オーダービフォアバース

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オーダービフォアバース

 めでたいことに私は明日、出産されることが決まった。明日の今頃には母親と父親の前で産声を上げているだろう。今夜こっちの友達とのお別れ会がある。みんなが私におめでとうを言ってくれる。しかしどこか寂しくもある。出産されたらみんなのことは忘れてしまい、現実と名付けられた世界で私は生きていくことになるのだ。もっとみんなと過ごしたかったけど、私達は生まれるために生きてきた。生まれるための勉強もしてきた。これは本当にめでたいことなのだ。  私は生まれるための支度を始めた。と言っても、大きな持ち物などは特に無く、今まで勉強してきたことの復習をするだけである。友達の作り方や家族との接し方。生きる意味など、どれもこれも私達には難しいものばかりだった。……そういえば教員が言っていた。   「ここで学ぶことは、どれも生きてみないと分かりません。生きる前に理解を深めておくのです。いつか生まれたときに皆さんは気づくことでしょう。生きることは楽しく、大変なことであると。」    その言葉について私達はピンと来なかったが、生まれることが決まった私には、何故かとても心に強く響き渡っている。私は日頃から考えていた。生きるってなんだろう。と。そしてようやく明日、その答えが得られる。いや、正しくは答えを探していくのだろう。そして自分なりの答えを見出した後、私は教員見習いとしてこの世界に舞い戻るのだ。そう、私達は皆教員志望だった。教員になるためには一度生きて死ぬことが必須科目であった。死後、この世界で人生報告書を提出し、ようやく教員育成アカデミーへと入学できるのだ。教員になったら、私はたくさんの人に生きることとは何かを説くのだろう。教員志望の生徒に希望をもって生まれてもらうのだ。  私は家を出た。しばらくここには戻ることはない。しっかりときれいに片付けておいたので、戻ってきたときには気持ちよく生活を始められることだろう。  私は我が家を眺めた後、ある場所へと向かった。そこは生まれる前の最終講義をする所だ。適正検査などもするという噂もある。私は不安になっていた。しかし明日への希望もある。そんなアンビバレントな気持ちを抱えながら私はそこへと向かった。  外を歩く人々や動物、兵士達の間を縫うように歩みを進める中、私は何度もバッグの中身を確認した。何を確認していたかというと、講義を受けるにあたって必要な書類を確認していた。人間証明書、感情取得証明書やアカデミー長のサイン入りの講義会場入場許可証など、しっかり手元にあるかどうか、呆れるほどに確認している。資格という資格は全て取得した。その分忘れ物が無いか心配になる。いつからこんなに心配性になったのだろうか……。人間というものを学ぶにつれて、いつの間にか本物の人間らしくなってきているのかも知れない。だからこそ今こうして最終講義会場へと向かうことができているわけだが。    歩いていると、ふと思うことがあった。私はこのいつもの変わらない景色が好きなのだが、明日から始まる人生では、どのような景色を見ていくことができるのだろう、と。それは自然だけではないと思う。人として感情が動かせれるシーンは数多に存在するという。私はどのような人間として、そこに在る事ができるのだろうか。きっと私は、新たな宇宙空間に浮かぶ星で、他人や動物、建物や自然にまみれて人生を構築していくのだろうと思う。その雑多な環境の中で私はたくさんの尊い経験をし、勉強をし、この世界へ舞い戻り、教員として生徒を育て上げるための知識や知恵をできるだけ身につけなければならない。いや、考えても仕方がない。今は講義会場へと急がなければ。  寄り道もせずに私は講義会場へと到着した。私は受付で出生予定書類と教員育成アカデミー入学志願書を提出した。   「この度は出生決定おめでとうございます。入学志願に関する書類はこちらで大切に保管させていただきます。なお、死後に入学許可証として学長のサインがされた書類をお返し致しますので、安心して人生を歩んでくださいませ。出生予定書につきましては今ハンコを押してお渡し致します。講義を受講される際に必要となりますので、失くさないようにお願い致します。後ろにございます階段を登り、目の前の大きな扉の向こうが最終出生前講義会場となります。それでは、いい人生を。」    ありがとう、と私は受付の人に返し、ハンコの押された出生予定書を大事に握りしめた。後ろを振り返ると目の前に広く長い階段が現れていた。いつの間にこのような階段が現れたのだろうか。私は一段一段ゆっくりと階段を登っていく。振り返ると受付の人がいなくなっていた。  気がつくと私は大きな扉の前に立っていた。木製で美しい彫りがあり、ところどころ金で装飾が施されている。それはとても豪華な扉であった。私は両手で扉を押す。音も立てずにゆっくりと扉が開く。すると、強い光が私を包み込んだ。   「ようこそ! この度は出生決定おめでとうございます!私は講師。最終出生前講義の講師であります!よろしく!」    目の前に現れたのは派手な格好をしたテンションが高い人だった。講師と名乗るその人は、私の前に真っ白なテーブルと椅子を用意した。   「今日の受講者はあなた様お一人のみ! さあ、早速講義を始めましょう。どうぞ椅子におかけください!」    私は促されるままに椅子へと座る。この部屋は何もかもが真っ白で、丸い部屋なのか四角い部屋なのかもわからない。しかしなんだろう胸の奥で心が高ぶっているのは確かに感じていた。講師が私の向かいに立ち、右手を伸ばしてきて言った。   「さあ、出生予定書類を! 私に提出してくださいな!」    私はずっと握りしめていた書類を講師に渡した。講師は真剣な表情で書類を確認している。急に静かになった。私に聞こえているのは、己の心音だけであった。ふと講師は私に背を向けて言った。   「あなたの日頃の行いやこの世界での性格、授業態度や教員との関係など、私は既に把握済みです。そこで私が個人的に下した結論……。一言にまとめます! あなたはとても素晴らしい人材です! 明日、人生を始め、歩み、ゴールへ辿り着いた時! あなたはこの世界へと舞い戻る。きっとあなたは人生とは何か、素晴らしい答えを見出してくださる事でしょう! 期待していますよ!」    私はきょとんとしながらも、褒められたのだと解釈した。そして一言だけ、ありがとうございます。と言った。するとすぐに講師が高い声で話し始めた。   「これまで教員に口酸っぱく言われてきたと思いますが、出産されるとこの世界で学んで来た事は愚か、全ての記憶を失ってしまいます! あぁ! なんとも意味がない! 今までのことは全てが無駄! と、お思いでしょう?」    私の顔を覗き込むように講師が問いかけてきた。確かに、ここで学ぶことを全て忘れてしまっては、意味がない気がする。私が困惑した表情を浮かべていると、講師が続けて言った。   「困惑していますね? 気持ちは分かります! しかしどうかご安心を。今まで必死に勉強してきたことは、実は現実世界で活かされていきます。今日まで勉強してきたからこそ、母親の中で育ち、生まれた後は自我や感情が芽生え、人間らしく生きていくことげできるのです。あなたの今までの成績が反映されることでしょう! 苦手な分野も得意な分野も、明日からの人生に反映されていきます! あぁ、それが人生! それこそがあなたという人を巻き込み、清濁どちらにもまみれていくことでしょう! 安心して生まれてみてください!」    私は心から安堵した。今まで学んできたものが水の泡となっては本当に意味がない。私は胸を撫でおろすと、改めて姿勢を正した。講師はその私のしぐさにクスクスと笑い、続けて言った。   「さあ。それでは始めましょう! 最後の講義を! ここからは長いですよ! 休憩はありません。明日から始まる人生も休憩は存在しませんのでね。では、こちらのスクリーンをご覧くださいませ!」    講師の指が差す方、私の真後ろには、いつの間にか巨大なスクリーンが現れていた。私と講師を簡単に飲み込めるほどのスクリーンである。縦も横も顔を移動させなければいけなそうだ。   「今からここに映しだされますのは、あなたより先に人生を歩み始めた方々の映像でございます! そう、つまりは先輩方の生きざまをしかとその目に焼き付けていただこうという目的がございます! そして、現実とは何か、あなたなりにお考えいただき、私に教えてください。どんなことでもよろしいので、教えてください!」 「……わかりました。改めて、本日はよろしくお願いいたします。」 「こちらこそ! では、まず一人目です!」    スクリーンに映しだされたものは、たくさんの緑に囲まれた公園だった。日差しが強く、おそらく真夏の公園かと思われる。木々の日陰にポツポツと人がいるのが確認できた。そしてスクリーンはまっすぐ奥のベンチへとズームアップしていった。ゆっくりと大きくなるベンチに人が座っているのが分かった。ズームアップが終わり、その姿をとらえた。涼しげなハットで分かりづらいが、長めの綺麗な白髪を束ねている。