死神の導き

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死神の導き

 午前二時を指した時計をぼんやり見つめながら、入れたばかりのココアを啜っている。デスクの上には完成したばかりの小説の原稿が雑にまとめてある。そう、私は小説家なのである。ミステリーやホラー、サスペンスなどといったジャンルが得意分野である。しかし、私の小説は大した作品がない。もちろん売り上げも大したことはない。まあ、食べていくに苦はしていないのだが。しかし、今回の作品はかなり有望な作品である。私は心からそう思っている。おそらく200ページほどだろうか。短めに整えた話だが、起承転結しっかりしているし、何より最後のどんでん返しに読み手は驚くことだろう。私はニヤリとしていた。さて、部屋の明かりを消して、ベッドで眠るとしよう。  ベッドルームへ入ると、私は静かにベッドへ潜り込んだ。夜が明けたらすぐに出版社へと向かおう。きっと皆大作だと驚くに違いない。私はそっと目を閉じ、一日を終えた。  外の生活音に混じる騒音は車だろうか。人々が談笑しながら歩道を歩いていくのが目に浮かぶようだ。鳥のさえずりも聞こえてくる。……鳥のさえずり……?  「まずい!」  私はベッドから飛び跳ねて目を覚ました。どのくらい眠っていたのだろうか。ベッドサイドに置いてある時計を手に取る。時刻は正午を迎えようとしていた。何ということだ、ここまでずっと眠っていたというのか!私は慌てふためきながら洗面所へと向かった。洗面台の鏡に映るのは髭面のさえない男だが、よく眠れたせいか、すっきりとした顔をしており、血行もよさそうだ。私は焦る気持ちを抑えて丁寧に髭を整えた。カミソリを洗い、化粧水を顔全体になじませる。あとは着替えて出版社に向かうだけだ。  身支度を終え、玄関でお気に入りのモスグリーンのマフラーを巻き、真っ黒なハットをかぶる。最後にロングコートを羽織り、勢いよく外に飛び出た。  「なんとまあ……。」  雪道に反射する日光が、刺すように目を突いてくる。私は歩道を歩く人々の流れに乗って歩き始めた。世間話や政治についての話、我が子自慢や仕事の話など、無数に聞こえてくる。今日もこの街は平和で素晴らしい一日を迎えたようだ。しかしまあ皆早歩きなもんで、誰かが足を絡ませないか心配である。私たち大人の隙間を縫うように走りゆく子供たちを見ては関心する。こんなにも器用なことができるのかと。私はもうすぐ32歳を迎えるが、あの子たちのような芸当はもうできないであろう。私はなぜか、自分が退化しているように感じていた。大人になるというのは死に向かうことと同義である。いや、この世に生まれたとき既に命は死に向かっているのであろう。人生をどう過ごすかなんて、人それぞれではあるが、その人が悔いを残さないものが理想なのだろう。  「なんとくだらんことを。私はまだしっかり生きてもいないのに。」  そんなことを考えていた時である。人々の平和な語らいが悲鳴へと変わった。何事かと悲鳴が上がる方に顔を向ける。その光景が目に入ったとき私は目を見開いて恐怖した。流れに逆らうように人々が引き返していく。大型のバスが人々を吹き飛ばしながらこちらに迫ってくる。私は動くことができなかったが何とか振り返って走り去ろうとした。その時だった。先ほどの子供たちの一人が転んでいて、あと数秒ほどでバスに轢かれると私は理解してしまった。  「……くそ!」  ……何をしているのだ私は!振り返ろうとしていた足を無理やり前に出し、今までにないほどのスピードであの子のところへ向かっている。――あと一秒!あと一秒だ!  子供と目が合った。私は子供に向かって飛び込んだ。間一髪であった。あの子のところに仲間たちが集まっている。野次馬共も集まってきている。皆こちらを見ている。よかった私は儚い命を救ったのだ。本当に良かった。あの瞬間、助けることをせずに振り返っていたら、私は生涯後悔し続けていただろう……。肩にかかるバッグの中な身を確認する。原稿は無事のようだ。少し折れ曲がっているものの、大事には至らなかった。ハットを拾い、マフラーを羽織り直して私は出版社へと急いだ。  「おはようさん。」  出版社の社員たちに挨拶をしながら担当がいるオフィスへと向かう。皆いつもながら挨拶も返してくれず、相変わらずの冷たさである。受付をしているジュディはいつも挨拶を返してくれるのに、今日にいたっては書き物をしながら私を無視していた。集中していたのだろう。仕方ないことである。ジュディはたまにそういうことがあるのだ。今回だけではない。まったく、人の命を救ってきたというのに、日常とはなんと残酷なのだろうか。いや、この日常を送れていることに感謝すべきなのだろうか。  「編集長どの、おはようござ――」  「おい!例の原稿はどこだ!貴様の担当だろ!どこにあるんだ!デイビッド!」  「あ、あの……それが……まだ完成していないもんでして……!」  「貴様は締め切りという言葉は知らんのか!