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「ほんとにすみません」
教室ほどの大きさのある校舎内の事務室に、九条の謝罪の言葉が響いた。
「まあまあ、もういいから頭上げて」
物腰の柔らかい口調で言った。九十度に曲げていた腰をゆっくりと戻し、頭を上げた。目の前には警備服姿の初老男が、困ったような表情で、白髪の混じりの頭を片手で押さえた。
初老の男の後ろの、誰かの机に置かれていたデジタル時計を見やる。七時半を過ぎていた。集合時間を一時間も過ぎている。遅刻の理由は、今も止む気配のない豪雨による電車の遅延だった。
「電車の遅れは仕方ないから。えっと、ああ、私、山田といいます。君に短期のバイトを依頼した警備会社の社員ね。まずはこの警備服に着替えてもらおうかな」
そう言って山田は、透明なビニールでラッピングされたままの警備服と紺色の制帽を九条に渡した。
九条は事務室横のトイレで着替を済ました。警備服は、山田が着ているものと同じで、肩章のついた水色の長袖カッターシャツと、紺色のネクタイ、紺色のパンツだった。よく見るタイプの警備服だなと、九条は思った。鏡に映る自分を少しだけ確認して、そそくさと事務室へと戻る。
「若くて、身長も高くてすらっとしてるからよく似合ってるよ。今、大学生?」
「そうです」
「若いってのはそれだけで武器だからね」と、冗談めかした山田の言葉に、九条は愛想笑いを浮かべて応じた。
「今日は、私と九条君、それともう一人のアルバイトの坂下さんの三人で、校舎内の施錠と巡回をやってもらうね。私は、この事務所のある本館と体育館、九条君は、坂下さんと一緒に北館をお願いします。坂下さんにはすでに北館の施錠に行ってもらってるから、九条君は坂下さんと合流したら、一緒に巡回してください」
説明が終わると、九条は、この学校のフロアマップと、懐中電灯、トランシーバー、それと何種類もの鍵がついた大きなキーリングを渡された。
「あの、一つだけ質問いいですか?」
九条が、ふと、そんなことを口にした。
「何?」
「応募してた時からずっと思っていたんですが、今回のバイト、なんで一日限定なんですか? 警備のバイトは初めてで普通をよく知らないんですが、他の求人とか見ると、短期でも数日連続したものが多かったので珍しいなと、」
「ああ、そのこと」山田は聞かれて、何度が頷く。
「最近この辺の小学校で誘拐事件があったでしょ」
九条は、記憶をたどった。八月初旬のことだ。この近くの別の小学校で、学校の図書館に行っていた女児が行方不明になった。その女児の荷物は図書館に置いたままで、閉館直前にトイレへと向かった姿が最後の目撃情報ということから、犯人は校内にて犯行に及んだのではないかと警察は推察しているそうだ。
「はい、全国ニュースにもなりましたよね」
「その事件を受けてこの辺りの小学校が一斉に、警備を依頼することになったんだ。といっても、この辺りはたくさん小学校があるからね、とても正社員だけじゃ人数が足りなくて、それでアルバイトを急いで募集したわけ。そしたら、夏休み最後のこの一日だけ、人が足りていないことに気付いて、それで今回の求人を出したらしんだ」
「なるほど」
「いや、でも応募してくれてほんと助かるよ」山田は柔和な笑みを九条に向けた。
「いえいえ、とんでもないです」と、九条はかぶりを振った。
「じゃあ、巡回が終わったら一度事務室に戻ってきてください」
「分かりました」
答えて北館へと向かおうとしたとき、「九条君」と山田に呼び止められた。
「はい?」
「巡回、気をつけてね」
真っすぐと九条の目を見て山田は言った眉間に皺を寄せ、唇をぎゅっと結んでいる。その顔に先ほどの柔和な笑みはく、九条は一瞬、別人のように感じた。
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