随分と丁寧に整えられた白い髭が、強い日差しに照らされて、輝いているように見えた。彼が私の人生の先輩方の一人か……。   「興味が湧いてきましたでしょう? ではもう少し近づいてみましょうか。そーれ!」    いきなり講師が私の背中をドン! と強く押した。あまりに急な事だったので、私は声も出せずにスクリーンへとぶつかった。しかし、ゴツゴツとした感触に違和感を覚え、よくよく見てみると、それは何の変哲も無い木であった。状況がよくわからないので、辺りを見回すと、そこは私が先ほどスクリーンで見ていた公園だった。まさか、私は今スクリーンの中に飛び込んでいったのだろうか? いや、正確には押し飛ばされたのだが。私の背後であの講師がクスクス笑っているのが分かった。状況を飲み込め始めた時、全ての感覚が戻ってきた。肌を打つような激しい日光の暑さや、それを跳ね返すかのような硬い地面。そうなのだ! 確かに私はスクリーンの中に、今まさに現実空間に存在しているのだ! 驚愕する前に私は歓喜していた。   「先ほどは失礼致しました! 少しだけからかってみようと思ったまでです! 今、何が起こったのかご理解いただけたようですね! そうです。あなたは、私達は今、現実空間にいます! と言っても、私達の姿や声は誰にも、どんな生物にも見えも聴こえもしませんがね!」 「……現実とは作られた世界なのでしょうか……? 私は今、現実世界に飛び込み、喜びを感じましたが、このような形でここに居ると、現実とは何か、どのような存在なのかが理解できません。」 「えぇえぇ! おっしゃりたい事は分かりますよ! しかし、我々には知りようがありません。あなたはこの世界の正体を知ることができたとして、何をどうしようと言うのですか! いいんです! 知らなくて良いもの、知らない方が良かった事、それもまた明日から学んでいくことができますので!」 「……それは確かにそうかもしれませんが……。分かりました。講義の途中に申し訳ございませんでした。」    講師は相変わらずニコニコしながら私に軽く一礼すると、話を戻すように続けた。   「先ほど申し上げました通り、このご老人はあなたの人生の先輩です。むしろ回りにいらっしゃる人々全てがあなたより先に人生を歩む先輩方なのです。ですが今はこのご老人について行きましょう。なぜならこのご老人、変わった問題を抱えておられるようですので、参考になるかと思いますよ! よーく観察し、よく彼の言葉や周りに注意してみてくださいね!」 「分かりました。」    私が講師からご老人に目向けたその時だった。涼しげな水色にところどころ美しい花が散りばめられた着物を着た、60代後半と思われる女性がご老人の隣に座った。そして体をご老人に傾かせ、話しかけた。   「お父さん、こんな気温の中また飲み物も持たずに散歩ですか。もう若く無いのだから、水筒くらい持ってくださいな。」 「……。」   「お父さん」と呼ばれていたご老人は何も返事をしなかった。だがこの女性からは叱りながらも、心から心配していることが伝わってきた。まるでそれは……例えるのなら、愛情。それも長い時間をかけて熟した愛。単純に言えば、この女性はご老人の妻なのだろう。歳相応のシワがあるが、この女性の可愛らしさを引き立てているように見えた。今までたくさん笑顔でいたのであろう。このご老人とも幸せな家庭だったことが想像できた。いや、あくまで私の個人的な推測や感想でしかないのだが。   「……行くか。帰ろう……。」 「おや、待ってお父さん。私も行きます。」    不器用な男とそれを支えてきた妻。と言ったところか。私は少し羨望の眼差しで彼ら夫婦を眺めていた。私も明日に生まれた後、こうして生涯の伴侶を見つけることができるのだろうか。これが不安でもあり、楽しみでもある、という複雑な感情なのだろう。……などと考え込んでいると、講師が後ろから小声で「置いて行かれますよ。」と囁き、私の前を歩き出した。私は慌てふためきながら夫婦と講師の後を追った。    長い田んぼ道を抜けると、広い庭を持った古民家が見えてきた。夫婦はまっすぐその家へ向かっていく。道中、妻の方ばかりが何かの話をしていて、ご老人は一言も口を開いていなかったように見えた。妻は笑いながらも時々話しかけているというのに、ご老人は不器用を超えている。まるで独りだけでいるかのような……。そうこうしていると、玄関まで到着してしまった。ご老人はサンダルを脱いでつま先を外に向けて置いた。妻がそれを褒める。玄関の目の前には二階に上がる階段があり、その手前右側に部屋があるようで、ご老人はその部屋へとすぐに入っていった。妻は部屋には入らずに玄関を掃き掃除している。「行きましょう。」と講師は私に言った。講師の後をついていくと、先ほどご老人が入っていった部屋に行ってしまった。私は躊躇しながらも、その部屋へと入っていった。先ほどのご老人が仏壇の前で座っている。そうかここは仏間なのか。私はふと仏壇を覗いた。そしてすぐに驚愕した。そこにあった遺影の人物は、紛れもなくこのご老人の妻であった。まさに今、玄関を掃除している妻である。私は理解ができなかった。なぜ、亡くなったはずの人間が、このように存在しているのか。すぐに私は後ろにいる講師に顔を向けた。   「分かりますよ! その表情でね。理解ができていない……いや、混乱しておられるようですね!」 「私は戸惑っています。なぜこのような現象が? そもそも、あの奥様はなぜ、亡くなっているのにそこにいるのです? なぜ、私たちの世界に戻らないのでしょう……。」 「……。実は講師である私にも謎の現象でございます! はたまた、私たちの世界の者ども誰一人として理解できている者はおりません! しかし、彼女のような存在を、現実では霊と呼んでいるそうです! なんともまぁ不思議な存在! 死してなお、この現実世界に未練があるのでしょう。留まりたいのでしょう。この方々の関係性からして、それほどの愛が溢れている……とでも推測しておきましょうか! あなたもいずれ、現実世界を生きていくと、愛に溢れる場面がございます! 誰にでも! 必ず! 対象は何でもいい! 人はもちろん、動物や植物、建造物や小物などの物! 愛とは生きとし生けるものが抱き悩み、無条件の幸福を全身に、心の隅々まで満たすことができる唯一無二の状態! と、私は思っております!」 「……なるほど……。ゆえに、あの奥様はこのご老人に対する愛が強いために、死してもそばにいたい……守りたい……そのような想いでここに留まっているのですね……。」 「さすがは優等生様! 彼女の事の理解が早い! しかし、それは良い理解ではない。ここに留まり続けても、私たちの世界に戻ることを拒み続ければ、恐ろしい事が待っています。」 「恐ろしい……事……。」 「失礼ではありますが、単純に申し上げますと、この現実世界での彼女の存在は、いわゆるバグなのです。現実世界ではおろか、私たちの世界でも解明できていない謎の存在なのです。どれだけ愛に死のうとも、彼女は早くこちらに戻らなければ、この世界自体が修正をかけようとしてしまう。つまり、彼女の存在は消えてしまうのです。いえ、消される……と言った方が正解でしょうか! 私たちの世界にも現実世界にもいられななくなります。もっと酷な事を言うと、無かった存在として、私たちの世界で処理されてしまうのです! あなたもいつか学びましたね?存在消去処理について。つまり今あなたが目撃しているこの状態は存在消去処理の対象となる事象になる可能性が高い。」 「確かに私は学びました……。しかし、しかしどうにか今戻るように説得できないものなのでしょうか……?」 「残念ながら、こちらの姿も声も彼女には見えも聞こえもしません。どうやら、霊であるうちは、現実世界に存在する者という扱いになるようなのです! あぁ! なんとも私たちは無力! 彼女の選択を見守ることしかできないのです!」    私は無言のままご老人の背中を見つめることしかできずにいた。もう再会は叶わないというのに、悲しみに暮れているその背中にはまだ愛する者への想いややるせなさを背負っているかのようだった。私は……私は人生を始めたら、もしこのような状況に身を置かれたら、一体どのようなことを感じ、思い、言葉にするのだろう。いや、そもそも私は愛を知らない。だがこの二人を見ていると、それが何なのか分かりそうな気がした。   「さあ、そろそろ行きましょう。まだまだ先輩方がいらっしゃいますので! いろんな境遇の先輩方を見学していきましょう! 時間も限られておりますので。」 「……分かりました。しっかりと勉強させていただきます。」    講師は相変わらずニコニコしている。そして右手を下ろしたまま指を鳴らした。すると講師の背後に人ひとり入れそうなゲートが現れた。映り出されているのは私たちの講義会場だ。真っ白な空間が私たちを待ち構えているようであった。講師に促されるまま私はゲートをくぐって行った。講師も私の後に続いて会場へと戻ってきた。  沈みかけた気持ちを保つのに私は精一杯だった。人の愛と不幸を一気に目の当たりにしたことで、気持ちが追いつかず、心が揺さぶられているのだろう。そうか、これが心の動きなのか。私はずっと自身の気持ちや心に無関心だったのかもしれない。同時に心臓が強く動き出した。   「大丈夫ですか? 