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旅
花の香で霞む空を見上げてゴンドーレ王女アステル・リーブルはため息を吐く。豊かな赤毛が縁取る横顔は物憂げだ。どこか勝ち気な夕焼け色の瞳も今は伏せられ、よく笑うぷっくりとした唇も口角が下がっている。
「さてさて、我が姫はなにがご不満か」
吟遊詩人であり教育係でもある不死鳥のフェニーチェに問われてアステルは視線を移す。
一応は人間の姿を模している彼だが、背には燃え盛る炎のような模様の翼がある。頭も黄色い冠羽がどうにか髪に見えるだけだから、到底人間には見えない。その目は鋭く、猛禽のそれだ。眼差しはいつも暖炉のようにあたたかいのだが。
彼はいつもおもちゃのように小さなハープを携えているが、今日も弦が切れている。
「不満なわけじゃないわ。ただ、ただね、私は人間でもドラゴンでもない。そのことがいやになる」
彼がぽろろと爪弾いたハープの音が飛び、外れた。彼は吟遊詩人を名乗ってはいるが、ハープが下手くそだ。弾く気がないのかもしれない。調律もしていないのか、まともな音がする方が少ない。弦が切れているのもいつものことだ。
「半々でよいところを継いでいる、と、わしは思うておるが?」
輝く金の目でじっと見つめられてアステルは目をそらす。
「人間は私を怖がるし、ドラゴンは私が側にいると気を使ってる。私じゃ王位を継げないからお父様は人間の第二妃に子供を産ませた。こんな姿をしているからみんなに避けられる。いいなんて思えない。どうしてお母さまは私を作ったの? 押しかけて結婚しちゃうくらい好きなら二人きりでずっと過ごせばよかったのに」
「そうじゃのぅ」
アステルの背には筋張ったドラゴンの翼があり、頭にはねじれた黒い角が生えている。笑えば牙が覗き、年齢相応に成長することができていないのに、背ばかり高い。
ドラゴンの血を引く王女を誰もが忌避した。血の繋がった人間の祖母も、祖父も。
「馴染めなかったのは寂しかったろう。じゃが、その分、わしが遊んでおるではないか」
「子供同士で遊びたかったの。フェニーチェって若いのは見た目だけじゃない」
「否定できんな」
彼はころころと笑う。彼が若いのは見てくれだけだ。おおよそ三千年生きているが、正確なところは本人も覚えていないという。
「異母弟のことは人間の都合ゆえ、ようわからぬが、元老院の都合が大きかろ。カーロは王としての務めを果たしているまで。情の上では本意ではない」
「情なんて知らない。お父様は私が怖いんだもの」
「そんなはずはないのじゃが……」
不死鳥は困ったように小首を傾げた。ヒナゲシのような黄色の髪がふわと揺れる。
「あるわ。お父様は私の火が怖いの」
拗ねたような口調になってしまったのが恥ずかしくて、アステルは彼に背を向ける。
「火のぅ。あの程度、気にするほどのことではないと思うのじゃが」
「そう言えるのはあなたも、お母様も人間じゃないからよ。人間は恐れる。第二妃も、お父様も……」
涙が溢れて言葉が続かなくなった。父王カーロともいつからか距離を感じるようになった。愛してくれているのはわかるが、抱きしめるのをためらわれて以来、素直に甘えられなくなった。今やそんな年ではない。わかっていても寂しかった。
フェニーチェはやさしく抱きしめて、翼で包み込んでくれた。彼の高い体温が伝わってくる。胸の奥で燃え盛る不死の炎の熱だろうか。
「泣かんでくれ、わしの可愛い姫。泣かれるとどうしたら良いかわからなくなってしまう」
「大賢者って言われる不死鳥にもわからないことがあるの?」
涙を拭いながら問えば、彼は困ったように笑った。
「知れば知るほどわからないことが増えるものなのじゃよ、姫」
「変なの」
「そうじゃな、不思議なものよ」
アステルはふうと息を吐いて彼のやわらかな翼を撫でる。
「私、お父様とお母様の娘でよかったって思ってる。寂しい思いをすることもあったけど、私を愛してくれてる。でも、でもね、人間かドラゴン、どっちかだったらもっと、なんていうか、自分らしくいられたんじゃないかって、思うの……」
