22人が本棚に入れています
本棚に追加
その電話を切ってから約三時間後、午後四時前に長塚はぼくの家に着いた。
夕方に差しかかっている時刻でも、庭には夏陽がぎんぎん射していた。だが、玄関に現れた長塚はダウンジャケット姿だった。
「今日も暑いな……」
長塚はダウンジャケットを脱ぐと、それを小脇に抱えて尋ねてきた。
「蝉はまだ縁側にいるのか?」
「ああ。縁側からまったく動こうとしない」
ぼくは長塚を先導して居間に向かった。すると、真っ白な着物に真っ白な帯を締めた蝉が、相変わらずこちらに背を向けて横座りしていた。
「ほう、この蝉はメスだったか……」
長塚は呟きながら畳の上に胡坐をかくと、ダウンジャケットを脇に置いた。
僕も腰をおろすと、こう尋ねてきた。
「蝉を正面から見てないよな?」
「見てないが」
「そりゃ、よかった。うっかり言い忘れていたんだがな、一週間ほどすると蝉はこちらを振り返り、その日のうちにこの家から去る。だが、振り返る前に蝉と目を合わせると、数日後に視力を失ってしまう。気をつけろよ」
「おい、そんな重要なことを言い忘れるな。もし正面にまわっていたら、どうするつもりだったんだ?」
「悪かったよ。反省してる」
長塚はそう言って肩を竦めたが、反省しているようすはなかった。
「それよりお前に頼みがある。蝉は数の少ない貴重な怪異でな、お目にかかれる機会はそう多くない。だから、これを機会に蝉の生態をしっかり調べておきたいんだ。それに、前にも言ったが、ときに蝉の成虫は人を惑わせる。お前が惑わされないためにも、しばらく蝉を見張っておきたい。一週間ほどここに泊まりこませてくれないか?」
「蝉がここを去るまでということだな?」
「そうだ」
「ぼくはああいったものに敏感だから影響を受けやすい。専門家のお前がいてくれるのは心強いよ。さいわい部屋はたくさんあるし、泊まるのであれば、どこかを好きに使ってくれたらいい」
「そうか。助かる」
言いながら長塚は蝉に目をやったが、すぐにその視線が蝉から逸れた。縁側の外に目を向けたらしい。
ぼくもつられてそちらに目をやると、眩しい夏陽が庭を白く輝かせていた。
「そういや、お前の奥さんは夏が好きだったな」
「ああ」
相槌を打ったぼくの脳裏に、妻の姿が浮びあがった。
あのときの妻は梁からぶらさがり、青白い手足を力なく垂れさがらせていた。
それは最も思いだしたくない妻の姿だった。
「世間はもう十二月だが――」
長塚は脇に置いたダウンジャケットを一瞥してから、再び縁側の外に目を向けた。
「この家はまだ夏が終わっていないな」
最初のコメントを投稿しよう!