相当、心を動かされたようですね! 素晴らしい! 人生を歩むにふさわしい!」    私は何も答えられずにぼーっとその場に立ち尽くしていた。わずかに私の人生に対する希望が揺らめいているのを感じた。   「では次の先輩方の所に向かいましょう!これは私が選んでいるのではありません。かといってランダムという訳でもありません。今のあなたの心の状態にふさわしいものをスクリーンが判断していますのでね!私もどのような方の所に飛び込んで行くのか分かりません!さあ!行きましょう!」    気持ちの整理が追いつかないまま、私の前に巨大なスクリーンが現れた。そしてゆっくりとズームインしていく。どうやら場所はよくある住宅地のようだ。そして、スクリーンはある少年の前で動きを止めた。   「では、行きましょう!」    またまた私は講師に促されるままにスクリーンの中へと入っていった。今度は秋ごろだろうか、冷たい風が優しく吹いている。少し肌寒さを感じるくらいだ。歩道に並ぶ街路樹は、赤くなりつつあり、いよいよ紅葉へと変わりそうな風貌をしている。そしてこの街路樹の影にいるのが、スクリーンに映し出された少年だ。年齢は十歳ほどだろうか。とはいえ立派な人生の先輩であることに変わりはない。私はよく観察して見ることにした。少年は何か考え事をしているかのようだった。顔を下げ、どこか悲しそうな表情をしているのがわかった。少年はそのまま歩き出した。どこへ向かうのか、私たちは無言のまま後に続いていった。道中、私の後ろを歩く講師が、私を観察している気がして、集中できなかった。前を歩く何かを抱えている少年。この子は一体どこへ向かっているのだろうか。  目的の場所に到着したのか、少年が立ち止まった。そこは丸い敷地の公園で、ちょっとした運動くらいはできそうな遊具が隅々に設置されている。少年は公園に入ってすぐ左側の、フェンス沿いに三つ並ぶ、二人掛けのベンチの一つへと腰を下ろした。そして一定の方向をじっと眺めている。どうしたのだろうと不思議に思い、その方向に目をやると、十人ほどの少年少女たちが楽しそうに遊んでいた。私は状況を瞬時に察した。この少年は輪に入ってみんなと一緒に遊びたいのだろう。だが何か訳があり、入れないでいて、見ているだけになってしまっているのだ。私はそう推測した。そしていつの間にか私の隣に講師が居てこの場に来て初めて口を開いた。   「なぜでしょうねえ。一緒に遊ぼう、といえば良いだけの話なのに、なぜ言わないのか!  もしかしたら言えないのかも知れませんね。少年とは言え、複雑な事情があるものです! もう少し様子を見てみましょう!」    その時だった。少年の足元にサッカーボールが転がってきた。少年は少し戸惑いながらもボールを拾おうとした。   「触るな!」    そう叫んだのはこちらに猛スピードで走ってくる少年だった。   「絶対ボールに触るなよ! 今俺が自分で拾うから! 動くなよ!」 「……わかったよ……。」 「聡太さぁ、あまり外に出るなよ。病気ばら撒いてるのと同じなんだよ。迷惑なんだよ!」 「……病気なのは僕じゃなくてお母さんだよ……。僕は平気だよ。だから、みんなと一緒に遊びたい。」 「普段その母親と一緒に暮らしてるだろ! お前も病気を持ってる可能性あるだろ。だから外に出るのが迷惑なんだ。俺らの楽しみを奪うな!」  聡太は黙ってその場に立ち尽くしていた。いや、それしかできないのだ。これ以上反論  すれば何を言われるかわからない怖さがあるのだ。聡太を囲む野次馬たちは笑いながらもあの少年に「言い過ぎだって〜。泣いちゃったら面倒だよ。」などとふざけている。そして少年は恐る恐る聡太に近づき、勢いよくボールを拾うと、駆け出して行った。野次馬もそれに続いて行った。   「講師、これが私の心にふさわしいとスクリーンが判断したというのですか。先ほどのご老人といい、この聡太君といい、私の心が不安定だという事なのでしょうか。私は心のことなどわかりませんが、あまり良い気分ではありません。」 「あなたの今ままでの成績はそれはそれは素晴らしいものでした!資格を網羅しテストも全て高得点!ですが、ひとつ苦手な部分があるようです。それが何かはまだ、お教えできませんが、すでにあなたの中で芽生え、動いているはずです!」    一体なんの話なのか私には分からなかった。隣では涙を堪え、顔を疼くませている聡太君がいる。もしこの私の声が聞こえたらすぐに励ましたい。そう思うのは私だけじゃないはずだ。気持ちだけでも……と、思いながら私は聡太君の隣に座ってみた。今にも涙がこぼれそうなほどに目に溢れている。すぐにでも声をかけてやりたいのに何もできないこのもどかしさに、イラつきを覚えた。  少年たちが帰る頃には、太陽が沈みながら夜の訪れを告げるように、真っ赤な夕日が公園を照らしていた。すると聡太君はゆっくりと立ち上がり、突然足元の土を自身の服に塗りたぐっていった。私は驚きを隠せないまま聡太君をじっとみている頃しかできなかった。一体この子は何をしているのだろうか。私は講師の方に目をやった。講師は両手をあげ、(わかりません。)と口パクした。聡太君に目を戻すと、顔にまで土をつけている。私はパニックでも起こしてしまったのかと思い、かなり心配で不安だった。土をつけ終えたのか、聡太君は走り去って行った。   「おや、ずいぶん足が早いのですねえ! 置いていかれないようについていきましょう!」    私たちは聡太くんを追いかけた。市街地を駆け抜け、ほとんど変わらない景色が通り過ぎていった。そして聡太君はとあるアパートの前で止まった。階段をゆっくりと登り、一番手前の部屋へと入って行った。私たちもすかさず中へ入って行った。玄関に入ってすぐに居間が見えた。六畳ほどの畳の部屋には、テレビと長方形の黒いテーブルのみ置かれていた。聡太君は居間の奥に駆け込んで行った。そこは寝室で、布団が敷いてあり、手前の布団には誰かが横になっていることが分かった。瞬時に私は聡太君の母親だと理解した。   「聡太、帰ったのね。またそんなに汚して。たくさん遊んできたのね。楽しかったでしょう?」 「うん!みんなでボールで遊んだんだ! すごく楽しかったよ! 洗濯はお父さんが帰ってくる前に済ませておくよ。たくさん汚れちゃったからね!」 「聡太、いつもごめんね……。いつもありがとう。お母さんが元気になったら、おでかけいっぱいしましょうね。」    私はあまりにも悲しみでいっぱいだった。聡太君は自分の母親のために、自らを汚し、遊んできたと言っていたのだ。輪にも入れてもらえずに、ましてやひどいことを言われても、母親の前では笑顔でいる。安心させるためとはいえ、心が痛んで仕方なかった。すると、講師が口を開いた。   「この子の強さを感じますか?大好きなお母さんのために涙を拭い、優しい嘘をつく。子供なりに苦しみに耐えながら、お母さんを安心させたいがために。この子の心の居所が気になりますね。あなたはどのように思いますか?」 「私は……できることなら、この子のそばにいながら話を聞いてあげたいです。聡太君の望みを、思いをしっかり聞いてあげたいです。私は聡太君を助けたい……。」 「あなたは本当に素晴らしい人間だ! 私も同感です。しかし注意すべき部分がありますね! わかりますか?」    私はその問いにしばらく考えてみた。そして私はまた、混乱してしまった。   「……答えは聡太君のご両親ですよ!何かのきっかけにより、聡太君の現状を知ってしまったとしたら、私は大変なことになり得ると思いますよ!」    私はハッとした。確かにこの現状を知ってしまったら、心配でたまらなくなる。むしろ親という立場であるからこそ、自身が病に伏せているからこそ、母親は自分を責めるだろう。聡太君を苦しめているのは自分だと、笑顔を作らせていたと心から責め続けるだろう。それは絶望に近いのかもしれない。私は今まで希望ばかり抱いてきた。なんと愚かなのだろう。世界を問わず、希望も絶望もあるのに、私は希望ばかりに目をやってきた。それは悪いことではないが、私は今気付かされた。全ての者たちが希望と絶望を抱きながら生きていく運命にあるのだと。もしも片方が極端に強い場合、人は希望であれ絶望であれ、自身を見失う可能性があるということを悟った。   「相当考え込んでいるようですね! 大丈夫ですか?では一つ、私から安心できる事を差し上げましょう! あなたはおそらく今、とても深い思考の中にいますね。希望とか、幸せとか、あるいは絶望的な事とか! でもご覧なさい。聡太君は嘘をついても、母親に向ける笑顔は本物に見えませんか? そしてその笑顔は母親をも笑顔にする。確かに私が先ほど申し上げました通り、注意する部分がございますが、彼らは今、それでも幸せを感じているのです! そう、聡太君は今は耐えて母親を守っているのです。なんとも強い子だ! お父様が帰ってくる頃には、家族三人幸せに笑って話していることでしょう! ……それにしてもあの少年たちはいけませんね。未熟ゆえの純粋な意地悪と偏見と愚かさ。彼らもまた、人生を歩みながら学んでいき、いつか愚かだった自分を悔やむことでしょう! そこでまた一つ学ぶのです。」    いや、未熟なのはこの私なのだ。講師のような思考をできなかったのだから。しかし、それで良いのかもしれない。