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定時を告げるチャイムが鳴る。それと同時に立ちあがる人はある程度決まっていて、その他は顔も上げずに機械的な「お疲れ様です」を吐き出す。おれも大抵は定刻通りとはいかず、毎回十五分ほど遅れを取ってしまう。第一便後のエレベーターに乗るために残業していると思えばいいか、と開き直っているが、体が残業をすることに慣れてしまっているということでもあった。
「よし、切り上げて場所移すぞ」
わざとらしく音をたててノートパソコンを閉じた上司にはお子さんが二人いるが、絶賛思春期真っ最中で煙たがれていると酒気帯びた空間で何度も耳にした。実の子どもだけでなく、職場でもそうならないようにと願うばかりだ。
参加人数を確定させようと急ぐ上司の視界に入らないよう、はみ出してしまったタスクを来週の自分に引き継ぐことにして、さっさと席を立つ。声をかけられそうになったら、まるでこのあと約束があるかのような素振りを見せればいい。アルコールに身を任せて一晩過ごし、さらに二日空けば、そのときのちょっとした不快感はなかったも同然だ。
飲み会に向かう群れよりも先に出てしまおうとエレベーターにホールに急ぐ。これから満員電車に乗って帰るのだから、少しでも混雑の場を避けたくなるのは当然の行為だろう。
「あれ、足立」
「おー、お疲れ」
同期の足立航輝がスマートフォンから目を上げ、その手を軽く振る。情報システム部で終電時間と戦いを繰り広げているのが常なので、この時間に会うことは滅多にない。
「珍しいな」
「巻きでやって、さらに持ち帰りだけどな。歌番にメロウが出るんだよ。リアルタイムでちゃんと観たい」
どうせ録画もしていて、あとで焼き回しもするくせに、と思ったが口にはしない。リアルタイムで視聴することがいかに大切であるかを懇切丁寧に説明されるだけだ。
無人のエレベーターに乗り込む。降下していくなかでスマートフォンを確認すると、メッセージが一件入っていた。
「お、例の恋人?」
「例の、ってなんだよ。例の、って」
「こっちにも話流れてくるぞ。毎日手作り弁当なんだろ? 羨ましいねえ」
からかい半分で会話を進めてくる足立に軽く蹴りを入れたところでポーンと軽快な音が鳴り、扉が開く。
「まあ、食事のことを考えなくていいのはありがたいけど」
「いいねえ。結婚式の友人代表は任せろよな」
じゃあ急ぐから、と言い逃げするかのように駆け足で先に行ってしまう。言いたいだけ言いやがって、と思いながら再度メッセージに目を移す。
「仕事お疲れさま」
「今日はハンバーグです」
「目玉焼きも乗っけちゃいます」
「帰るとき連絡してね」
通知でそれらを見るだけ見て、スマートフォンをポケットにしまう。
駅前の広告塔には今期の月9ドラマのポスターが貼られていて、街灯とともに設置されたスピーカーからはその主題歌が流れている。
イヤホンをしなくても、その声を聴くことができるくらいになってしまった。十年前と変わらないえくぼを見せるアーティスト写真よりも、卒業アルバムにある白目をむいたブレた写真のほうが、らしいと思っていることが、おれの未練深さを物語っている。
「この子、同い年なんだ」
半熟の目玉焼きにデミグラスソースのハンバーグ。白米にバウンドさせて食べるにちょうどいい。おれを小学生と勘違いしているのか、恋人の遠藤彩加はこのメニューをよく作る。
部屋の静けさを誤魔化す役割を全うするテレビでは、足立が言っていた歌番組が流れていた。メロウの歌唱前インタビューがいまこの時間にテレビ局で行われており、テロップで簡単なプロフィールが紹介されている。
「鳥取出身かあ。慎太郎くんと一緒だね」
水分でべちゃべちゃなポテトサラダを味噌汁で流し込みながら、程度のいい相槌を返す。週明けの弁当にこのポテトサラダが入るとなると、他のおかずが水没する可能性があるなあ、などと考えていると、彩加が追加射撃のように話し続ける。
「そういえば慎太郎くんも高校で軽音楽部だったんだっけ」
「部活には入ってない。バンドは組んでたけど」
「へえ。じゃあメロウと同じだ」
どきりとした。
高校でバンドをしていた、という情報に続けて「地元で男の子たちとスリーピース組んでました。そのときの名前が『メロウ』で。そのままもらっちゃいました」と番組MCに答えるメロウは、アーティスト写真と同じえくぼを見せている。
また綺麗になったな、なんて親戚のおじさんだとしてもセクハラになるかもしれないワードが浮かんだ。すぐさま捨て去る。音楽を続けるということにさっさと見切りをつけて一抜けした分際が、何かコメントする資格はない。
だから、音楽は好きではなかった。
過去の自分が一瞬でも夢見て目指していた世界は、眩しいというよりは腫れ物を扱うようになるべく遠ざけている。
「明日は朝早いんだよね。準備とかしてる?」
おれの内心を察したように、彩加はCMに入ったタイミングで話を変えてきた。
「まあ足りなくても実家に何かしらあるだろうし」
「そうか。そうだよね」
食事が終わったタイミングで、デザートとしてうさぎの形をしたリンゴが出される。胃に入ってしまえば同じなのだから普通に皮をむけばいいのに、写真を撮るためと小綺麗にしたがるのが理解できない。
高校卒業まではそこが世界のすべてだと思い込んでいた狭い田舎に、明日から一泊二日で向かう。予定を伝えたとき、もう少しゆっくりしてもいいんじゃない、とおれが有給を溜め込んでいることを知っている彩加が言っていた気がする。立派なペーパードライバーが車社会に長居したいと思うわけがないだろう。家族や友人を足として使ってまで行きたいところもないのだ。目的を済ませたらさっさと帰ってきて、社会人として会社の歯車を回すのが適切だろう。
「田舎があるっていいなあ。わたしは実家が関東だからそこまで“田舎”って感じしなくてさあ」
観光地のひとつして自治体や交通会社が盛り上げていて、実際に賑わっている埼玉県の一角と比べるものではない。何をおこがましいことをしているのだろうか。
番組に戻ったテレビでは、観客の拍手に小さく頭を下げたメロウの歌唱が始まった。自然とそちらに目が向いてしまう。好きなのかと訊かれれば、ストリーミングでダウンロードはするけど、くらいは答える。足立のようにファンクラブに入り、ライブに通い、グッズを購入し、まではしない。そこまで何かに熱中したのだってもう十年ほど前が最後だ。
インディーズの頃のCDはプレミア状態で手に入らないとフリマアプリを睨みつけていた足立も、今頃同じようにテレビの前で、おれよりも真剣にこの歌声を聴いているのか。実家で親も観ているのだろうか。もしかしたら飲み会に連れだった上司たちも、居酒屋にある小さなブラウン管テレビに視線を向けているのかもしれない。
全国の食卓の視線が一箇所に集まっている。
いくつもの照明の下で、いくつものカメラレンズに向かって、見ているはずの誰かに彼女は歌っている。
そこに乗っかって届くであろう想いや感情に、覚えがないわけではない。ただ、懐かしくはなかった。
サビに入ったところでアップになったメロウは口角を上げる。えくぼができる。
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