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一週間後、彼らはゴンドーレの王宮のバルコニーに降り立った。あの日から一ヶ月と半しか経っていないのにずいぶん久しぶりに感じる。
母はともかく、父に会うのが少し憂鬱だった。けれど懐かしい王宮についたらすぐに会いたくてたまらなくなった。アステルは思わず走り出す。
この時間帯なら二人は執務室にいるはずだ。
「お母様、お父様! ただいま!」
執務室に飛び込むと二人はすぐにそばに来て抱きしめてくれた。
「おかえりなさい、アステル」
「おかえり、パパの小さいドラゴン」
二人に抱きしめられて、アステルはうふふと笑う。
「旅の話聞きたいんだけど、パパ忙しくって。また後でね」
「ええ。でも、ルベールだけは紹介させて」
アステルはポシェットを開けて二人に見せる。ルベールは気まずそうにぺこりと頭を下げた。
「私のお友達なの。ドラゴンよ」
「まぁ、かわいらしいお友達ですわね」
フロガは赤い目を細めてほほと笑ったが、カーロは太い眉を片方だけ上げた。
「どんなにちっちゃくてもドラゴンだよね? 大丈夫なの?」
「ルベールはフェニーチェの審判の炎で一度も焼かれなかったの。言葉遣いは少し悪いけど、いいドラゴンよ」
「そうでなければここへは付いて来られないでしょう。心配いりませんわ、カーロ。悪いドラゴンであればフェニーチェが排除したでしょう。それにアステルの祖母が誰か知っていれば手出しはできないはず。魔法使い様の元にも一緒に行ったのでしょう?」
フロガはルベールの左手に魔法使いの印があることに気付いているようだった。けれど、人間であるカーロにはわからない。
「ええ、魔法使い様はルベールをいつでも待っていると仰ってたわ」
「そう。かのお方がそう仰るなら間違いないでしょう。邪(よこしま)なものは魔法使い様に会うことさえできませんもの」
「んー、そう? フロガがそこまで言うならいいけど」
なおも心配そうにした彼だったが、執務に戻って行った。ドラゴンを妻にしているカーロがどうしてそんなに気にするのか、アステルにはわからなかった。
ふと息を吐いて部屋に戻る。旅装を解いて王女のドレスを着ないと廷臣にますますいい顔をされないのはわかっている。
よく思われないことには慣れたが、フロガまで悪く言われるのはいやだった。彼女は王妃として素晴らしい働きをしている。
カーロが賢王と呼ばれるのは人間よりも長く生きるフロガやメリダの助言によく耳を傾けるからだ。そのことを理解しているから廷臣や元老院もフロガとアステルを粗末に扱わない。
部屋は旅に出た日と変わらずきれいに整えられていた。夏支度が行われ、カーペットやカーテンの色が変わっているだけだ。
侍女や小間使いに指示を出して身を清め、身支度を整える。
旅の間、すべて自分でしていたが、王宮にいるときはなに一つとして自分でしない。それがゴンドーレの仕来りで、王女の普通。本来だったら旅も許されなかった。
特別扱いが許されているのはアステルがドラゴンの血を引き、王位継承権を持たないからなのだろう。
「本当に姫さんなんだな」
ルベールがいつの間にか鏡台にちょこんと座っていた。
「きゃ! トカゲ!」
衛兵を呼びそうになった侍女をアステルは慌てて止める。
「違うの! 待って! ルベールは私のお友達よ」
「ご友人?」
侍女は戸惑いながらルベールを見下ろす。
「小さいけどドラゴンなの。トカゲじゃないわ」
「おうよ、姫さんのともだちだ。よろしくな」
ルベールが人懐っこい顔で笑うと侍女はやっと納得してくれたようだった。ルベールがそこらのトカゲではないとわかってもらえるようにした方がよさそうだ。ルベールは小さく大きいトカゲといわれても仕方がないところがある。
「あんたも姫さんのともだちか?」