人生を始めたら、私も学んでいくのだろう、壁にぶつかりながらも、私は確実に前に進んでいくのだろう……。   「さあ、そろそろお時間です!次へ向かいましょう!」    講師がゲートを出現させる。私は重い足でゲートの中に入っていく。講師も続いてゲートをくぐる。振り向いた時、ゲートが閉じかけていたが、聡太君の幸せそうな笑顔が見えた。私はその笑顔が見えなくなるまで聡太君をみ続けていた。    会場に戻った私は、ドッと疲れていたので椅子へ乱暴に腰掛けてしまった。講師はその様子をニコニコしながら見ている。「休憩しましょう」と、水を出してくれた。私はすぐに水の入ったコップを手に取り、一気に飲み干した。これは身体的な疲れではない。精神的な疲労である。まだ次の見学が残っていることを講師に告げられた。しかし私のタイミングで声をかけてくれとのことだった。  ここまでの人生の先輩経ちの見学はかなり心に響き、重く辛く感じたのが正直な感想だ。しかし、気になることがある。スクリーンが私を見定めて判断をし、見学対象の人物を選定しているようなことを講師は言っていた。それが本当なのであれば、私に足りない部分を見せているのだろうか? それとも単に希望ばかり抱いている私に人生の荒い部分を見せているのあろうか? 明日、出産されるとこのことは忘れてしまうが、私がここに舞い戻った時には記憶が戻るシステムだ。もしかしたら、人生を知り、ここに戻った時にようやく自分なりの答えを見出すのではないだろうか? 生きているうちではなく、死した後に己の答えを出せと。私にはそう感じている。いずれにせよ、人生はしっかり生きていくものなのだと感じた。  少し落ち着いてきた頃に私は講師に「もう大丈夫です。」と告げ、次の先輩のところへと向かうことにした。   「もう大丈夫なのですか? なら安心ですね! では次の見学に向かいましょう!」    相変わらず巨大なスクリーンが現れると、一人の男性がいた。アルバムと思われる大きな冊子を胸に抱いている。そしてその男性は私が今まで見たこともない大粒の涙を流して何かを呟いている。   「うう……グスッ……ごめんな……本当にごめん……。」    アルバムを抱きながらここまで涙を流しているということは、何か悲しい事情でもあったのだろう。私はその姿に苦しみに近い感情が見えた気がした。   「見るべき場所はこちらのようですね……。」    講師は後ろを振り向き左手であるものを指差した。……まさかあれは……。  仏壇だった。そして写真が二枚ある。綺麗な女性の写真と、生まれたてであろう赤ちゃんの写真。私はすぐに察した。そしてこの男性の大粒の涙の意味を理解してしまった。   「僕はどれだけ、この悲しみに打ち勝っていけるかわからない。でも、でも君たちに出会えて、本当に幸せなんだ。本当はもっともっと君たちを愛していきたかった。お母さんと僕と君で、たくさんの笑顔と幸せを育み、たくさんいろんな場所へ行き、君たちを守っていくはずだった……。お父さんを選んでくれてありがとう。この腕で抱かせてくれてありがとう。そして絵美、僕と結婚してくれてありがとう。お母さんになってくれてありがとう……。もう、もう叶うことはないけど、また君を抱きしめたい。二人の所に行きたいよ……。どうして、どうして……、どうして、どうして……。」    お父さんの涙がどんどん溢れ出していく。写真を胸に抱きながらその場に崩れた。失われた愛を、取り戻せない愛を、一生懸命に抱いている。   「人生では、望まぬ形で失う大切な愛がございます! 何者かに奪われるのか、事故なのか、病気なのか、それとも自分自身なのか! いろんな状況がございます。この方は残酷とも言える悲劇に襲われたようですよ。」    私は講師のその言葉に反応した。   「この方に何があったのか分かるのですか……?」 「分かりますよ。この現実世界では一人一人私共が人生の記録を一秒たりとも逃さず記録しておりますのでね! ……この方の記憶、見てみますか?」    私は考えた。このお父さんの悲劇を目の当たりにした時、私はどのような影響を受けるのだろうか。生まれることに対して恐怖してしまったら? 私の心が、身体が、躊躇している。しかし私が次に放った言葉は簡単に発せられた。   「見せてください。」 「よろしいでしょう! では彼の記憶をお見せしましょう!」    私は自分自身に驚きながらも、講師の手のひらの上に現れた小さなスクリーンに目をやった。そこに映し出されたのはお母さんの絵美さんであった。お腹がかなりふくらんでいて、少し苦しそうだ。きっと産気づいているのだろう。どうやら場所は車の後部座席のようだ。運転しているのはお父さんだった。焦っている様子で車を運転している。額から汗が流れ出ていた。赤信号で車を止めた時、お父さんは後ろを振り向いて絵美さんの様子を伺いながら必死に声がけをしている。その時だった。画面が一気に変わった。目の前にはお父さんがこちらに振り向きながら何かを言っている。その時初めて外が大雨だということに気づいた。これは、絵美さんの視点だ。絵美さんがみてる情景なのであろう。お父さんの横、運転席の向こうから光がものすごいスピードでこちらに左折してきた。しかし何かがおかしい。明らかにこちら側に寄りすぎだ。中央分離帯に激突した時にトラックだと分かった。絵美さんは大声でお父さんに「逃げて!」と叫んだ。お父さんが前方に体を戻した瞬間、スピードがおさまらないトラックの荷台が衝突した。たくさんの足場用の鉄パイプと思われるものがこちらに飛び出してきた。そのうちの二本が絵美さんの肩と胸を貫いた。そして絵美さんの目は閉じた。  シーンが変わり、病院の手術室と思われる部屋でお父さんがぼーっと立ち尽くしている。私はお父さんの腕の中に何かを抱いていることに気づいた。そして抱いているものを見てはっと息を呑んだ。腕に抱かれていたのは赤ちゃんであった。しかしもう、絶命しているのであろう。お父さんの空虚な眼差しがそう物語っている。横にはシート被せられた絵美さんであろう姿があった。そして映像は終わった。  私は心から込み上げてくる苦しみや悲しみといった感情に堪えられなかった。涙が溢れ、頬を伝っていく。今しがた目の当たりにした悲劇に、私は何も考えることができなかった。   「人の悲しみには、それぞれ事情があり、その深さは様々なのです。この件に関しましては深く底の見えない悲しみを感じ取ることができたでしょう! ですが他の方々が抱く悲しみは? あなたが今抱いている悲しみは? あなたが明日から人生を始めたら、自身のことを含み、いろんな方の悲しみに触れていくことでしょう。ですが、話の大小問わず、ちゃんと話を聞いてあげてください。共感して下さい! そしてそばで寄り添いましょう。心から。あなたが思う以上に、深い悲しみを抱く人もいるという事を忘れてはいけません。しかし人と人との悲しみは連鎖していく場合もございます。くれぐれも深入りしすぎないように! 人生で十分学べますから! いろんな人の助言によってね!それでは戻りましょう! 時間ですので!」    講師はゲートを開くと、すぐに会場の中へと戻っていった。私も無言のままゲートを潜った。振り向くことができなかったが、啜り泣く声がそっと消えていった。      私の心は不安でいっぱいになっていた。こんな光景を見せられると、流石に精神が疲れてしまう。目的や理由なども分からず私は何をしているのだろうか? 急に明日から始まる現実世界での人生が怖くなってきた。   「あなた様は本当に敏感な方ですね! ひとによって様々ではありますが、びくともしない方も今までにいらっしゃいましたよ! あと二名ほど、見学が残っています! 時間も限られていますのでサクサク進みましょう!」 「そう言われましても、私は少し限界がきているような気もしています。怖いのです。明日から始まる人生が! どのような環境であれ、私は真っ当に生きていける自信はないし、出産を経て全てを忘れ、一から物事を始めるなど恐怖でしかありません!」 「……。それで良いのです。人生に自信を持てる人間などは極々限られた存在の方々のみでございますから。現実世界の明日は優しさしかないと? 希望しかないと? 誰もが胸を張って朝に目を覚ませるとでも? 今ままではどうでしたか? たくさんの試験や交友関係、教員からの叱咤激励、自分自身の努力! 毎日不安と希望が入り混じってはいませんでしたか? 私はあなたを優等生と表現しました。ですがそれはあくまでも成績をもとにした私自身の感想にすぎませんよ。あなたの心は成績に見合わないほどの不安定さを持ち、揺れやすい。まるで、短く燃え尽きそうな蝋燭の火のようなものでございます。人生にパーフェクトはない。などと申す者もいますが、私はそれを否定します! パーフェクト、つまり完璧というものは確実に存在します! 現実世界は常に二極性の中にあります! 男と女! プラスとマイナス! 光と闇! それらが時間という者の存在により制御されている。人々はその中でしか生きていけないようになっている! だからこそ人生は尊く大切に生きて行かなければならないものなのです! その不安定な存在として生まれた者たち全てが完璧な存在なのです!」    私はこの講師の説得に大きく影響されそうになっていた。