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知り合ったのは小学四年生の時だ。
私が通っていた子供向けの陸上クラブに、後から入ってきたのが同級生の夏希だった。
口数の少ない内気な子、というのが当時の印象だ。極度の人見知りだったらしい。見知った子がいないクラブの練習で、夏希はいつも恥ずかしそうにモジモジとしていた。
「歩美ちゃん。この子、同い年の倉木夏希ちゃんっていうの。クラブに入ったばかりだから、仲良くしてあげてね」
コーチの先生にそう言われた私は「はーい!」と元気よく返事をした。
頼りにされたのが、嬉しかったのだ。
「なつきちゃん、いっしょにいこっ!」
私はそう言って夏希の手を取った。同い年とはいえ、クラブに通い始めたのは私が先だった。そういう意味では先輩だ。いい格好がしたかったのかもしれない。
急に距離を詰められて、夏希は少しだけ驚いた様子だった。けれど、繋いだ手は僅かな力でおずおずと握り返されていた。
そうして、私達はよく一緒に行動するようになった。ストレッチや体操など、ペアを組んで練習する場面は少なくない。必然的に共に過ごす時間が多くなる中で、夏希は徐々に笑顔を見せるようになった。
私達が通っていた陸上クラブの対象年齢は十二歳までだった。中学に上がると同時に、クラブの練習も卒業する仕組みだ。住んでいる地域の学区が異なる私と夏希は、それぞれ別の中学に進み、そこで陸上部に入部した。
小学生の頃からクラブで指導を受けていたおかげで、私も夏希も足は速いほうだった。
クラブを卒業した後も私たちの関係は切れることなく、友達として、時にはライバルとしてその肩を並べた。
同じ短距離走の選手であれば、大会や合同練習でも顔を合わせる機会は多くなる。
学外での練習で顔を合わせた時、私は自分から夏希に近寄って話しかけた。夏希は中学生になっても依然として口数が少なく、表情の変化にも乏しかったから、彼女の事をよく知らない周りの生徒達からは、少し難しい人物だと思われていたらしい。
けれど、本当はそうじゃなかった。
恐ろしく口下手なだけで、こちらから手を振れば、こっそりと小さく手を振りかえしてくれる。
夏希は、そんなシャイな女の子だった。
私と夏希は百メートルハードル走を専門種目と定めた。クラブのコーチが元々ハードル走の選手であった事もあり、小学生の頃からハードル走に慣れ親しんでいたからだ。
アドバンテージがあった事もあり、私達はすぐに、地区大会や県大会で結果を残すようになっていった。
特に、夏希の成長はめざましかった。
中学に入り、身体の成長期を経て、夏希の身長は格段に伸びた。長い脚、高い位置にある腰は、ハードル走の選手にとって大きな利点となる。元々クラブの練習で培っていたハードリングの技術と相まって、夏希のタイムはグングンと縮まっていった。
長い黒髪のポニーテールを風に靡かせながら、夏希はその長い手足を、トラックの上で存分に躍動させた。その姿は、同性の私の目から見ても、端的に言って美しかった。
私は身長こそ夏希のように伸びなかったが、持ち前の脚力とハードリングの技術で、上位の選手達に食らい付いていった。タイムは縮む。表彰台にも手は届く。けれど、夏希のいる大会で私が一位になれる事は無かった。
悔しくなかった、といえば嘘になる。
けれど、その感情とほとんど同じ熱量で、私は夏希が誇らしかった。
子供の頃から一緒に練習していた友人が、全国でもトップレベルの選手と渡り合っている。あんなに不安そうに私の手を握っていた女の子が、堂々とした様子で表彰台に昇っていく。その姿を見るだけで、私は嬉しくなってしまっていたのだ。
中学最後の県大会。
百メートルハードルの決勝戦で、私と夏希は隣り合ったレーンに並んだ。
スタートの姿勢に入る前。私が僅かに微笑みかけると、夏希は真顔で小さく頷いた。
スターティングブロックに足をかけ、熱のこもったタータントラックに両手を付く。
深い呼吸。
ひとときの静寂。
身体の血が内側に向かう、私だけの感覚。
閉じていく世界を切り破るように、銃声が耳を貫き、私は走り出す。
一、二、三。並んだハードルを飛び越えながら、より速く、より先へ、脚を運ぶ。
近付くゴールライン。
それだけを目指し、先鋭していたはずの視界に、黒いポニーテールの先っぽが跳ねる。
気が付けば私は、ゴールラインではなく夏希の背中を追いかけていた。
最後のハードルを飛び越えて、フィニッシュへと向かっていく。
夏希と私の間にある物理的な距離は、短いはずなのにとても遠くて、決して届かないって事は既にわかっている。けれど、力を抜くことなんて出来なかった。
上半身を突き出し、ゴールラインを駆け抜ける。減速しつつ、力を流す。そうしてやっと、周りの歓声と拍手の音が聴こえてくる。
膝に手を付き、息を整えていると誰かが近づいてくる気配を感じた。
顔を上げる。夏希だった。
僅かに微笑みながら腕を広げている。
次の瞬間、私は抱擁されていた。
汗の滲んだ夏希の肌を通して、熱く脈を打つ心臓の鼓動が、たしかに私の胸を叩いていた。
一着、倉木夏希。
二着、奥野歩美。
私は夏希に次ぐタイムでゴールしていた。
「やったね、あゆちゃん」
震える声で、夏希はそう言った。
それを聴いて、不思議と私の目にも涙が溢れてきた。
共に上がる表彰台。
大会を見に来てくれていた小学生時代の陸上クラブのコーチは、カメラを片手に、目に涙を浮かべて喜んでくれていた。
私達は二人で肩を組み、満面の笑みを浮かべてシャッターの前に立った。
思えばあの瞬間が、私の陸上人生において、最も報われた瞬間だったのかもしれない。
大好きな友人と、表彰台の上で並ぶ。
思い出に残る、青春の一ページ。
みんなに祝福される幸福な時間の中で、私は明らかな一つの事実について、なるべく考えないようにしていた。
県大会の順位こそ一位と二位。
けれど、私と夏希の残した記録には、一秒以上の差があった。
私は決して、百メートルハードルという種目の実力において、夏希と肩を並べた訳では無かったのだ。
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