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ラボラトリー
ラボラトリー。つまりこの実験室が俺の夢だ。さまざまな器具と培養槽、冷蔵庫と冷凍庫、そして薬品。そいつが詰まったのがこの部屋だ。
「あ、和也さん、遅いですよ」
「すまん、冴子がまた絡んできやがって」
「またいちゃついてたんですか?朝っぱらからいやらしい」
「そういうこと言う?純潔の乙女のフリしたマコト君」
「フリじゃないです。純潔です。清純です。つまり神聖です」
いやじゅうぶん遊んでるでしょ、きみは。
「偽りの言葉に主のお嘆きを」
「天にましますわれらの父よ、悪しきものからお救いください。できれば和也さんに死を」
「おい」
こいつは大学一年の行田真琴。系列大学病院長の一人娘。性格はぶっ飛んでいるが秀才。大学にはいつもそんな丈の短いスカートで来る、目にありがたい…い、いや迷惑なやつだ。
「見るべきところはそこじゃなくて、検体β₋503の培養槽でしょ?培養時間はもう充分じゃないんですか?」
俺の視線を気にするように白衣の裾で、そのあらわな太ももを隠しながら真琴は厭味ったらしく言った。
「おっと」
俺はガラス容器に入った培養槽に向かった。少量の泡が小さな細胞の塊を取り巻いている。小さな泡は酸素と窒素だ。だが低濃度の酸素しかこの培養槽には充填されていない。酸素は生物に必要だ。なぜ必要かというと、酸素が取り込まれた生物細胞は酸素を使い有機物を分解、それをエネルギーとするからだ。じゃあなぜ低酸素なのか?
「おお、だいぶ育ったな…」
それは細胞の急激な増殖を抑えるためだ。そしてもうひとつ。酸素は生物にとって有害なのだ。呼吸により生じる活性酸素はDNAなどの生体構成分子を酸化させ劣化させる。老化などはこいつが原因だ。だから急激な成長を抑え、安定した環境で生育させる、そのプログラムがこれなのだ。
「ベータで生き残ったのはこれだけですね」
「そうだな。こいつの発見は奇跡さ。iPS細胞から偶然見つかったこいつはね」
「しかし生物は刺激がなければ進化しません。これ、このままじゃただの肉塊にしかならないんじゃないでしょうか?」
さすが秀才の真琴だ。たしかに安定した培養環境じゃ細胞は増殖するだけで、生物としての諸器官には変成しない。ふつう遺伝子がそれをつかさどるのだが、こいつには遺伝子情報をプログラムしていないのだ。人造肉の培養ならいいのだが、俺の目指しているのは新種の生物の誕生なのだ。
「そりゃあこのままじゃスパムにしかなんないだろうけど、ここから遺伝情報をプログラムすることでさまざまな変化が生まれるんだ」
「スパム食べらんなくなるわ。あたしあれ結構好きなのよね」
俺も前にロサンゼルスでスパムの握り寿司を食ったときは、ちょっと感動したけどね。どうでもいいけど。
「そのスパムに心臓や肺、胃や肝臓ができてくるのがこのプログラムさ」
「それってブリキの缶が皮膚になるってこと?手足が生えて歩きだしたらキモいわ」
「だれが変態缶詰の話をしてるんだよ。それはちゃんとした環境適合で細胞自体が勝ち取ることさ。プログラムはそのおぜん立てにすぎない」
ガラス越しにそれはちょっとの変化をした。泡が小さな細胞に絡みついて消えている。どうやら呼吸をはじめたらしい。
「温度を下げよう」
「摂氏0度まで下げる?」
「ああ、温度を下げて活性化を妨げる。長生きしてほしいからね」
「神への冒涜じゃない?これって…」
「科学とは神跡をたどることさ。並行して倫理がついてくる。踏み外さなきゃいいだけだ」
「そうやって原子爆弾を作ったのよ、人類は」
「関係ないだろ、それ」
俺の作ったこいつは、そんな物騒なもんじゃないんだけどな。まあ高温や低温にも強い。ある意味脅威的な細胞ではあるけどね。
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