11人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
中学を卒業した夏希と私は、実家から通える距離にある中で、最も陸上競技に力を入れている高校に進学した。
「県中学総体のワン、ツーだからな! 今年の新入生は期待できるぞぉ!」
部の顧問はそう言って笑ったが、私の中には一抹の不安が残っていた。
百メートルハードル走の公式競技で使われるハードルは、中学から高校に上がると約八センチほど高くなる。
私は中学総体が終了した後、ハードルの高さを高校の基準まで上げて自主練習に取り組んでいた。けれど思うようにいかなかった。
身体が、ハードルの高さに適応出来なかったのだ。
私の身体の成長は中学の半ばでほとんど止まっていた。高校入学時の身長は同学年の女子の平均を大きく下回る程だった。
小、中学校ではまだギリギリ戦えていた身体が、周りに追いつかなくなっていたのだ。
私はひどく焦り始めていた。
高校総体の規則では、同じ種目に対し、一つの高校から三名までしか出場できない。
私達の学校では、総体前の部内選考会で上位三着までに入った選手が、正式に出場できる決まりだった。
一年目の夏。夏希は、一年生ながらにして、堂々たる走りで選考会を突破した。百メートルハードルを専門とする選手の中で、私の順位は、下から数えた方が早かった。
このままでは、夏希と並んで走ることすら出来ない。
どうにか、突破口を見つけようとして無理な自主練習を続けていたある日、私の身体は突如、悲鳴を上げた。
大腿の肉離れ。全治三ヶ月と診断された。
開いた差は、更に広がる一方だった。
怪我で練習ができなくなった期間、私は積極的に、夏希をはじめとする他の選手のケアとマネジメントを勤しんだ。自分のような怪我を皆にはして欲しくないから、と他の部員には話した。嘘ではない。けれど、百パーセントの純粋な気持ちという訳でもなかった。
私はとにかく、陸上に関わる何かに携わって身体を動かしていないと、居ても立っても居られなかったのだ。
練習の時、私は出来る限り朗らかな態度で皆に接した。怪我は自分一人の事だ。部内の空気を悪くしてはいけない。
ストレッチやマッサージ等、身体のケアに関わることについては人一倍勉強していたから、先輩や同級生達は、サポートにまわった私の存在を喜んでくれた。
その中でただ一人、夏希だけがどこか納得いかないような様子で、遠巻きに私を見つめていた。埋まらない実力の差は、夏希と私の間に、高く、深く立ちはだかっていた。
冬を経て学年が上がり、太腿の怪我からある程度回復してからも、私は選手兼マネージャーのような立場で、部内を忙しく立ち回った。必要とされている、という感覚は、思うようにタイムが伸びない私の焦燥を、じんわりと麻痺させてくれた。
「あゆちゃん」
ある日の練習後、私がスターターの後片付けをしていると、夏希が声をかけてきた。
「あ、マッサージ? ごめんごめん、これ、あと少しで終わらせるから」
「違う、そうじゃなくて」
私の服の裾を掴み、夏希は何か言いにくそうにして俯いていた。高い身長。すらりと長い手足。そして、選手としても申し分のない実績。周囲から尊敬と憧れの目で見られるようになっても、夏希の口下手は変わらない。それが「クール」と褒めそやされてしまうのだから、人の評価というものは分からない。
「練習、いいの? それで」
「……どういう意味」
「あゆちゃん、前より全然、走れてない」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭はカッと熱くなった。確かに私は、中学の時よりもまともに走れなくなった。自分が一番分かっている。だからこそ、夏希にそう言われてしまった事に、どうしようもなく腹が立った。
「……そうかもね」
「だから……」
「遅くなったよね、私。中学が全盛期だったよね。ハードルに合わせられなくて、無理して怪我して、後輩にもすぐ追い抜かれて。トップ選手の夏希とは大違いだよ。わざわざ言われなくても、分かってるって」
「え、あ……」
夏希はハッとした表情をして口を抑えた。もう遅い。私は軽口でも叩いているように、変に明るく声を発した。わざとだ。
「気にしないでよ、私の事なんて。夏希は自分の練習のことだけ考えてなよ。いくらでもサポートするからさ。でも今日のマッサージは別の人に頼んでくれないかな? 部長に頼まれていた用事、思い出しちゃったから」
「ち、ちがうの、あゆちゃん」
呼び止めようとする声に気付かないフリをして、私はその場を立ち去った。
振り返りはしなかったけど、そこに残されて立ち尽くす夏希の姿は容易に想像できた。
ぽつん、と。
悲しそうな目をして。
本当は、分かっていたのだ。
あの時の夏希の「走れてない」という言葉は、伸び悩んでいた私のタイムを指していたのではない。補助やケアにまわる事が増えた私が、十分な練習時間を確保できていなかった事を指して、夏希は「前より走れてない」と言ったのだ。
付き合いは誰よりも長い。
口下手な夏希の足りない言葉が、何が示しているのかなんて、私が一番読み取れる。
けれど、私はわざと揚げ足を取るような真似をして、夏希を突き放した。
八つ当たり、だった。
羨ましくてしょうがなかった。
私の事で夏希が、ほんの少しでも傷付いてくれるなら、それで憂さが晴れると思った。
そんなわけ、あるはずないのに。
最初のコメントを投稿しよう!