「滅相もない。身分が違います」
侍女の返答にルベールは小首を傾げる、独りで生きてきた彼には身分というものがさっぱり馴染まないようだ。
「フェニーチェも言ってたけどよ、みぶんってぇのがわからねぇんだよな。人間はたっくさんいて、一つところに集まって住むってぇのに、みぶんだなんだで分けやがる。めんどくせぇ」
「たくさんいて、まとまって住んでいるから身分で分かれているんだと思うわ。お祖母様だってドラゴンの女王じゃない。数がいれば統率する者が必要になる」
ルベールは小さな肩をすくめる。
「ドラゴンは単純だ。女王メリダが一番強い。だから、一番偉い。二番目がヘリオス、三番目がジュード。強さの順だ。メリダが強すぎて怖いからみんな従ってる。そんだから女王って呼ぶ。みぶんじゃねぇ」
メリダがいたから今の平和が築かれたのだと教えられた。平和を築くために彼女は子を生した夫さえ殺したと聞いている。圧倒的な強さによる統治。それがドラゴンたちの在り方なのだろう。
「でも、ま、平和に暮らせるならそれが一番だと思うぜ」
ルベールはくけけと笑う。彼は単純で素直だ。そんなところに助けられることも多い。
「ずいぶんたくさんリボンがあるんだな」
彼は鏡台に置かれた籠を覗き込む。籠の中には色とりどりのリボンがきれいに並べられている。
「お父様がよく下さるの。ルベールにも結んであげる。何色が好き?」
ルベールは嬉しそうにリボンを選び始めた。リボンを結んでおけばうっかり衛兵に見つかっても殺される心配は減るだろう。
しばらく悩んでいたが、ルベールは赤いリボンを引っ張り出した。
「赤が好きなの?」
「姫さんの火とフェニーチェの羽根の色だ」
その答えにアステルはふと笑う。ずいぶんと好かれたようだ。
アステルはリボンを結び、小さなシトリンのブローチを付ける。これでだいぶ目立つようになったから大丈夫だろうか。
「これ、もらっていいのか?」
鏡を見たルベールは小さな鉤爪でブローチをつつく。
「ええ、あなたの目の色に似ててかわ……カッコいいでしょう?」
「そうだな」
ルベールはうれしそうに笑って胸を張る。
「ねぇ、ルベール。お祖母様にはいつ会いに行く?」
侍女に渡された化粧筆を片付けようとしていたルベールが肩をすくめる。
「まだいい。こえぇもん」
「怖くないわ。お母様だって怖くなかったでしょう?」
ルベールは苦笑いを浮かべながら紅筆を侍女に差し出す。ルベールは鏡台をうろうろしているから侍女に都合よく使われていた。意外と手慣れている。
「目が品定めするみてぇに光ってた。喰われるかと思ったぜ」
「あらまぁ、大事な娘のお友達を食べるなんてしませんわ」
不意にフロガの声が聞こえてルベールはアステルの足元に隠れる。
「お母様! 執務は終わったの?」
「ええ、あなたとお話がしたくて急いで終わらせましたのよ」
「うれしい」
フロガはふわりとほほ笑んで、侍女の手からブラシを取る。侍女は頭を下げて去って行った。
「きっと素敵なことがたくさんあったのでしょうね」
フロガはアステルの髪を結いながら穏やかにほほ笑む。彼女はドラゴンゆえに隠し切れない長身と鋭い目に恐れられることも多い。けれど、アステルにとっては誰よりもやさしい大好きな母だ。
「ええ」
アステルが旅の話を始めるとフェニーチェが戻って来た。空から見た畑や果樹園、人間たちと一緒に歩いて知った町の様子。話すことは尽きない。
「あら、寝てしまいましたわ」
ルベールがいつの間にかフロガの膝で眠っていた。だんだん打ち解け、フロガの膝で大人しくしていたが、寝てしまうとは思わなかった。
「お母様のことあんなに怖がってたのに」
アステルはくすりと笑う。ルベールはすっかり寝入っているらしく、アステルが触っても起きなかった。
「少し心配になる程ですわね。ドラゴンとは疑わしいほど小さく、心も清い。魔法使い様はなにか仰っていませんでしたか?」