このような講義は今ままで聴講したことなどなかった。私は最終出生前講義を少し侮っていたのかもしれない。正直に私は感動している。一気に心を覆う雲が消え去り、陽が差し始めたような気分だった。私は勉強ばかりに集中している日々を送っていた。試験期間は一切友人たちとは会わず、ともに過ごさず、教員になることを目指して、この道が正しいと信じて歩んできた。私の踏み出す足は決して軽いものではないが、歩幅や歩く速さは不安定だったのだと気付かされたのだ。あと二人、見学するべき先輩がいるのだ。こんな所でへこたれている場合ではない。ましてや明日出産できることを許された者として、確実にこの講義を受け切らなければならないのだ。これは始まりではない。スタート地点に立つ前の運動。明日から私は自分で人生の地図を描き始めなければならない。私は私だ。出産された後もそれは変わらないだろう。   「講師。準備が整いました。私に次の人生を見学させてください。」 「よろしい! さすがは優等生どの! 立ち直りも早いのですね! それではお望み通り、次に進みましょう!」    巨大なスクリーンが瞬時に現れた。私は構えた。スクリーンに打つし出されたのは、薄暗い空に沈んでいく真っ赤な太陽であった。それはまるで強く光を放つ、燃え盛る命にも見えた。そしてその燃える命に照らされた、無限を感じさせる穏やかな海。その情景は命を優しく冷静に見守っているようであった。それは大自然が作り上げた、宇宙の理に感じるほどであった。そして今回その美しい風景の中で焦点を合わされたのは、一人の学生らしき人物であった。制服を雑に着こなしている。どうやらあまりいい生徒ではなさそうだ。普段からヤンチャをしていそうな、そんな雰囲気を醸し出している。そんな彼の目は遥か海の向こうをじっと見つめている。まるで何かを見ようとしているかのような、切望を感じる目をしていた。彼はどのような人生の中にいるのだろうか。   「まず彼に何があったのかを見ておさらいしておきましょうか! このまま彼を眺めているのはタイムロスになりますから!」    すかさず講師は手のひらを出し、あの小さなスクリーンを出現させた。私は彼の記憶に集中することにした。  映し出されたのはどうやら幼い頃の彼自身のようだ。少年はひたすらに森の中を走っている。風すらも追いつかないほどのスピードを出しているかのような軽快な走りだった。そして少年が到着した場所は、大海原を見下ろせる断崖の先であった。そしてそこにはもう一人、少女が背を向けて立っていた。あの沈む太陽も見事なものだが、日中の日差しに照らされているこの海もまた美しかった。   「さやか! さやか! 遅くなってごめん! 突っ走ってきた!」 「もう、だいきはいつも遅刻するんだから! 私そろそろ帰ろうかと思ってたのよ。」 「本当ごめん! じーちゃんの漁の手伝いに手こずってたんだ!」 「もう、いつも言い訳ばっかり。私のことなんかどうでもいいんでしょ。」 「そ、そんなことないって! いやー、今日もいい海だよな!」 「すぐ話逸らすー! ま、だいきらしいね。」 「うるせえな! それで話ってなんだよ? こんな所まで呼び出して。」 「話……の前に! 昔話しようよ。みんなで遊んでる時の話とか、今だから言えることでもいいし、何か話したいな。」 「なんだそれ。だったら普通に呼び出した理由の話をすればいいじゃんか。」 「全くもう、少しだけ! いいでしょ? お願い。」 「仕方ないな……。じゃあ今だから言える話にするか! 俺、漁師は目指してないんだ! でも海は好きだ。だから、船乗りの冒険家になりたい! この島だけじゃなくて、外の世界を知りたいんだ。みんなとは離れ離れになるけども、俺の夢だからさ!」 「えー! 意外! ずっとここに住んで漁師になるんだと思ってたのに。」 「意外か? ずっとここから出たいと思ってたぞ?」 「……そっか、そうなんだ。安心した! スッキリもしてるかも!」 「はあ?何のことか意味不明だぞ! まあとにかくだ! その夢は大人になってからの話だからな、それまでいつもみたいにみんなと一緒に過ごしていたいと思ってる。大人になったらさよならだぞ、さやか。」 「……。」 「ん?どうしたんだよ急に黙りこんで。」 「あのね。ここに呼び出した理由ってやつなんだけどね。」 「ようやくか。早く話せよ。」 「私引っ越しするんだ。」 「まじか! もしかして島の反対側の町か?」 「……ううん。私、お父さんの仕事の関係で島を出ることになったの。」 「……え。」 「ごめんね。明日もう行っちゃうから、お別れの挨拶をしにきたの。だいき、今まで本当にありがとう。いつか再会できるといいね。私と友達でいてくれてありがとう。」 「……なんだよそれ……。俺たちから離れるって言うのかよ! しかもこんな早い段階で! そんなのダメだろ! 大人になるまで、俺が旅立つまで、一緒にいるんじゃないのかよ……!」 「……もう決まったことだから。ごめんね。」 「……。」 「あのさ、だいき。だいきにとって私はどんな存在……?」 「どんなって……。さやかは……友達だよ……。」 「そっか、わかった。友達でいてくれてありがとう。」 「なんだよそんな改まって。まだ時間あるなら少しこの海を眺めていこうぜ。」 「ううん。私時間ないからもう帰るね。だいきも早く帰るんだよ?」 「……おう。」    講師がスクリーンを閉じた。時間が無いのだろうか。私はあの少年の、この彼の気持ちに嘘を感じた。本当に伝えたかったことは別の想いで、照れくさいのと突然の質問にあのように答えてしまったのだろう。さやかと名乗るあの子は今も、彼の眼差しのずっと向こう側にいて、彼の知らぬ世界で新たな生活をしているのだろう。私が彼を見つめていると、講師が言った。   「想いというのはその時その時に的した瞬間に伝えないと、後悔に変わることがございます! つまりタイミングが大事ということです。あの時、少年だった彼が正直な想いを告げていたら、今の彼の目には光が灯されていたでしょう! しかし! あのような孤独で後悔にまみれた眼差しをしている! そして彼はいまだにここに来ては、追憶しながらも根拠の無い希望を持っていると、私は考えます!」 「……根拠の無い希望とはなんでしょうか?」 「あの子のことをここで待ち続けているのか、いつかあの子の元へと行こうとしている。ということでしょうかね! しかしどちらも確実な根拠がない! そして彼は自身の無力さに気がついてしまう! それは彼を追い詰め襲いかかる! あぁ! なぜあの時の自分は愚かなことをしたのだろう! 子供だった、未熟だった、どれも言い訳にしかならない! ……失礼。少々熱くなってしまいましたね。これこそが人生で学ぶ瞬間でもあります。人は失敗をすることで学びます。改良します。そしていつか近い将来、役に立ち成功する! その時に過去の後悔が感謝に変わる! 自分への感謝にね!」  確かに彼の眼差しには光はない。この世界のどこにも存在しないような深い後悔を感じる。だが彼はあの時に船乗りの冒険家になりたいと言っていた。私はあまり現実的には感じず、子供の夢だなと感じていたが、もし、彼なりにこの島を出る方法を成長した今に考えついているのなら、あるいは……。きっと講師の言う近い将来の成功に辿りつけるのだろう。しかしこれほどまでに海の向こうに行くことを切望していると言うのに、なぜ光の無い目をしているのか。私はそこが引っかかっていた。その時だった。   「おい、だいき。またこんな所に来ていたのか。お前の気持ちも大事なのはわかる。だが日も暮れてきている。明日はいつもより早く漁に出るんだ。もう帰って飯を食い、風呂に入って少しでも長く睡眠を取れ。」 「……親父。俺は、俺は絶対にこの島を出る! 何度も言うけどよ、俺は漁師にはならねえよ! いつか島を出て、あいつに会いに行くんだ! それが、それが俺の!」 「聞いてないのか? さっきさやかちゃんのお婆さんが言っていたぞ。今、さやかちゃんには恋人がいて、その相手は相当な富豪の息子らしくてな。許嫁でもあるそうだ。双方の親の同意があるということだ。父さんが思うに、お前がいつか島を出てさやかちゃんに会えても、もうお前の想いは実らないし、迷惑にすぎん。女ならこの世界にたくさんいる。他に目を向けることだ。そこまで一途になれるのなら、いい相手が見つかる。何もこの島を出るなとは言わないが、お前が今やるべきことは何なのか、しっかり考えろ。さ、帰って飯にするぞ。あまり母さんに心配をかけるな。」    彼の父親はそう言った後に先に帰路へ立った。そして講師が言った。   「時間です。行きましょう!」    講師は私に背を向けてゲートを開いた。私は彼の方を振り向いた。彼の背中は、絶望と諦めの悪さで震えているように見えた。私は小さく、頑張ってくれ、と言った。周りはすっかり暗くなり、月が闇に溶けた海を照らしている。その優しい光が、彼の心も照らしてくれることを願い、私はゲートをくぐって会場に戻った。    会場に戻った私は相変わらず言いようのない気持ちでいっぱいになっていた。だがきっとこの気持ちを引き換えにして私は前に進んでいくのだろう。相変わらず講師はニコニコしている。彼はこれまで、何人の方々を見送ってきたのだろうか。私は聞いてみた。   