第三楽章

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少女は清治の位置からは、横を向いて座っていた。 清治の姿が視界に入っているかどうか、微妙だった。 少女に近付くにつれ、セミの声が大きくなって、清治の胸の鼓動も高まった。 少女の表情が見て取れる距離まで近付くと、清治は彼女が正面を向いて放心したような、陶酔ともとれる表情をしていることに気付いた。 セミの鳴き声に聞き入っているのだ。 清治は、はっきりと断定した。 セミの鳴き声を独占する、たった一人の聴衆。いや、聞き入ることで彼女自身、その音楽の一部となって没入しているのだ。 少女に手が届くほど間近に接近した時、少女は夢から覚めたようにハッとして清治を見た。 「こ、こんにちは」 清治は震えそうな声で挨拶した。 「あ、こんにちは」 驚きの中にも、少しでも嬉しそうな反応はないかと清治は期待して少女の顔を窺い見た。 「ここ、座っていい?」 了解を得て、清治は少女の隣に座った。 少女は愛想悪くはないものの、再び正面を向いてセミの音楽に浸る様子を見せた。 邪魔して悪かったかなと、清治は居心地の悪さを覚えたが、彼の躊躇を察して少女は言った。 「一緒に聞きましょ。セミの音楽を。もう最終楽章に入っているの」 2人は並んでベンチに座って、セミのコンチェルトの聴衆になった。 初めは少女が隣にいることを意識していた清治も、コンサートホールにいるようにセミの演奏に集中していった。 セミの音楽の熱量に圧倒された清治は思った。 この猛暑さえ吸い込んで、セミは短い生命を燃やしているのだ。そして、失われた生命を哀悼する心に共鳴して、夏を代表するコンチェルトへと、セミの音楽は昇華される。 ミンミンゼミ、アブラゼミ、ニイニイゼミ、クマゼミ、ツクツク法師、それらの鳴き声が溶け合って、名曲を生み出す。 夏のすべてが、セミコンチェルトの要素になる。 ……と、清治はセミの鳴き声の中に異質な声が混じっているのを耳にした。 それは、セイジ、セイジと聞こえる。 「お父さん? お父さん!」 清治は心の中で叫んだ。 父とセミ捕りをした日々が奔流となって押し寄せ、溺れそうになった。 そんな彼を現実に引き戻したのは、隣にいる少女の啜り泣きの声だった。 ちらっと横を見ると、少女のまつ毛が涙で濡れていた。 「ああ、彼女も亡くなったお母さんの声を聞いたんだ!」 カナカナカナと寂寥を奏でるヒグラシの鳴き声を耳にして、清治は「じゃ、僕帰るね」と言った。 少女は涙の残る顔を彼に向けて、「学校で会いましょう」と言った。 2学期の始業式の日、清治は早めに学校に着いた。 妹も成長し、これからは支度も自分でできるだろう。 何より彼を学校へ駆り立てたのは、少女の言葉だった。 ドキドキする清治の心臓の音が天まで届いたのか、彼のクラスに転校生として入ってきたのは、あの少女だった。 清治は快哉を叫びつつ、「そういえば名前聞いてなかったっけ」と思った。 「宮西 亜紀です。よろしく」 夏が終わり、秋が始まった。 (了)
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