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 久しぶりに目が合ったイザクは、出会ったときと変わらず澄んだ瞳をしている。 (このひとを憎めばいいの?)  誰よりもやさしいイザクを?  だとすると、ミリがこの世界にしがみつく理由が跡形もなく消え去ることになる。  かといって蓋をし続けてきた怒りの感情は、最早(もはや)押し殺せるものではなくなってしまった。  ふたりきりにされた部屋で、一体どうすべきなのだろうか。  自分がどうしたいのかすら、ミリには何ひとつ分からなかった。 「すまない……君があの村の生き残りと知り、今までいたずらに避けてしまった」  何かの間違いであってほしい。  そんな一縷(いちる)の望みは、イザク本人にあっけなく打ち砕かれる。 「戦いが終結した後、わたしはのうのうと戦場となった土地へ視察に行った。初めは勝利の美酒に酔いしれ、それをさらに味わうためだった。だがそこには、まさに戦禍の中心となった焼けただれた村があるだけだった……」  その場所こそがミリが生まれ育った大切な故郷だ。  あの景色をイザクも見たのだろう。焼け野原となった最果ての村には、痛ましいほど人々の営みの跡がありありと残されていた。 「ミリ、わたしを殺してくれ」  静かな瞳でイザクは言った。その権利が君にはあるからと。 「わたしは机上(きじょう)で作戦を立て、自分は始終安全な場所にいた。ずっと良心の呵責(かしゃく)に苛まれ続け、それを紛らわせるために偽善者の仮面をかぶり戦争孤児への援助を行ってきたのだ」  目の前にいるイザクが、どこか遠くに感じた。  自分が愛していたのは、本当にこのひとだったのだろうか?  このひとを愛していた自分は、本当に存在していたのだろうか? 「だがわたしの罪が消えることはない。敵とともにミリの村を焼き払う命令を下したのは、誰でもないこのわたしなのだから」  押し込めていた憎しみ。  子供たちの無邪気な笑顔。  イザクへの想い。  苦しみながら焼け死んでいった家族たち。  がんじがらめになったミリの心は、ひび割れたままどこにも動けなかった。 「……あなたさえいなければ」 「そうだ、わたしが……あの計画を推し進めてさえいなければ……」  やさしい手つきで、イザクはミリに短刀を握らせてくる。  むき出しの(やいば)は、磨かれた鏡のように冷たい輝きを放つ。 「あなたさえいなければ――……っ!」  叫びながらミリは短刀を振り上げた。  イザクさえいなければ、ミリは今も笑って故郷で過ごしていたかもしれないのに。  だが振りかぶったまま、それ以上動けない。  未だイザクを愛している。  ミリは短刀を力なく手落とした。  溢れ出す涙が止まらない。イザクごと、世界の何もかもが歪んで見えた。  あのとき死んでしまえばよかったのだ。生き残ったのが、なぜこの自分だったのか。  己など生きる価値のない存在だ。  虚無感に襲われて、ミリはその場に泣き崩れた。 「わたしを殺して。今すぐみんなの元にいかせて……」 「ミリ……」  どうしてこのひとに出会ってしまったのだろう。  イザクと出会いさえしなければ、何も知らずに感情を殺し続けることができたのに。 「あなたは一生罪を背負って生きていくのよ。この国の平和と引き換えに、わたしから大切な家族を奪ったのだから……!」  床に転がる短刀を拾い上げ、ミリはイザクの目を真っすぐに見た。 「もう……嫌なの。これ以上、気持ちを偽って生き続けるのは……」  目を逸らすことなくイザクに短刀を手渡した。  イザクもまた、ミリから視線を外そうとしなかった。 「だからお願い。あなたの手でわたしを殺して」  首筋に刃を当てさせる。  震えるイザクの手を取って、柔らかな皮膚に鋭利な刃を押しつけた。  その後、偉大なる賢人(ハハム)は人々の前から姿を消した。最後の生き残りだった、最果ての村の犠牲者の亡骸(なきがら)とともに。  やがて戦地となった村の名も忘れ去られ、平和(シャローム)の祭りの習慣と、語り継がれた英雄の名だけが後世に残された。  時は流れ、生み出された不和に人はまた争いを繰り返していく。  それぞれがそれぞれの正義のために。
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