「講師、あなたはこれまで何人の方々を見送ってきたのでしょうか?」 「おや、個人的なことを質問するだなんて、初めてでございますね! 急にどうしたのです?」 「いえ、何となく気になったもので……。すみません、この講義に関係ありませんね。忘れてください。」 「フフ! 答えることは可能でございますよ! しかし、データを見なければ私も分かりませんねぇ。私の前任の講師がこの最終出生前講義で一番多くの人々を見送ったようですが。確か……三千年分の人々だった気がしますねぇ! あぁ! 我が師よ! 今あなたはどこで何をしているのか!」 「三千年分の……人々……!」 「師匠いわく、偉人や英雄、王や独裁者になった者もいたとか!まあ、我々の血を引いた者たちなので、いろんな人間が生まれてもおかしくないでしょう! 師匠の見送った者の中でも私が好きな人物がおります! 彼の名はレオニダス! 彼はスパルタの王であります! テルモピュライの戦いではわずか三百の兵士だけで、二十万と伝わるペルシア軍と互角に戦ったのです! そして凄絶な死を迎え、この世界に舞い戻りました。そして彼は今、この私たちの世界を支えるコアを守護する最高守護兵士の一人なのですよ!」 「そうだったのですか! この世界のコアを守る兵士がいることは周知の事実ではありましたが、そんな方が兵士の中にいたとは……。」 「話が逸れてしまいましたね!申し訳ございません! では最後の先輩のもとへ向かいましょう!」    講師は勢い良くスクリーンを出現させた。最後の先輩はどんな方なのだろうか。私は今までの先輩のことを思い出すと、少し見学する気分が失せていくのを感じた。最後のスクリーンに映し出されたのは、少し雪が残る街並みだった。鈍色の空からは、小さな雪がマイペースに落ちて来ている。その様子から、街にはあまり風は吹いてないようだ。だがそこそこの気温なのだろう。行き交う人々は寒そうに凍えながら歩いているようだった。今回その中で先輩として選ばれたのは、一人の少女であった。背丈からして、中学生ほどの少女だろうか。ベージュのロングコートに深いオレンジのマフラーを巻いていて、ライトグレーのニット帽を被っている。一見するととても暖かそうな外見をしている。私たちはいつものごとくスクリーンの中へと入って言った。少女の顔はとても整った顔立ちをしていて、きっとクラスでも人気があるのだろうと思われた。彼女はずっと、とあるお店のウインドウを眺めていた。そこは洋菓子などを売っているお店のようだった。そして彼女が熱心に見つめているものはチョコレートであった。四角い箱の中にハート型のチョコレートが煌びやかに装飾されている。   「現実世界では様々なイベントがございます! どうやらもうそろそろバレンタインデーのようですね! あぁ、恋焦がれた女性たちがチョコレートを買ったり作ったり、恋心を乗せて意中の人へと渡す時期! 美しいイベントなのです!」 「そのようなイベントが現実世界には存在するのですね。とすると、彼女には想いを寄せる男性がいると言うことでしょうか?」 「どうやら、そのようですね!」    すると、彼女は決心したように店内へ入り、ウインドウに並んでいたあのチョコレートを指さして店員へと何かを話している。きっとこのチョコレートを買うのだろう。少しだけ、私はワクワクしていた。彼女の淡い恋心は一体どんな男性に向けられているのだろうか。私には興味があった。   「過去の記憶。見てみますか?」 「いえ、今回はこのまま見守ってみることにします。」 「しかしカレンダーを見ると、バレンタインデーは明日のようですね。先を急いでみますか!今すぐ明日へ向かいましょう!時間も無くなってしまいますので!」 「未来にも行けるのですか?」 「おっと……!そういえば説明しておりませんでしたね! 確かにあなたは今まで先輩たちの人生を見学してきましたが、どれも過去のものなのです! いわば卒業生……、とでも表現しておきましょうか。もしかして、明日出産される一番近い時代を見学したかったですか?申し訳ございませんが、教員志望のあなたには規定により明日から十年以上前の先輩方の記憶しか見学させることはできません。ですが、今回の彼女が一番近い時代のようですよ!」 「そうでしたか。てっきり、私が生まれる時代の、まさに今人生を歩んでいる方々の見学ができていると勘違いしていました。申し訳ございません。」 「謝らないでください!私の説明不足ですから! では、彼女の明日へと向かいましょう!」    講師がゲートを開くと、向こう側に見えたのは学校の教室のようだった。私はゆっくりとゲートをくぐり、周りを観察してみた。綺麗に整列した机と椅子。黒板にチョーク。後ろにはロッカーが並んでいる。間違いなくここは学校の教室であった。もう誰も居ないようで、冬の寒さがしんみりと教室を漂っている。窓の外から見えるのは学校の校門だろうか、帰路についている学生たちがちらちら見える。中には男女のカップルもいて、男子生徒の手には紙袋があった。きっと中身はバレンタインデーのチョコレートだろう。買ったものか、手作りなのか、いや、何よりそれはきっかけにすぎず、女子生徒の想いを告げる手助けになっているものなのだろう。正直な気持ちを打ち明けることが大事なのだ。そして今日はそのタイミングが掴みやすい日なのかもしれない。と、私が色々と考えている時だった。後ろの方からドアを開ける音がした。私と講師は振り向いた。教室に入ってきたのは、昨日の彼女だった。右手には紙袋がぶら下がっている。そして後ろに隠すように両手でしっかり持ち直した。少し息が荒いようだったのが気になった。まるでどこからか急いでここに向かったきたかのような。   「ここで彼女は何をしているのでしょうか?」 「待っているのですよ! 恋焦がれる彼を! ドキドキしますねぇ! この恋は叶うのか、見ものですね!」 「ひょっとして、ここに気になっている男子生徒を呼び出している……、と言うことでしょうか?」 「そうかもしれませんね。……あるいは……。」    講師が何かを言いかけた時、黒板側のドアが開いた。そこに入ってきたのは比較的若い青年だったが、しっかりとスーツを着ていることから、教師なのだと分かった。何ということだろう。今からここに彼女が呼んだ男子生徒が来るというのに、邪魔にならなければいいが。   「おや、松森、まだここにいたのかい? てっきりこの教室は誰もいないものかと思っていたよ。先生、忘れ物しちゃってね、取りに来たんだ。そしたら松森がいるもんだから驚いたよ。」 「す、すみません……! 忘れ物ってこれですよね、先生の赤ペン。」 「そうそう、それだよ。僕の大事な赤ペンでね。イニシャルの刻印もしてあるんだ。なぜ、松森が持っているんだい?」 「あ! えーっと……。黒板の下に落ちていたので拾っておきました! イニシャルから先生の物かなって思って、と、届けようとしてました……。」 「そうだったんだね、ありがとう。」    ありがとう、という言葉と、咄嗟の言い訳に彼女の顔が真っ赤になっている。まるで風邪をひいているよな赤さだった。   「……松森、君、少し顔が赤くないか? 寒いから風邪でもひいたんじゃないかな。どれ、おでこを出してごらん。……少し熱っぽいかもしれないな。早く帰って、ゆっくり療養しなさい。土日挟むから、月曜までに直して来なさい。」    彼女の顔はますます赤くなっていく。今にも爆発してしまいそうだ。みているこちらまで赤くなってしまいそうになる。しかし、この様子。まさか、彼女が想いを寄せる相手はこの教師なのだろうか。いや、間違いなくこの教師だろう。年齢もそこまで離れてはいない様子に見えるが、教師と生徒の恋愛はここの時代ではどのように見られるのだろうか。私はそこに疑問を抱いた。   「それじゃ、松森、月曜日に元気になって登校してくるんだよ。それじゃあね。」 「帰りません! ……いえ、帰れません……。」 「きましたね! ハラハラドキドキですね!」    私の講師はこの光景を本気で楽しんでいるように見えた。人の恋愛を何という見かたをしているのだろうか。   「どうしたんだい? 何かあったのかな? 先生でよければ話を聞こうか。」 「私は……私は、先生に助けられたことがあります! 先生が覚えているか分からないけど、私がいじめられている時、先生はその子たちを叱るだけじゃなく、私のことを心配してくれました。毎日学校帰りに私の家に来て、プリントを持ってきてくれて、その度に私の様子を両親に聞いていたのを知っています! 私が登校再開した時、ほとんど毎日お昼を屋上で過ごしていました。でも私は孤独じゃなかった。先生が私のそばで一緒にお弁当を食べてくれました。私は、私には大きな心の支えになっていました! 最初は恩返しのために毎日学校にきて勉強をして、いい成績も取るように心がけました! でも、でも私の気持ちに、本当の気持ちに気づいたんです! 私は……、私は先生が好きです! 教師を恋愛対象にするのはおかしいかもしれません! でも私は、私は槇村先生のことが大好きなんです! 今日はバレンタインデー……。これを受け取ってください! お願いします!」    彼女は涙を流しながら、今までの感謝と、抱いている想いを告げることができた。あとはこの教師の出す答えだが……。   