「ふむ。つまり姫は人間かドラゴン、どちらかになりたいと?」
「そう。姿だってどっちでもないもの」
顔や体だけ見れば人間に見えなくもないが、飛び出したものがドラゴンだと主張する。力の強いドラゴンたちのように変身することもできないから、アステルはずっとその姿だ。周囲との溝を深めた原因の一つだろう。
さらに成長の速度も違う。人間よりいくらか遅く、ドラゴンよりは遥かに早い。どちらでもあってどちらでもない。
「わしは姫の在り様を好ましゅう思うておる。一緒に空を舞えるのは楽しい」
「空を飛ぶのは好き。でも、きっと人間の方がいい」
「なぜそう思う?」
アステルは彼の金の目から逃れるように目をそらす。
「人間の国で暮らしてるから」
「その考えは好まぬ」
彼は音の外れたハープを爪弾く。硬い音がキンと耳に響いた。
「その考え方ではドラゴンと暮らせばドラゴンになりたいと言おう。まるで芯がない。姫の心が見えぬ」
図星を指されてアステルは目を伏せる。
「姫よ、自分らしさとはなんじゃ。ドラゴンと人間、両の個性を備えていることは姫らしさではないのか?」
「わからないの……ドラゴンと人間の血を引いているのは私だけ。他にいない。ドラゴンや人間みたいにたくさんいるわけじゃない。私の悩みをわかってくれるひとなんていないもの」
「そうさの。確かにドラゴンと人間の血を引くものは他におらぬ。姫のみじゃ。不死鳥もわしだけ。そう生まれ、そう生きてきた。ある意味では姫の悩みをわかってやれるかもしれぬ。じゃが、姫とわしは違う存在じゃ。悩みも違っているじゃろう。人間同士、血を分けたもの同士でも同じ悩みを持つとも限らぬ。わかってもらえぬと拗ねるのは違うのではなかろうか」
古老の正論にアステルはなにも言えなかった。彼はいつも正しい。
「姫よ、我らは言葉を持つ。話し、聞き、寄り添うことができる。それでは違うのか?」
やさしいほほ笑みで顔を覗き込まれ、アステルは目を泳がせる。
「そういうことじゃなくて……フェニーチェは独りで寂しくないの?」
彼は至極不思議そうに小首を傾げた。
「己が独りだと考えたこともなかった。種族が違えばわかりあえぬとも、友になれぬとも思うたことはない。わしは姫も友と思うておったが、違ったかの?」
「違わない。フェニーチェは私の大切な友達」
「そうであろう?」
やさしくほほ笑んだ彼は大窓を開け放つ。花の香をまとった春の風がさあと吹き込んだ。アステルの癖のある長い赤毛が風になびく。
不死鳥に手を取られて、アステルは窓から空へと舞い上がる。彼の尾羽のような髪が揺れた。
気ままでよくわからないフェニーチェだが、アステルのそばにいるためにその姿を保ってくれている。完全に独りだと思わずにいられるのは彼の存在が大きい。
「そうじゃ、会いに行ってみるか」
「誰に?」
彼はにっと笑って口を開く。
「魔法使いじゃよ」
「魔法使いってあの?」
魔法使いは世界にただ一人しかいない。簡単に会える相手ではないと聞いている。
「さよう。虹の魔法使いオルディア・アルクス・カエレスティスはわしの古い友よ」
アステルは思わず目を見開く。まさか、かの魔法使いまで友達だとは思わなかった。
「フェニーチェの交友関係ってどうなってるの?」
今のように人間の王宮に紛れ込むのも初めてではないと聞いているし、ドラゴンの多くとも顔見知りだ。長く生きているせいだとは言っていたが、魔法使いまでとは想像もしていなかった。
「どうと問われても困るのぅ。長う生きておるとあちこち行くゆえ。オルディアには育ててもろうたのよ。時折遊びにも行っておる。かれこれ三百年ほど無沙汰をしておるが」
彼の幼少時代など想像もできないが、他にいない種だからこそ、魔法使いに育てられたのかもしれない。
「オルディアに会いに行くのであれば、フロガの許しを得ねばな」
フェニーチェは突如として本来の姿に戻ると、急降下した。クジャクにも似た尾羽が炎のような軌跡を残す。
「あ、待って!」
アステルも翼を閉じて急降下する。だが、一日千里を飛ぶとも言われる彼の飛行は優雅に見えて恐ろしく速い。追いつけないまま遅れて着地すると、すでに姿を変えた彼が立っていた。
