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「他の名前を思いだせないのは、長塚があなたのお名前だからです」
ぼくが長塚のわけがない。しかし、うまく言い返せないためイライラした。
「蝉のくせに知った口を利くな。ぼくは――」
「まあ、聞いてください」
蝉はぼくの話を遮って続けた。
「あなたの間違いなく民俗学者の長塚さんで、独身の方ですから奥さまはいらっしゃいません。それに、わたしは蝉ではありませんよ」
蝉は自分の左胸を指差した。そこには小さなネームプレートがついている。
「わたしは精神科医の西園寺です。あなたの主治医でもあります」
蝉の真っ白な着物は、いつのまにか医師が着る白衣に変わっていた。
「わたしがこのご自宅にくるということは、お母さまから連絡があったはずです」
ここで長塚が話に割りこんできた。
「さっきから蝉がごちゃごちゃと言ってるが、あんな話はまともに聞くんじゃないぞ。前にも言ったが、蝉は人を惑わせる怪異だ。惑わされるなよ」
長塚は表情を少し改めつつ、さっきの話を再び口にした。
「蝉の話よりも俺の話を聞け。お前は奥さんに殺されている。それをいつまでも認めないから、お前はあの世とこの世の間に落ち続けている」
「いや、ぼくは殺されてなどいないぞ。こうやって生きている」
「ええ、もちろん生きていますよ」
今度は蝉が話に割りこんできた。
「もしかして、誰かに死んだとでも言われましたか? でしたら、そんな話は無視してください。ここにいるのはわたしとあなたのふたりだけで、現実には存在してない人の話ですから」
「俺が存在していないなんて、凄いことを思いつくもんだ。蝉というのはなかなか愉快な怪異だな」
長塚はぼくに惑わされるなと注意しながら、自分は蝉の話をおもしろがっているようだった。
蝉はさらにこんな話もした。
「今後の治療の件になりますが、お母さまにもお伝えしたとおり、往診にて行っていく予定です。リラックスできる自宅で行えば、治療の効果がより期待できますから。ただ、さっきほどからの言動を鑑みると、ひどく混乱されているようですね。現実にはないものを見聞きしているとお見受けします。そういった状態で治療を続けると効果が半減しますから、症状や現状についてもう一度お伝えさせていだきます。落ち着いて聞いていただき、現実をしっかり理解してください」
「とうとう治療の話まではじめたな。想像力のたくましさに驚くよ」
長塚はやはり蝉の話をおもしろがっている。
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