「ごめんね。受け取れない。」 「……なぜですか。」 「僕は教師としてすべきことをしたまでだ。君だけじゃない。生徒皆に平等に接している。だけど、君のことが心配でたまらなかったのは事実だ。毎日君のご両親とお話しをして、どうにか登校再開できないか相談し合った。そして君は大きな勇気を出してこの学校にきてくれた。僕は本当に嬉しかったんだよ。それでも当分独りにさせる訳にはいかないと、行動していたんだよ。松森、君の気持ちは分かった。しかし教師として大人として、人生の先輩として、真剣に君の気持ちへの答えを出したんだ。」 「私はまだ子供すぎますか……?ならこの高校を卒業したら、大学へ進学できたら、私と付き合って下さい! 私は、先生のそばで笑っていたい……。」 「ごめんね。それも叶えられないんだ。先生はね、今、婚約者がいる。そして彼女のお腹には赤ちゃんがいるんだ。人として、男として守るべきものは新しい命と妻になる人だ。でもね、忘れないでほしい。教師として、松森や皆を卒業まで守っていくことを。どうか分かってほしい。君たちがいるから、僕は教師として成り立っているんだ。」 「そう……だったんですね……。」 「そう。だから気持ちは嬉しいけど、それは受け取れない。おにぎりならよかったけどね。」 「……フフ。何ですかそれ、振った女の子に言う言葉じゃないですよ。あはは。」 「さすがにこの時間になると腹が減るのさ。ほら、先生大食いなのは知っているだろう?」 「確かに! いつもすごい量のお昼ご飯食べてましたよね。お弁当とパンにデザートまで。」 「あはは、太らないのが不思議だよね。それじゃあ松森、まだ顔も赤いし、きっと今夜熱が出るだろうから、早く帰りなさい。」 「わかりました! 失礼します鈍感先生! また月曜日からよろしくね!」 「ど、鈍感先生……?」    彼女は想いを告げられたのと同時に、心の中で何かスッキリしている様子だった。どうなることやらと思ったが、さすが教師である。すぐに彼女を笑顔にできた。それは今まで培ってきた信頼関係のなせる事なのだろう。私もいつか教員になれた時、私の持つ生徒たちにこのような信頼関係を築いていけるように精進しなければならい。人気の教員……というよりも、信頼のある教員になりたいと思った。誰よりも輝く命などは存在しないと私は思っている。皆等しく平等に命は輝きを放っているのだと思う。それは様々な色をしており、炎のように強く燃えているのだ。そしていつの日か、炎が尽きた時、本当の人生の答えを、その人なりの答えを見出すのだろう。そのためには生き続けなければならない。死を迎えるまで、人生の完成に向けて、歩んでいくことが大事なのだ。人生はまさに冒険だ。大海原に船出するように、自分だけの帆を掲げ、穏やかな波や荒波を越え、飲まれ、沈みかけても修復し、昼も夜も前に進んでいく。新たな島を見つけては、恐る恐る上陸し、探検して攻略していく。そしてそこで自分だけの財宝を見つけたり、失ったり。そして仲間に出会い、新たな島へと向かって大きな帆を上げて進んでいくのだ。明日から私はそんな人生を歩んでいくのであろう。   「さて時間です。戻りましょう!」 「わかりました。」    講師が出現させたゲートをくぐり終えるまで、優しさで溢れた儚い冬の香りが漂っていた。私は少しホッとした気持ちと安心感で暖かくなっていた。教師と生徒の恋愛は叶うことはなかったが元気と勇気を感じさせてくれた。私の心は安定していて、明日、出産されることに大きな希望と、それを取り巻く不安などで心が構築されていた。まさに人間らしくなっていた。生まれる準備は万端だ。私は明日から、私なりの人生を始めるのだ。   「以上で! 見学は終了となります! どうでしたか? 可能であればご感想をお聞かせくださいませんか! あなたなりに導き出した明日への想いと共に!」 「私は早く生まれたくなりました。先輩方のように、悲しみ、楽しみ、希望や絶望などにまみれて人間にふさわしい人生を描いていこうと思いました。そして私は明日、死ぬために生きていくことを誓います。最期が独りだったとしても、笑顔でこの世界に舞い戻れるように、そして立派な教員になれるように、最後まで生きていこうと思います。」 「お見事!さすが優等生どの! 一言一言に信念を感じましたよ! あなたの気持ちが、想いが、勢いが! 本物であると私は確信できました! では本日の講義のメインに移りましょう!」 「メイン? てっきり見学がメインなのかと思っていましたが。」 「いいえ! 大事な大事なことを最後にあなたにしてもらいます! 難しいですよ〜? 心して取り掛かって下さいね!では、そこの椅子におかけください。」    私は疑問だらけであったが、またもや講師の促すままに椅子に腰かけた。その瞬間講師がテーブルを指差して言った。   「ショータイム!」    すると、真っ白なテーブルの上に真っ黒な分厚い本が出現した。   「これは……?」 「どうぞ、手に取って見て下さいな。」    見た目に見合うずっしりとした本だ。会場が真っ白なせいか、かなり深い黒に見え、まるでこの空間に穴でも空いたかのような、そんな存在感を醸し出している。本の中身はどこを見ても全て白紙であった。そして本を裏返すと、そこには、金の文字で、こう書かれていた。      『オーダービフォアバース』     「……講師、これは、一体何なのでしょうか?」 「あなたは明日、出産される! どのような人生になるかは誰にもわかりません! 性格、感情の起伏、感性、話し方やルックスや身長までもが全て謎でございます! しかし、全てがランダムと言うわけではございません。今までここに来た方々がこれまでに取得してきた資格とそのランクによってこの本に記入できる範囲が変わってきます。資格が多く、それぞれのランクが高いほどに細かく記入でき、その内容をコアが読み取り人生の流れを決定します。私たちの世界が守るコアは、いわば宇宙全ての生命の運命を握る神のような存在です。あのコアがなければ、生命はおろか、宇宙ですら存在できないことでしょう。もしもコアがなくなれば、空間は消え失せ、次元すらも無くなり、全てが無に帰すと予測されております。ま、コアについて分かっていることはかなり少ないのですが。つまり何が言いたいかというと!あなた様のご注文をいただきたいのです。人生のご注文を。そのご注文をもとにコアが人生を確定していきます。オーダービフォアバースに記入すればするほどに細かい分岐が発生しますので、選択を繰り返しながら本を完成させるという流れでございます。あなたの本はとても分厚い。今までにもここまでのものは私も初めて見ました。時間は無制限にしておきますので、存分に悩みながらご注文の記入をして下さいな!」 「まだよく分かっておりませんが、とりあえず試してみます……。」 「では、私は一旦失礼させていただきます! 記入し終わりましたら、オーダービフォアバースを閉じて下さいませ! それでは!」    そう言い残すと、講師は影もなく姿を消した。私はオーダービフォアバースの一ページ目をめくった。すると、真っ黒な羽ペンが出現した。烏羽のような、美しい羽ペンだった。私はゆっくりとペンを手にした。その時、一ページ目に文字が現れた。   「この度はご出産決定おめでとうございます。あなた様のご注文をご記入願います。但し、全てが希望通りになるとは限りません。あくまでご注文でございます。ご注文をもとにコアが人生を確定致します。慎重にご記入くださいませ。なお、ご記入後の訂正などは一切お受けできかねますので、予めご了承いただきますようお願い致します。ではまず、ご希望の性別をご記入ください。ご希望がない場合は、無し。とご記入ください。」    私はこのままでありたいと思い、男性。と記入した。そして二ページ目。   「ご希望の誕生日をご記入ください。但し、月日・時間のみに限ります。ご希望がない場合は、無し。とご記入ください。」    私は冬が大好きだ。特に十一月の冬の始まりの空気が大好きだった。そのころの、夜の星たちに見守られながら生まれるのも悪くない。十一月十一日、二十三時。と記入した。  そこからはとても長く、細かい注文をすることができた。兄弟姉妹の有無や人数、父親の有無、生まれたい場所などまでも注文することができた。しかも親については収入、身長、学歴など、非常に細かく注文できた。どれほどの時間が経っただろうか、残り十ページほどまで進むと、とある説明文が現れた。   「これまでのご記入いただいたご注文をもとに、現在、あなた様の人生を構築中でございます。完了させるためには、最後のご注文のご記入をしていただきたいと思います。」    最後の注文とは一体何だろうか?私は少し構えながらも、続く文章を目で追っていった。そして私は唖然茫然としてしまった。   「あなた様への最後のご注文は、あなた様の望む人生の完成のさせ方でございます。つまり、あなた様のご希望の死に方をご記入いただけますでしょうか。」    私の望む死に方か……。これまでいろんな事を学び、考え、答えを導いてきたが、私は明日からの人生において、終わらせ方なんてものは考えたこともなかった。当然、それについての答えなんかも持ち合わせていない。いや、そもそも答えなどあるようには思えない。