかなって思ってたんです。けど今は、これが良いなって思います」
僕より高い体温。知らなかった匂い。強く抱き着いても支えてくれる逞しさ。その全部を持ち合わせている、暖かくて柔らかくて丸い空気。
「帰る場所が欲しいです。ただいまって言える相手。バロウさんは、そんな相手になってくれますか」
「もちろん。もちろん、なります」
その大きな背を屈め、僕に目線を合わせてくれる彼は、山形の尖る歯を見せて笑う。
促されソファに再び座ると、彼は僕の前に座り込み、両手を大事そうに繋いでくれた。太い指にあの指輪は嵌らない。結婚指輪を買うのなら、普段つけることがなかったとしても一応サイズが合うものを用意したい。そうして彼が勘違いしてくれたオニキスの隣に飾ろう。
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