「着地が上達したの」
失敗したらすぐに助けるつもりだったのだろう手に軽く触れる。アステルは長く着地が上達せず、彼に助けてもらったことは多い。
助けてもらわなくなってもうすぐ一年だ。けれど彼にとってはまだ昨日のことのように思えるのだろう。
「先生がよかったもの」
彼はほほと笑ってハープを爪弾く。
「教えた覚えはないがの」
「そうかも」
アステルはくすくす笑って歩き出す。いつの間にか気持ちが軽くなっていた。落ち込んでいても彼と話すと気が楽になる。
正論ばかりで嫌になることもあるが、アステルはフェニーチェが大好きだ。その姿やズレてしまった成長のせいで友達を作りにくい彼女のそばにずっといてくれる。友人であり、師であり、兄のような存在だ。
彼が吟遊詩人を名乗っているのはアステルのためだ。教育係では友人という立場に立ちにくい。ほどほどに自由で助言をするのにも向いている。
けれど、名乗っているだけだから、人間の軍記も恋歌も知らない。彼は低く響く豊かな声で古い古い不思議な歌をうたう。
そんな彼が魔法使いに会おうと言い出したのもきっと考えあってのことなのだろう。
王の間に続く一際広い廊下を歩くとさっと道が開いた。アステルが王女だからではない。人間はドラゴンの血を引く姫を漠然と恐れている。
ドラゴンが人間を襲わなくなって六百年の時が過ぎるといっても、圧倒的な力の差や、体格の差は消えない。人間がドラゴンを恐れ続けるのも無理からぬ話なのだろうか。
「お母様はお部屋よ」
執務室に真っ直ぐに向かおうとしている彼を呼び止める。
「今日は休みか」
「ええ」
本来は巨大なドラゴンであるフロガは時折休んでは文字通り羽を伸ばす。常に人間の姿でいるのも楽ではないらしい。だから、休日のフロガは王妃の間の奥にある隠し部屋でドラゴンに戻るのだ。
家臣も国民も王妃がドラゴンであることは当然知っている。ドラゴンと人間は平和協定を結んでいて、ドラゴンが人間を襲うことはない。それでも巨大な姿を見れば恐ろしいだろうと、彼女は本来の姿を隠している。
人間とドラゴンという異質な夫婦が誕生したのは父カーロの一目惚れと、母フロガの積極性によるものだと聞いている。激情の末に結ばれた二人は無理に無理を重ねてアステルを生み出した。
本来であれば子のできない関係。二人の払った犠牲は少なくない。フロガは右目と命の一部を、カーロは寿命を一年差し出したのだという。
両親が払った犠牲を思えば、くよくよ悩むべきではないとわかっている。わかっていても悩まずにはいられない。
王妃の間に入り、大きなチェストの陰に隠された扉をそっと叩く。
「お母様、私よ、開けてもいい?」
ドラゴン特有のひび割れた声ですぐに返事があった。アステルはそっと扉を押し開く。そこには母本来の住処である溶岩洞が広がっている。むわっと吹きあがる熱気は溶岩のものだ。ドラゴンは溶岩で体を清め、腹を満たす。火山無くしてドラゴンは存在しえない。
隠し部屋といっても王妃の間に繋がっているだけで、王宮内にはない。王宮から一番近い火山の火口だ。
「フェニーチェも一緒なのですね」
フロガはゆっくりと頭をもたげる。深紅のドラゴンが彼女の本来の姿だ。大きな翼とねじれた黒い角はアステルとそっくり同じ。彼女の本来の姿を見るとフロガが本当に自分の母なのだと安心できる。
アステルは鋭く長い鉤爪の生えた前足にもたれる。鉤爪は太く、アステルが腰かけられるほどだ。
「あのね、お母様、フェニーチェが魔法使い様に会いに行こうっていうの。行ってきてもいい?」
「まぁ、魔法使い様に?」
「そろそろいい機会と思うのじゃが」
フェニーチェの声にフロガは優雅に頷く。
「そうですわね。そろそろいいかもしれませんね」
フロガはアステルの顔を覗き込む。大きな口には鋭い牙が並び、熱い息が漏れる。
「アステル、魔法使い様はいつも遠くて近いところにおられます。わたくしが送って行くこともできますが、フェニーチェと旅をするのもいいでしょう。王宮を離れ、学ぶことも多い。自分の力で行けますか?」
