前編

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 その電話を切ってから約三時間後、午後四時前に長塚はぼくの家に着いた。    夕方に差しかかっている時刻でも、庭には夏陽がぎんぎん射していた。だが、玄関に現れた長塚はダウンジャケット姿だった。 「今日も暑いな……」  長塚はダウンジャケットを脱ぐと、それを小脇に抱えて尋ねてきた。 「蝉はまだ縁側にいるのか?」 「ああ。縁側からまったく動こうとしない」  ぼくは長塚を先導して居間に向かった。すると、真っ白な着物に真っ白な帯を締めた蝉が、相変わらずこちらに背を向けて横座りしていた。 「ほう、この蝉はメスだったか……」  長塚は呟きながら畳の上に胡坐(あぐら)をかくと、ダウンジャケットを脇に置いた。  僕も腰をおろすと、こう尋ねてきた。 「蝉を正面から見てないよな?」 「見てないが」 「そりゃ、よかった。うっかり言い忘れていたんだがな、一週間ほどすると蝉はこちらを振り返り、その日のうちにこの家から去る。だが、振り返る前に蝉と目を合わせると、数日後に視力を失ってしまう。気をつけろよ」 「おい、そんな重要なことを言い忘れるな。もし正面にまわっていたら、どうするつもりだったんだ?」 「悪かったよ。反省してる」  長塚はそう言って肩を竦めたが、反省しているようすはなかった。 「それよりお前に頼みがある。蝉は数の少ない貴重な怪異でな、お目にかかれる機会はそう多くない。だから、これを機会に蝉の生態をしっかり調べておきたいんだ。それに、前にも言ったが、ときに蝉の成虫は人を惑わせる。お前が惑わされないためにも、しばらく蝉を見張っておきたい。一週間ほどここに泊まりこませてくれないか?」 「蝉がここを去るまでということだな?」 「そうだ」 「ぼくはああいったものに敏感だから影響を受けやすい。専門家のお前がいてくれるのは心強いよ。さいわい部屋はたくさんあるし、泊まるのであれば、どこかを好きに使ってくれたらいい」 「そうか。助かる」  言いながら長塚は蝉に目をやったが、すぐにその視線が蝉から逸れた。縁側の外に目を向けたらしい。  ぼくもつられてそちらに目をやると、眩しい夏陽が庭を白く輝かせていた。 「そういや、お前の奥さんは夏が好きだったな」 「ああ」  相槌を打ったぼくの脳裏に、妻の姿が浮びあがった。  あのときの妻は(はり)からぶらさがり、青白い手足を力なく垂れさがらせていた。  それは最も思いだしたくない妻の姿だった。 「世間はもう十二月だが――」  長塚は脇に置いたダウンジャケットを一瞥してから、再び縁側の外に目を向けた。 「この家はまだ夏が終わっていないな」
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