「発火器官がなく、小さいだけでドラゴンであることは確かじゃと。なぜ小さく生まれ付いたかはわからぬそうじゃ」
「発火器官もないのですか?」
フロガは怪訝そうに細い眉を寄せる。
「も、というと?」
「闘争本能もなさそうですの」
「どうしてわかるの?」
アステルの問いにフロガは迷うそぶりを見せた。ドラゴンの根幹にかかわる話をするとき、彼女はいつも迷う。残虐な面を知られたくないのかもしれない。
「ドラゴンは本来、同族が側にいれば牙を剥かずにはいられないのです。子を生す以外で他者を受け入れるのは稀。ドラゴンが離れて暮らすのは殺し合わないためです。そばにいれば自然と本能が沸き起こり、殺し合う。けれど、ルベールはわたくしの膝で眠っています。わたくしも本能がまったく刺激されない。だから、闘争本能も持たないと言えるのではないかと」
「伯父様とお祖母様は一緒に住んでいるわ」
「血縁や夫婦は一緒にいられます。けれど、ルベールはわたくしの血縁ではない。こんなに無防備に眠るなんて本能がないとしか」
フロガは困惑気味にルベールを見下ろす。
「確かにいつも気付くと誰かに引っ付いて寝てるのよね。警戒心がないのは否定できない」
「ルベールはまだまだ幼いからのう」
「いくつなのですか?」
「二十歳と本人は言っておるが、数をうまく数えられておらぬ可能性もある」
フロガは複雑そうにルベールを撫でる。
「そんなに幼いのですね。それなら仕方のないことかもしれません」
むにゅむにゅしていたルベールがはっとなってアステルの膝に逃げ込む。
「おーひさんの膝があんまりあったけぇからうっかり寝ちまった」
フロガは声を上げて笑う。彼女の体温が心地よかったから眠ってしまっただけらしい。
「まったく、本当にかわいらしいこと」
フロガはルベールの頭を小指でそっと撫でる。
「わたくし、あなたが気に入りましてよ。ただ、少しは警戒心を持った方がよさそうですわね。わたくし、メリダの娘ですもの」
ほほと笑った彼女の口から鋭い牙が覗く。ルベールは一瞬でフェニーチェの翼の中に潜り込んだ。
本来、人間に変身できるほど強いドラゴンは多くない。ましてその姿を長時間維持できるとなると稀。メリダの血族でも半数に満たない。
力を誇示したことがなく目立たない彼女だが、強いドラゴンであることは紛れもない事実だった。
「そんなことをして脅かすなんてひどいわ、お母様」
娘の抗議にフロガはころころと笑う。すでに牙は消えていた。
「瞬発力は素晴らしいですわね」
「逃げ足が速くなきゃ生きられなかったんだ。もっとも、おーひさんが本気を出したら逃げ切れねぇんだろうけど」
「そうですわね」
フェニーチェの翼から顔を出したルベールにフロガは手を差し出す。ルベールは恐る恐るその手に移動した。
「ルベール、あとで王妃の紋章が入ったリボンをあげましょう。アステルと仲良くしてくださいね」
「おう! 俺は姫さんのともだちだからな!」
やさしく頷いたフロガはルベールをアステルの手に乗せて去って行った。
「おーひさんはいいドラゴンだな」
「フロガはカーロに恋して以来丸うなっての。人間に溶け込むためもあったろうが、話しやすい。かつてはドラゴンらしいじゃじゃ馬姫であったが」
フェニーチェはくくと笑う。
「カーロって王様のことか?」
「そうよ」
「軽そうに見えたけどすごいんだな」
「この国の王だもの」
ルベールは小首を傾げる。
「姫さん、王様と仲良くねぇのか?」
「そんなことないわ。仲良しよ」
「ふうん」
ルベールは興味を失くしたのか、ぱたぱたと窓辺に飛んで行った。
不仲なわけではない。ただなんとなく距離があるだけだ。
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