死に際の言葉として、周りの人達への感謝の気持ちなどは表現できるだろうが、死という終わりを、表現の仕様のないものを、受け入れられ難いものを、私に選ばせようというのか。これはよく考えて慎重に記入しなければ。この注文だけで私の人生が大きく変わってくるのかもしれない。教員が言っていたことがある。特定の条件が揃い、人生を歩んでいく道中にて、自ら命を絶ってしまった場合、厳しい審議がアカデミーで行われると。それは本当に厳しいそうで、大半の者たちが教員不適合者になり、ごく一部の者が特定の資格取り直しの試験を受けさせた上で、再度人生の歩み直しがされるとのことだった。私としては苦労して手に入れた資格を失いたくはないし、人生をまっとうして死を迎えたいのが本心だ。しかし、私自身が望む死に方などわからない。わかるわけがない。長く手が止まっている。もはや脳が溶け出しそうだ。まだ人生すら歩んでいないというのに、死を迎えたこともないのに、今ここで決めなければならないとなると、気が気じゃない。冷たい汗が額を流れていく。音のない部屋で私の荒い呼吸が響いているように感じる。鼓動が強くなり全身に伝っていく。指先のペンが呼応するかのように動いている。ペン先は紙に付いてはいない。付けたら最後、私は何かを書き出さなければならない。強いプレッシャーが私にのしかかっている。……どうする……どうする……どうしよう。焦燥に心が燃えそうだ。私の望む……死に方か……。    かなり長い時間が経った気がする。ついに私は自分の望む死に方を記入した。この死に方であれば、私の人生はきっと誰よりも輝かしく、たとえ小さくとも栄光ある人間としてこの世界に戻ってこられるだろう。と、私なりに考えて記入した。別に栄光などは私のような者には必要ないのだが、こんな私でも皆の心に残れる人生を歩んでいきたい。そう密かに思っていた。その時であった。後ろのドアが勢いよく開いた。   「どうも! 久しぶりの講師です! 最後の項目を書き終わったようですね! お見事です!」    驚きのあまり私は椅子から転げ落ちてしまった。   「おや、驚かせてしまいましたか! 大変申し訳ございません!」 「いえ、急な事に驚きすぎました。」 「いやー愉快なお方だ! それでは、完成したオーダービフォアバースを私に提出してくださいな!」 「もう、これは終わりなのですか? まだページは残っていますし、何か必要な記入項目があるのではないでしょうか?」 「クスクス……では逆に私からの質問です!あなたは人生を歩むにおいて、全ての大事な事を、目に見えるの見えないもの関係なく気づいていける自信はありますか? 生まれてから死ぬまでの間の全てを!」 「……いえ、そんな自信は全くありません……。」 「そうでしょうそうでしょう。オーダービフォアバースとはあなたの人生の軸となるもの! すなわちそれはあなたの人生そのものなのです。細かいことを注文できたかとは思いますが、大切なこと……例えば思いや気持ち、愛や情などは生きながらにして失っては手に入れ、また失っては手に入れる。そのような事が連続していきます! もちろん死ぬまでにずっと! 人はいつだって大事なものを見失いがちなのです。不完全な生き物だからこそ、人々は互いに支え合い、気づき気づかされて学んでは繰り返し、強く生きていけるのですよ。」    私は今まで自意識過剰だったのかもしれない。この世界では特に何の障害もなく過ごしてきた。だが講師の言うように、私は知らぬ間に何かを得て失っていると感じた。簡単な事なのに、どうしてこうも気づけないのか。目の前の講師は、私に諭させてくれているのだろう。たくさんの人々が互いに支え合っているからこそ成り立つ世界なのだ。なぜそんな簡単なことに気づけなかったのだろう。おそらく死後の私と今の私では全く違う者として存在していくことになる。現実世界とこの世界、二つの記憶を持つ事になる。人格は今の世界のままになるが、記憶だけは残るという。私は追憶に浸りながら、教員として新たな道を歩んでいくのだ。苦い思い出、楽しい思い出、たくさんの井奥が集まる場所、複雑怪奇な想いの淵叢の中にまみれては、一つ一つ紐解きながら己の糧とし、いつか持つ生徒たちに人生を説くのだろう。私は踊る心を抑えながら明日を迎える決心がついた。  目の前の講師が何やら書類を眺めてニヤニヤしている。その書類の中に先ほどのオーダービフォアバースが見えた。きっと私の記入したものなのだろう。すると、講師が私に目を合わせて言った。   「今から私個人からのあなたへのアドバイスがございます。特別授業だと思ってください。私はあなたを観察して確信しました。最高の教員になれると! 教員になるということは簡単なことじゃありません。今まで数多の者たちが挑み、苦戦し、挫折し、諦めていきました。その過去を踏まえ、私はあなたに可能性を見出しています! なので、私からのメッセージをお送りしますので、よく聞いてくださいね。」 「メッセージ……、わかりました。しっかりと受け止めます。」 「ありがとうございます! ざっとあなたのオーダービフォアバースを拝見させていただいて、思ったこと、気づいたことを話していきますね。」 「はい。お願いします。」    私は唾を飲んで、講師を見つめた。これが最後の、私だけの特別授業になる。しっかりと勉強しなければ。   「……あなたはとても優しく温かい人になれるでしょう。ですがあなたは周りの人たちのことばかりで、自分自身のことは二の次になってしまう傾向にあるようだ。それに周りのためなら自己犠牲精神で何でも頑張りすぎてしまうようです。そこで、注意していただきたいことがございます。それは、『心の病』にございます。」 「心の……病、ですか。」 「これは非常に厄介なものでして。病にかかるとなかなかうまく回復できません。病のせいで一生苦しむ場合もございます。ろくろく仕事もできずうまくいかず、人間関係もボロボロになっていく可能性もございます。怠け者と呼ばれたり、偏見の眼差しで見られたり、自分自身が嫌いになり劣等感に襲われ潰れそうになる事も。中には自ら命を立つ者もいます。あなたは教員志望。万が一自ら命を絶ってしまえば、厳しい審査の後に再度資格取得試験を経て人生のやり直しとなるか、最悪の場合、教員不適合者と認定され、永遠に道は閉ざされます。くれぐれもご注意を。しかし、この病は決して悪いものではございません。いつか必ず理解者・共感者が現れること間違い無しです。その方々のおかげで気持ち的に軽くなったり励まし励まされて互いに強くなって成長し、世界中があなたを認めてくれるでしょう!心の病は頑張りすぎた人がなる病にございます。決して走りすぎ、歩きすぎは控えてください。嫌なことは嫌と、辛い時は辛いと言ってもいいのです。時に立ち止まり、休憩しましょう。そして周りを見渡すのです。そこには家族や友人、いつか出会う人々がいます。あなたを待ってくれています。ゆっくりでいい。あなたは自身が抱える荷物を整理しながら、確実な一歩を踏み出していけば良いのです。迷うこともございますが、それは前に進みたがっている証拠でございます!皆の命はそれはそれは特別なもの。皆等しく輝き、一つしかない。ここまでのあなたの記憶や行動、思考は明日に出産されると全て忘れてしまいます。この講義でさえも。しかし、風として波として、心に響き渡り、命として残ることを祈ります。教員になれなかった者として、講師として最後のアドバイスです。あなたにだけ特別にですよ?大丈夫。あなたなら、人生を楽しく過ごせるはずです!改めて、この度は出生決定おめでとうございます!」    私は涙しながら講師に、この素晴らしい講義をしてくれた講師に、何度も頭を下げ、感謝の言葉を告げた。明日、私の体に新しい命が宿る。そして、親のもとで成長し、友に出会い、苦楽にまみれ、清濁ともに勉強していくのである。私は早く生まれたい。早くまだ見ぬ親に会いたい!まだ見ぬ友に会いたい!早く人生を歩みたいのだ!   「講師、今日はお忙しい中、本当にありがとうございました。立派な教員になるために、人生を生きていきたいと思います!本当にありがとうございました。」 「あなたはきっと大丈夫!私は信じています!さあ、残りの時間を楽しんでください!その扉が出口です!」    私は講師に一礼し、希望を胸に扉を強く開けた。      翌日。      私は簡の開いたカプセル装置に座り込み、医師、担任の教員などと面談をしながら、心の状態や精神状態、脳波などの測定をしていた。 「……という訳で君はスリープ状態になり、深い場所へ行く。目が覚めるとそこはすでに現実世界。この世界の記憶は一時的に停止するようにこちらで設定する。まあ、生まれてすぐに目は見えないだろうが、自我が芽生える頃には現実世界での人生を本格的に歩んでいくことになるのだよ。……以上。では準備はよろしいかね?」 「はい。お願いします。」    私はカプセルに横になった。ふと、すぐ下に見える扉の隙間から、昨日の講師が見えた。こちらに親指を立ててニコニコしている。私はつられて口角が上がっていた。そして穏やかな気持ちで深い眠りに落ちた。  
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