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「……」
結局、いくら調べたり考えたところで、お偉いさん方や専門家にすら導くことの出来なかった『影症候群』そのものについての答えは出なかった。
答えなんて、きっと百人居れば百通りある。そもそも見えないものを定義するには、そこに存在する言葉だけでは足りないこともあるのだ。
自分なりの思考に一区切りつけると、未だにずきずきと痛む右手首に気付いた。この手では、深い傷を負った彼女を守り支えるには弱すぎたのだ。
所詮、僕はひなたと中学からの顔見知りで、付き合いはじめてからは半年程度の仲だ。十何年も傍に居た家族同然のしーちゃんに勝てるなんて、その代わりになれるだなんて、烏滸がましかったのだ。
「……馬鹿みたいだな、僕……」
いつしか僕の思考もひなたに感化されてか、やれ病気だの実態のない幻想だのと思っていた『影症候群』に、彼女同様犬のしーちゃんを重ね、ひなたの影が『しーちゃんそのもの』のように考えるようになっていた。
その結果、ひなたを守るなんて決意も潰えて、すっかり意気消沈する。
「……はは」
自嘲気味に浮かんだ笑いは、きっと泣きそうな顔をしているのだろう。
情けなくも涙が出ていないか確かめようとすると、惨めさからかやけに痛むその手の先が、顔まで運ばれる前に、不意に何かに触れた気がした。
ちょうど建物の影に差し掛かったから、きっと日向との温度差にそう感じただけだ。そう思うのに、上げかけた手が止まる。
思わず歩みも止めると、明らかに、するりと指を絡めるようにして手のひらを這う『何か』の感触。
一瞬にして緊張が走り、硬直した。息を飲み、恐る恐る視線を横へと向けると、そこには建物の影よりも濃く、けれど淡い輪郭を伴って『彼女』がそこに居た。
「あ……?」
目の前の光景を一瞬理解できず、呆然とする。そしてすぐに、その正体を理解して咄嗟に振り払おうとした。動きにより痛みが誘発されるが、構っていられない。
「……お、まえ……っ!?」
けれどそんな僕の痛む手を労るように、柔く撫でる小さな手のひらの感触が確かに伝わった。
拒絶をものともせず触れるそれは、少し冷える日影に居ても、日向のような優しい温かさを帯びている。
その温もりに触れる度、今まで感じていた耐えきれない程の心の痛みや苦しみも、癒されていくようだった。
「……ああ、そうか……こういうことだったのか」
僕はようやく理解する。この圧倒的な安心感は、いくら悩み、敵意すら持っていたとしても、人が抗えるものではない。
もしもこれが掲示板に書かれていたように他の惑星からの侵略者だとしても、もしもこれがテレビで聞いたように依存性を引き起こす悪いものなのだとしても。
もしもこれが、愛すべき彼女を僕から奪ったものなのだとしても。
「……うん、そうだね……帰ろうか、僕の影」
いつも通りの帰り道、擦れ違う誰もが、眩しいくらいの夕陽を受けて、影を連れて歩いている。
遠くない未来、いずれすべての人類は『影症候群』と共存、或いはひなたのように追い縋り、影と共に消えてしまうのだろう。
希望と絶望は表裏一体、その境目は、きっとひどくぼんやりとしたものでしかない。
光があれば影が存在するように、影がなければ光さえ、存在を定義することは難しいのだから。
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