すぐに持ってこさせろ!」  気の毒に……。デイビッドはいつも怒鳴られている。彼が担当している作家との面識は全くないが、どうやら筆の遅い作家なのだろう。担当に悪いので私は締め切りは必ず守っていた。私のせいで担当のジョエルが叱られるのは心苦しいものだ。さて、ジョエルのデスクへ向かおう。きっと挨拶ぐらいはしてくれるだろう。  私は急ぎ彼のデスクへと向かった。道中にバッグから原稿を取り出し、すぐに渡せるように準備もした。しかし、そこに彼の姿はなかった。体調でも崩して休んでいるのだろうか。隣のデスクでけだるそうにコーヒーを啜るベンなら事情を知っているかもしれない。  「やあ、ベン。ジョエルは――」  「おい!ベン!ジョエルはどうした!」  「おはようございます編集長。彼ならさっき慌てて飛び出していきましたよ。どこに行ったのやら……皆目見当もつきません。」  「なんだと!まったく……!いっそのこと私も外に飛び出してタクシーにでも撥ねられたい気分だ!」  「タクシーは人のために停まりますから、撥ねられないんじゃないですか編集長?」  「ええいやかましい!」  地面を強く打ちながら編集長は自分のデスクへと戻っていった。まったく、今朝の事件を知らないのか。何と不謹慎な発言なのだろうか。このオフィスにはテレビが必要だ。  「まったく朝からうるさいお人だよ。」  「はは、ベンも大変だな。私はジョエルを追うとするよ。」  ベンは書類を見ながらコーヒーを啜っている。  「……それじゃあまた。」  私はどこか重い足を動かし、外へと向かった。ジョエルはどこへ向かったのか。とりあえず、慌てて飛び出したと言っていたな。家に忘れ物でもしたのだろうか。彼の家を訪ねてみようか。  ジェエルの家に向かう道中、私は普段着にすることもなかった街並みやら景色やらに注目していた。大通りから外れたこの道は、先ほどまでの人々の流れはなく、ちらほらと人が歩いているだけだった。道端に座って新聞を読むご老人、出店で買ったであろうコーヒーを飲む紳士。おしゃれを見せびらかすご婦人やお菓子をねだる少年。私はこんな他愛もない日常の中にいたのか。普段、活字の中で過ごしているようなものだから、どれもこれもが新鮮に思えた。  ジョエルの家に向かうにはバスに乗る必要がある。私は小さなバス停で寒さに耐えながらバスを待っていた。すると、隣に先ほどすれ違った新聞を読んでいたご老人が来た。何やらボソボソと呟いているようだ。私は耳を澄ましてそれを捉えようとした。  「いやはや、この街も……物騒な街になったものだ。私が若い頃はとても平和だったのに。」  なるほど。この手の話は決まって今よりも昔の方が良かったと言った内容である。耳を傾けるだけの価値はない。昔あっての今であるが、今が無ければ過去はない。今が連続して未来へ繋がるのだから。過ぎていった時間に想いを寄せたところで、何かが変わるわけではないのだ。  「君もそう思わんかね。」  「……私はいつも今を生きることに力を注いでいます。過去に囚われるなど、勘弁な話ですよ。」  「ほほほ。それもそうだが、今にばかり執着しておると、過去にのことや未来が疎かになるやもしれんぞ。今の君を作り出しているのは、希望ある未来と、学ぶべき過去があるからではないのかね。」  「そういった考えもあるのは承知していますが、人が皆そうあるわけでないと私は思いますよ。思い出したくない過去や迎えたくない朝がある者もいるのです。」  「ほほほ。どうやら君は私が思う以上に立派な男のようだ。歳をとると頑固になってしまうのでね。私はいつからか自分ばかりの世界を生きるようになったようだ。この老人の戯れだと思い、聞き流してくれたまえ若者よ。」  「いえ、立派な者ならば、今頃食う分の金を持ち、家庭を築きあげ、未来を我が子へ託しているはず。私には今申し上げたことは何一つない。」  「ふむふむそれでいい。何もないのなら何かを持てる余裕があるということなのだ。なに、人並みの幸せや、世間の言う幸せの基準に乗らなきゃならないことはない。自分の思う幸せを見つけなさい。君に似合う幸福がある事を祈ろう。」  「ははは。なんだか少し心が晴れたように軽くなりましたよ。ありがとうございます。」  「なーに、ただ歳を重ねてきただけではないのだ。どうか老人の戯言と受け入れて欲しい。」  「あなたのような人になれることを祈ります。」  「ほほほ。君は素直な若者だな。おや、バスがきたぞ。」  私は軽く会釈をし、ご老人より先にバスへ乗り込んだ。座席に座るとご老人は通路を挟んだ隣へと座った。ご老人のバッグからは新聞紙がはみ出ている。見出しを少し読み取れた。『歩きゆく人々の列にバスが衝突。18人が死亡。』今朝の出来事がすでに新聞になっているとは。今朝の出来事が、まるで遥か遠い昔のことのように思える。私は身を挺して一つの命を救った。しかしすぐそのあとに日常へと戻り、いつもの色気のない一日を過ごしている。平凡な男が、最高の原稿を持っていることも笑える。  「しかし、君も不運な男だな。