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「ねえ、春也くんはさ『影症候群』になったことないんだっけ?」
「ん? ああ、今のところは」
「そっかぁ……わたしの影ね、骨折が治って歩けるようになったら、居なくなっちゃったの」
僕達人類に『影症候群』という症状が現れ始めたのは、いつからなのだろう。その症状が明確に発見され命名されたのは、ここ数十年のことだ。
例えば、骨折なんかの身体の動きに支障の出る怪我や病気をした時に、傷を固定したり補助的な装具を付けるように。
例えば、心が疲れきって今にも折れてしまいそうな時に、何か寄り掛かれるものが欲しくなるように。
それぞれ欠けたものを、ぴったりの形で『自らの影』が補ってくれる現象、または病気、あるいは概念。それが『影症候群』。
しかし『影』といっても、地面に伸びる本物の影とは違い、ある人の影はきちんと意志疎通が出来、ある人の影は別の生き物のように実態を得て動けるのだという。
「あー……ひなた、バレー部の大会行けなくて、足だけじゃなくメンタルもやられてたもんな……」
「うん……そりゃあ、せっかくレギュラー入り出来たのに試合に出られないとか、普通に凹むよ」
「そうだよな……でも良かったじゃん。影が居なくなったってことは、完全復帰ってことだろ?」
症例もバラバラだが、その特殊な影を認識する者達に共通しているのは、心身共に何かが欠けたり不調をきたしていて、ひとりではままならない思いをしていたこと。
そして生まれた影を支えとし、治るまでの間依存して生きていること。
影の見える彼らにとって、常に寄り添い支えてくれるそれは、何よりも近しいもうひとりの自分のようなものだった。
「……うん。でも、……痛くても、上手く歩けなくても、『しーちゃん』が居てくれた方が良かったかも……なんて」
「……は? え、いや、しーちゃんって誰……」
「影だから、シャドウのしーちゃん」
「…………」
「……春也くん?」
影に名前をつけていたことにも驚いたが、それよりも、誰よりも頑張り屋で真面目な彼女からの予想外の言葉に、僕は思わず足を止めた。
完治後にも影に依存する人も多いと聞いてはいたけれど、まさかひなたもそうだとは思わなかったのだ。
リハビリにも一生懸命励んでいたし、お見舞いにも足繁く通っていた僕の知る限り、影に話し掛けたりするような依存症状も見られなかったのに。
「……やっぱり変、かな」
「えーと、怪我が治ったことは素直に喜ぶべきだと思うし、影恋しさにそれを否定するのはやっぱり……」
「あ、じゃなくて、しーちゃんって名前。変かな?」
「……あ、そっち? ……、いや、うん、いいんじゃないかな、たぶん」
「そう、よかった」
彼女にとってのしーちゃんは、既に確立した存在なのだろう。骨折からリハビリ、完治までの数ヶ月、苦楽を共にした戦友感覚なのかもしれない。
献身的に側で支えていたつもりの僕は、そのしーちゃんとやらを見たことすらないのだが。
影を認識出来るのは、発症した当事者のみ。それ故に一般的に『影症候群』は『病気』として位置付けられているものの、寧ろ心身共に快方へと向かわせるそれは病気等ではなく、独自の補助機能としての進化ではないかと語る人も居た。
しかし実際、誰も居ないように見える空間に向けて微笑み話し掛けたり、影を含む自己の中ですべて完結させ他者との交流の減る患者が多いこともあり、深刻な病気であるという意見もあった。
僕からすれば、ひなたは紛れもない病気だ。完治の喜びよりも、影との別れを嘆いている。こんなの依存症に他ならない。
「……もう一度しーちゃんに会いたいなぁ、たくさん助けてもらったのに、お別れもちゃんと出来なかったし。また怪我したら、会えるのかな。なーんて……」
下校中、夕陽によってあちこちに出来る自動販売機や電柱の影を見て、冗談めかしつつも切実な響きをもって願われる再会に、思わずむっとする。
隣に並び歩く僕よりも、実態のない影を恋しがるなんて、恋人としてはやはり複雑だった。そしてつい、僕の口調も強くなる。
「あのさ、ひなた。あんなに練習頑張って来たし……だから『影症候群』に罹るくらい落ち込んだんじゃん。ダメだろ、そんなこと言っちゃ」
「そう……だよね、ごめん。変なこと言っちゃった」
骨折の診断を受け、大会に出られないことが確定した時のひなたの憔悴ぶりは、見ていられない程だった。
僕だって、勿論たくさん励ましたし相談にも乗った。彼女も、負けじと早く復帰したいと話していた。
今回の大会は見送ったとしても、尊敬する先輩が引退してしまう前にはもっと指導して欲しいとも言っていたのに。
思い返すだけで辛く胸の痛む日々の、彼女にとっての救い。それが僕ではなく見えざる影だったことに対する、戸惑いと虚しさと、僅かな嫉妬。
けれど既に存在しない、そもそもひなたの一部か幻に過ぎない形のないものに嫉妬するなんて、馬鹿げている。
僕は深く息を吐いて、ようやく松葉杖のなくなったひなたの手を取り、そっと握る。これから先彼女の歩みを支えるのは、影でも松葉杖でもなく、こうして確かに側に居る僕だ。
「大丈夫。しーちゃんが居なくても、僕が居るから」
「うん……ありがとう、春也くん」
穏やかに微笑みながらも、ふとした瞬間に足元の影に目線を落とすひなたは、やはりまだ前を向ききれていない。
きっとこんな風に、影は人間の生活に根付いていったのだ。人の心の隙間に、弱みにつけ込んで、寄り添う素振りで存在を確立させていった。
でなければ、共通の症状として発見されたものの、未だに明確に病気なのか幻想なのか実在するのかすら曖昧な概念であるそれが、ここまで明白に人類の共通認識として浸透しないだろう。
「……絶対、お前には負けないからな」
思わず彼女の足元に出来た普通の影を睨み付けて、僕は小さく呟く。宣戦布告だ。
「……? 何か言った?」
「いや、何にも」
心の安定をもたらす実績は十分だとして、意図的に何かしらの欠けを作り影と共存すべきとまで言う者も居れば、あくまで病気として薬の開発を進める者も居た。
影は人類の隣人か、はたまた人類の自立を脅かす病なのか、お偉いさんの議論はいつも平行線で、答えは出ないままだった。
それでも、僕は今ここに、愛のために影には屈しないと誓ったのだ。
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