その言葉にアステルは少し迷ったが、頷く。ずっと王宮で生まれ育ち、なにもかも与えられて生きてきた。けれど、自分の力でなせることをしてみたい。
「私、自分の力で行きたい」
フロガはやさしく頷いてくれた。
「魔法使い様は神にも等しいお方、失礼のないように気を付けるのですよ」
「はい、お母様」
「お父様のお許しも得てから日取りを決めましょう。フェニーチェは今の住処を知っているのですか?」
フェニーチェは軽く肩をすくめる。
「知らぬ。じゃが、探せばすぐに見つかろう」
フロガはふうとため息を吐く。
「あなたはそういうところが困ります。アステルはあなたと違って日に千里も飛ばないのですよ」
「おお、そうであった」
フェニーチェは手をぽんと打つ。彼女に指摘されなかったら信じがたい速度で飛びまわって探す気だったようだ。
「では、探してくれ、フロガよ」
フェニーチェは飛び回って探すのが常だから、ひと探しの魔法が不得手なのだという。フロガは平和な時代に生まれたからか、ドラゴンにしては繊細な魔法を使う。
そんな彼女は不死鳥にとってはまだまだ子供のようだ。いつも気軽に名を呼んでは頼みごとをする。長く生きるもので三百歳はかなり若いらしい。
フロガはあきれたようにため息を吐いて口を開く。
「今日はダメですわ。明日にいたしましょう」
彼よりはるかに若いといっても永く生きているのは彼女も同じ。一日二日は誤差だと思っている。長命であるがゆえのズレを解消するのは難しい。
それでもフロガは人間と暮らしているだけあってズレが少ない。おっとりしているのだと思えば気にならない程度だ。
それに彼女は休むと決めたら話す、飛ぶ、寝る以外のことをしない。ひと探しは休むついでにできないようだ。
「オルディアは数十年ごとに住処を変える。あのお方は虹の城を通って移動するゆえ、同じ時に千里万里も離れた場所に存在することさえある」
神とも等しい、世界を統べるとも称され、おとぎ話にも顔を出す魔法使いはスケールが桁違いであるらしい。
フェニーチェは音の外れたハープを爪弾きながら歌声を響かせ去って行った。それはオルディアを称える歌のようでいて、彼の思慕の情が見え隠れする。三百年会っていないと言っていたから彼も楽しみなのかもしれない。
アステルが胸に身体を押し付けるとフロガは傷つけないように前足を寄せた。アステルの足よりも長い鉤爪は触れるものを切り裂いてしまう。
「今日はもう少しここにいてもいい?」
甘えるように問えば、フロガはやさしくほほ笑んだ。
「もちろんです、愛しい子。あなたにもドラゴンの血が流れている。溶岩の熱気が心地いいでしょう?」
「それもあるけど、お母様のそばがいい」
「まぁ、かわいい子」
鳥にも似た口先で背中を軽くついばまれた。少し痛いが、それがドラゴンの愛情表現だ。
「大好きよ、お母様」
「わたくしも大好きですわ、アステル」
母の胸の奥で心臓の鼓動と炎が渦巻く音がする。人間とは違う音だ。
「ねぇ、お母様、私も溶岩に入ってみたい」
「あなたはお父様と同じ体温ですもの」
ドラゴンとは違うと遠回しに言われているのはわかっている。何度その言葉を聞いただろう。
アステルの体温は人間よりも高いが、ドラゴンほどではない。ドラゴンのように丈夫なうろこも持たない。
「試してみなきゃわからないじゃない」
「いけません。あなたが火傷したらわたくし辛くてたえられません。そうですわ、アステル、一緒にお空を飛びましょう、ね?」
気をそらされたのはわかったが、アステルは笑顔を浮かべる。
「お祖母様のところに連れて行ってくれる?」
「ええ」
フロガが大きな翼で舞い上がる気流に乗りアステルは飛び立つ。巨大なドラゴンと空を飛ぶのは楽しい。すぐに追いつけなくなるから乗せてもらうが、最初だけは遊ぶようにゆっくり飛んでくれる。
大きな翼が作り出す気流の渦がアステルを翻弄する。少女は笑いながら深紅のドラゴンの周囲を旋回する。フロガが翼を閉じて回転すると新たな気流が生まれた。吹き飛ばされないように一生懸命羽ばたいてねじれた黒い角につかまる。