なぜ君はここにいるのだね?」 先ほどのご老人が急に私に不可思議なことを聞いてきた。なんとも不愉快な気持ちである。    「……と申されますと?」  「君はここにいてはならん。そうではないのかね。まあ私がとやかく言うことではないのだがね。」  「意味が分かりません。」  「なるほど。自身のことをわかっていないようだ。して、その大事そうに抱えている鞄の中にはお宝でも入っているのかな?」  「……ああ、いえ、仕上げた原稿が入っておりましてね。担当者に渡すはずが、その者が外出してしまったようで……。これから彼の家を訪ねようかと。」  「なるほど、君は作家ということか。その様子じゃとてもいいものができたと見えるが?」  「ははは、お分かりですか。私の作品の中でも最高傑作でしてね。」  「そうかいそうかい。それはいいことだな。ぜひ読んでみたいものだ。」  「世に出たらぜひとも読んでいただきたいですね。損な気持ちにはならないかと。」  「うむ。自信があることは素晴らしいことだ。ちなみにどのような話なのかね。」  「内容としてはよくある物語なのですがね。展開のスピード感や複線の回収など、一味違う作品になっていましてね。まあジャンルは俗にいうミステリーなのですよ。」  「ほほほ。それは面白そうだ。君にピッタリではないか。」  「……どういうことでしょう……?」  「君は今まさにミステリアスな空間にいるのだが、気づかないかね?」  一体何の話をしているのだろうかこのご老人は。何も変哲のないバスのはずだが……。しかし、私は周りを見渡して何か妙なことに気付いてしまった。乗客たちの顔に生気が感じられない。まるでたった今死んでしまったかのようである。中には頭から血を流している者もいるではないか。私は絶句した。一体何が起きているのだ!私はなぜこんなところにいるんだ!  状況をつかめないままバスは走りゆく。一体どこまで?私をどこへ連れて行くというのだろうか!ふと、ご老人のほうを見ると、クシャクシャの新聞紙を広げている。あの見出しが目に入る。……まさか!  「気づいたかな?そうだ。君はもう現世の者ではないのだ。あの世の者なのだ。」  「そんな!なぜだ!私はあの子を助けて自分も助かったのだ!どうして死んでしまったと言えるのか!」  「では聞こう。君が助かったという証拠は、あるのかね。」  「何を馬鹿なことを!今こうしてここにいる!そうだ!これこそが証拠だ!」  ご老人は気だるげに立ち上がると、私を睨みつけるようにじっと見つめながら言った。  「私も最近とても困っているのだよ。若者よ。自信の死に気付くことなく、その辺をうろつくものが多くてな。」  「一体何の話を――」  「申し遅れてしまったが、私はの名はセバスチャン・ダ―リック。世に知れた名で言えば、死神だ。」  「……なんだと……!」  その時であった。バスが急に右に左に揺れ始めた。まるでタイヤのパンクのように。揺れは徐々に激しくなっていく。私はバランスを崩し、通路を転げまわっている。ふと乗客に目をやると、生気のなかった顔が、恐怖そのものを感じる表情へと変わっていた。まるでこれから起こることに怯えているように。  「見ろ若者よ!運命の瞬間だ!」  私はなんとか座っていた席によじ登り、四方八方を忙しく見渡した。そして私は理解してしった。このバスは今朝の悲惨な事故現場へ向かっていると。前方に歩きゆく人々の列がある。バスは蛇行しながら猛スピードで列へ向かっていく。私は運転席へ走った。体中を座席や手すりにぶつけながら。  「おい!しっかりしろ!」  運転手は泡を吹いていた。意識がなかった。  「クソッ!」  私は最後の力を振り絞らんがごとく運転手を持ち上げ、ブレーキを踏もうとした。右足を思いっきり伸ばす。同時にクラクション」を強く鳴らした。その時、後ろからご老人の声が聞こえた。  「時間だ。若者よ。」  バスは右に大きく傾き、私は運転席側の窓ガラスに強く打ちつけられた。乗客たちは悲鳴を上げていた。横転したバスが人々を吹き飛ばしていく。私は意識が持たなかった。最後に目に映ったのは、あの子供を突き飛ばした自分自身だった。  「ダニエル!ダニエル!私だ!ジョエルだ!どうか目を覚ましてくれ!」  私の亡骸を抱きかかえながら大声で叫んでいるジョエルを、私はすぐそばで見ていた。というか気づいたらここにいた。今までの出来事をよく理解していた。私はこのように助かってなどおらず、最初から死んでいたのだ。振り返ると、セバスチャンがいた。  「行こう。若者よ。君の人生は終わった。今日死ぬことが運命だったのだ。さあ、手を。」  私はセバスチャンに導かれるがままに、手を差し伸べた。その時、天に穴が開き、神々しい光が差してきた。ああ、私は今から向こう側へと行くのか。セバスチャンは、彼はもしかしたら私を助けてくれたのかもしれない。私はどこか穏やかな心で天に昇って行った。  
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