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時代は昭和三十年。東京の街が混沌とした背景から次第に色づき始めた頃の話であった。 今、此処(ここ)に記してある、私が体験した出来事について語っていこうと思う。 私の年の頃は三十歳を迎えたばかりだった。 名前は何れか明かしていくので、後に伝えることにしておこう。 かつて私には愛する人がいた。あの忌まわしい戦争で全て失くしてしまった。 妻も子供も大切な仲間たちも一瞬のうちに居なくなってしまった。 戦後、私は故郷であるこの東京の地に足を下ろし、再起をかけようと陸軍兵士から違う職へと……生まれ変わりたいという葛藤の最中、町工場などの日雇い重労働から中小企業の役職に籍を置いたりとがむしゃらに働き続けていた。 しかし世の中はそう甘くはない。我も我もと、労働者になりたい者たちで溢れていく中で埋もれる様に、まるでアリジゴクの渦の中をもがきながら這いずり回るかのように目まぐるしく日常を過ごしていたのである。 こんな世の中にどう生きて本当の幸福を手に入れていこうかと、四六時中考えて考えて夜の街を途方に暮れるかのように歩いていた。 山手線の外回り。台東区の繁華街もまた人混みで(ひし)めきを増していた。 気が付けば鶯谷駅に電車は停車した。確かここは繁華街。 身体が自然と駅のホームに足を降ろした。いつもは通り過ぎる場所。 どんな人間が居るかは大体想像がつく。欲望にまみれた者たちが夜な夜な誰かを求めては引きずり込ませ、悪い知恵を持ったものは大金をも要求してくる。 そんな野蛮で雑踏が渦巻く街。私にとっては未知の世界だが、もしかしたら私を受け入れてくれる。 そんな余計なことを頭に過ぎりながら、東口の改札を抜けて足はいそいそと動き始めていた。空はガスかかった薄く青い空と化している。 ひっそり佇む道路を歩いていくと、何軒かの店らしき建物が見えてきた。 柔らかな、そして時折激しく点滅する小張のネオンの看板が軒を連ねている。 平日でもあるのに人の出入りがやたらと多い。遠くから高笑いの響く声。 また違った角度からは男女の言い合いの擦れた声が聞こえてくる。 ある店に足が止まった。外観の看板は目立たなくどうやら一軒家のような佇まいらしき建物。 「ローズバイン」と書かれた店の名前。薔薇のツルか……モダンな雰囲気でもあるのだろうか。それほど立ち寄りたいとは思ってもいなかったが、試しに入ってみよう。 酒の一杯ぐらいなら、と、気休めな気持ちで店の扉をゆっくりと開けてみた。 ママ「いらっしゃい、お一人?」 そう出迎えてくれたのは見るからに男であった。胸のあたりまで長く金色に近い脱色した髪型。瞳は灰色がかった日本人とは少しかけ離れているかのような眼差しをしている。 私「初めきたのだが、ここは酒は出してくれるところなのか?」 恐る恐る尋ねていたその後ろから二十代前半くらいの男二人がまるで恋人同士かのように肩を寄せ合いながらお互いに身体をくすぐり合っている。また、吹き抜けの二階の廊下からは先程の年頃であろう、またもや高笑いをしながら酒を飲み交わし合いながら階段を下りてくる三人組の男達。ここはやはりそのような場であるのか。 私「あの……もしやここは男色同士が居あう憩いの場であるのか……?」 ママ「意外と勘が鋭いわね貴方。そうよ、ここは色恋を求め合う場所よ。この外じゃ皆、邪険扱いされて生き場所を失くす人達もいるのよ。だから此処に来て本当の愛を探し合うのよ」 私「本当の、愛……?」 来たばかりか気持ちが動揺を隠せない。だがもしもここに居れば自分も探したい相手を見つけることができるのであろうか。あの頃に出逢った人に、ここに長く通って居れば奇跡でも起こらない限り会えぬだろうか。 ママ「ところで、どうしてウチの店に来た何か理由でもあるの?」 私「いや、その、もしかしたら知人がここに来ているかもしれないと思って、なんとなく雰囲気で入ったというか。とりあえず酒をいただきたい。出してくれるか?」 ママ「わかったよ、そこのカウンターに掛けて待ってて頂戴」 酒を一杯だけ呑んだら直ぐにでも出ていきたい。兎に角こういう場所だ。悪い連中にでも引っかかったらどうにもならない。 一刻一刻時間が静かに流れていく。周りのざわついた声に埋もれるような感覚に耐えながら、酒を待っていた。先程の店主らしき男が来るのが遅いな。時間にして十数分は経ったであろう。ようやくして男が酒を運んで戻ってきた。 ママ「お待たせしました、どうぞごゆっくり」 そんな風に言われても誰が長居などするものか。グラスを急ぐかのように勢いよく口に運び、そのまま一気に飲み干した。もういいだろう、すぐに帰ろうとしたその時だった。 ママ「あら?どうしてそんなに慌てて帰ろうとしているの?まだ来たばかりでしょう、慌てて帰る理由でもあるのかしら?」 私「来て早々で申し訳ないが急用を思い出した、いくらかな?」 ママ「まだ電車の時間はいくらでもあるでしょう、気に入った子が見つかるまで居ていいのよ」 私「悪いが私はそういう目的で来たわけではない、たまたま入っただけの者だ、帰る」 頼むから帰らせてほしいと、そう頭に過ぎったその瞬間、私の左腕を店主が絡みつくように掴んできた。 ママ「もう少しだけ、居て欲しいんだけどね。ただ今日は本当に帰りたがっているから帰っていいわよ。また気になったら何時でも来て頂戴ね」 帰り際に店主は目を細めながらそう言ってきて、酒代を支払い、出入り口の扉を開け店を後にした。ようやく店を出ることができた。本当に危ういところだな。気軽に来るところではなかったと少しだけ後悔の念が心を揺さぶっていた。私も気が早すぎたな。
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