右の角には金の輪がはめられている。アステルの知るドラゴンで角に飾りをつけているのは彼女だけだ。理由があるのだろう。金の輪の表面には細かな文字が刻まれている。
「さぁ、参りますわよ」
深紅のドラゴンが力強く羽ばたくと強風がアステルの頬を撫でた。景色が飛ぶように変わっていく。
フロガの飛行は桁違いの速さだ。それでも一日千里を飛ぶフェニーチェよりはずいぶんと遅い。彼の見ている景色がどんなものか、想像もできない。
フロガは北東に進路を取った。祖母メリダの城はゴンドーレ北東の大きな火山にある。
メリダはドラゴンの女王だ。彼女は人間とドラゴンを分け隔てることなく愛し、今の平和を築いた。だから、アステルの両親は恋に落ちたのだろう。
メリダはドラゴンでありながら城を持ち、そこで暮らしている。人間のことを理解すべきとの考えから来るものだと聞いた。
メリダは時折哀しそうに空を見ている。そんな時、彼女は遥か昔に失くしてしまったとある姫君のことを思っているのだという。
そんな祖母がアステルは大好きだ。彼女はアステルに惜しみない愛情を注いでくれる。
ドラゴンに合わせた巨大な城のバルコニーにこれまた小山のように巨大な深紅のドラゴンが佇んでいた。翼や身体には多くの傷が刻まれ、薬指がない。
「お祖母様!」
フロガの頭から飛び降りたアステルに気付いたメリダは人間に姿を変える。元が巨大な彼女は人間の姿もかなり大きい。大の男も見上げるほど大きく、並ぶものがない。
たくましく長い腕でメリダはアステルを抱きとめた。鋭い赤い目がふと細められる。
「あらあら、かわいい子が降って来ましたわ」
紅がきれいに塗られた厚い唇がうれしそうに微笑み、口づけを落とされた。齢千八百歳を超える彼女からしたらアステルは赤ん坊同然らしく、いつもあやすように抱っこされてしまう。そろそろ恥ずかしいがやめてくれそうにない。
「大きくなりましたね」
「少しだけよ。お祖母様もお元気そう」
「ええ、かわいい子に会えましたから」
すりと寄せられた頬が熱い。
「誰かと思えばアステルでしたか」
革靴の足音を響かせながら姿を見せたのはヘリオスだ。彼も当然ドラゴンなのだが、人間の姿でいることがほとんど。ドラゴンよりも人間の友人の方が多いと笑っていたのは冗談ではないのだろう。
メリダやフロガと違って彼がまとっているのは本物の服だ。他のドラゴンたちはそう見せているだけで、着ているわけではない。
彼がそうして人間の服をまとうのは信念によるものだ。メリダの補佐をしていくうえで必要に感じた部分もあるようだが。
丁寧に撫でつけられた黒髪、切れ長の目。すっと通った鼻筋に薄い唇。彼は人間の女性にかなりモテるそうだ。彼の美丈夫ぶりとそつのない振る舞いを見ればわからなくもないとアステルは思う。
「今日も素敵ね、伯父様」
「ありがとう、アステル。ますます素敵なレディになりましたね」
頭を撫でてくれた彼の大きな手はいつも心地いい。伯父のとろけるような眼差しにアステルは思わず顔を赤くする。
「お兄様ったら姪の初恋まで奪うおつもり?」
ヘリオスはくすくす笑ってフロガの顔を撫でる。
「そんなつもりはありませんよ。私もそこそこ年ですし、アステルのことは孫くらいに思っています」
彼はメリダの七人いる子の長子で齢千五百歳を超えている。末娘のフロガとはかなり年が離れているから、妹というより娘のように感じているらしい。そんな兄に恋したことがあると母が恥ずかしそうに笑っていたのはいつのことだろう。
ドラゴンたちは誰もが長い命を持ち、その姿が衰えることがない。いつまでも若い姿のドラゴンたち。こうして慈しんでくれる彼らに囲まれていれば疎外感は薄れる。
やはりドラゴンになった方がいいのだろうか。そう思いかけてアステルは頭を振る。
フェニーチェに言われた通りだ。自分がどうしたいかではなく、楽になりたいだけの選択ならしない方がいい。いずれ選ばなかった方がよかったと思う日が来るだろう。
自分は自分のままでいいと思える日は来るのだろうか。
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