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「いや、お前は認めていない。肝心なところを都合よく記憶から消しているぞ。つらくてもすべてを認めなければならないんだ」
真っ直ぐにぼくを見た長塚は、一呼吸置いてから言った。
「お前は奥さんに殺されている」
「妻に殺された?」
聞き間違いかと思ったが、そうではなかった。
「浮気に逆上した奥さんに刺されて死んだんだ」
「なにを言っているんだ?」
長塚の精神を疑わずにはいられなかった。
「ぼくはこうやって生きているだろう?」
「いいや、お前は奥さんに殺された。奥さんが首を吊ったのも、お前を殺したからだ。逆上してめった刺しにしたあとに、大変なことをしたと気づいてな」
長塚は憂のある目をぼくを見た。
「信じがたくても事実は認めないといけないんだ。お前は奥さんに殺された。それを認めないからお前はあの世にいけずに、あの世とこの世の間に落ち続けている。だから、この家も夏が終わらない」
ぼくは妻に殺されているのだと、長塚は本気で信じているらしい。民俗学者という肩書きまで持っている明晰なやつだというのに、どうしてそんな馬鹿げた思考に陥っているのだろうか。
「間というのは非常に不安定な世界なんだ。長く留まっていると魂ごと消失するぞ。奥さんに殺された事実を、そろそろちゃんと認めたほうがいい。ちゃんと認めてあの世にいくんだ」
「どうしたんだ、長塚? さっきから言っていることが変だぞ」
ぼくがそう訴えたとき、縁側のほうで声がした。
「おひとりでなにをおっしゃっているんです?」
それは若い女の声だった。
縁側に目を向けたぼくは、驚きのあまり言葉を失った。今まで後ろ姿ばかりだった蝉が、こちらに顔を向けて座っている。
その顔がぼくの妻にそっくりだったのだ。
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