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「かあちゃん!かあちゃん!」
赤く染まる家の中、深夜に一人の少女の叫び声と炎の燃える音だけが木霊する――。
世は江戸時代。この時代の建物は木やワラといった燃えやすい素材が使われている。また、人口の増加の為に建物が増設。家と家の幅が狭く造られ、更に火事の原因となった。
少女の声は炎にかき消され、誰も気づくことはなかった。綺麗な黒髪が煤で汚れてしまっている。着物も焼け焦げ原形を留めていない。それでもなりふり構わず叫んでいる。誰でもいい、早く助けてくれと願うしかなかった。
少女の声は消えかけ、小さな体は母の上へ崩れ落ちる。煙で喉や肺を弱くし、酸素の無くなりかけた部屋で呼吸もまともに出来なかった。そんな状況で幼い少女の体は助けが来るまでもつはずがなかった。
柱が崩れ、天井が壊される。その音により、やっと近くの住民は飛び起きる。なんだなんだと慌てふためきながらも井戸から水を汲み上げ、総出で火消しを行う。住民の誰かが人混みの中から叫ぶ。
「おい!中に人がいるぞ!」
みんな一斉に家の中を凝視する。すると、もう動かなくなった少女と母親の姿が見つかった。
火消しを行う人たちと救助をする人たちでごった返す。誰もが思う、もうこの親子はダメだろう……。
火消しが終わり、親子を外に運ぶことは出来たが、呼吸もなく冷たくなっている。あぁ、やはり間に合わなかったか……。
呆然と立ち尽くす人たちを、何者かが見据える。気配を消して一歩、また一歩と歩み寄っていく。人の集団を避けながら眠った親子の傍へと近づいていく。
長い白髪を月明かりが照らす。貴族のような派手色の衣装に身を包み、静かに歩むその姿はまるで天女のよう。しかし、鋭く射抜く瞳と細身の体に似合わぬ大きな背中は男性としか思えない。
突然目の前に現れた男性に人々はざわめきを隠せない。
謎の男性は親子の前まで来ると、少女の体を優しく抱き上げ、憂いを帯びた目で見つめる。
「……君は、私が助けよう」
優しく柔らかな低音で呟くと男性はふわりと空中に舞い上がり、風と一体化するように一瞬で姿を消した。
まるで夢のような出来事に、その場にいた人々は『天女の神隠し』だと口々に言うのだった。
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