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出立の日、アステルは旅装をまとい、西向きのバルコニーに立った。見送りのためにカーロとフロガが時間を割いてくれた。
「気を付けて行ってくるのですよ」
「ありがとう、お母様」
フロガに抱きつくと強く抱きしめられた。やはり心配になったのか、昨夜荷物のほとんどに守護の魔法をかけていた。それでも止めずにいてくれることがうれしい。
「必ず、帰ってくるんだよ」
伸ばされた手がわずかに震えて止まった。やはりカーロはアステルの炎が怖いのだろう。そう思うと泣きそうになった。しばらく会えなくなるというのに、彼はやはり触れてくれない。
「無理しないで、お父様。わかってるから」
だが、その時、唐突に抱きしめられた。少し冷たく広い胸に抱かれてアステルは言葉が喉に詰まった。
「やっぱもう我慢してるなんて無理。アステル、パパのかわいいちっちゃなアステル。お怪我にも病気にも気を付けて行っておいでね。パパはずっと心配してるからね」
涙が溢れ出したら止まらなくなった。彼が触れなかったのはアステルの知らない理由があっただけだったようだ。
「お父様、ありがとう。必ず元気で帰ってくるわ」
「うん、必ずだよ」
しばらく名残を惜しんでいたが、カーロを侍従が呼びに来た。カーロは渋々、アステルに手を振る。
アステルは小さく笑って二人に手を振り、フェニーチェと一緒に飛び立った。
一時間ほど飛ぶと、王宮どころか、王都も見えなくなった。何度も振り返っていることに気付いたフェニーチェがくくと笑う。
「王宮を離れるは寂しいかの」
「うん、少しね。だって初めてだもの」
「そうじゃな」
頭を撫でてくれたフェニーチェが思い立ったように口を開いた。
「そうじゃ、そなたの父の旅の話でもしようかの」
「お父様の?」
「うむ」
フェニーチェはハープをポロと爪弾く。弦を張り直すついでに調律をしてきたらしい。珍しく音があっている。
「二十余年前のことじゃ、まだ皇太子であったカーロはフロガとの婚姻の許しを得るため、メリダの城を訪ねたことがある。フロガと一緒であれば遠く感じぬであろうが、人間なれば馬を用いても七日はかかる道のり。フロガは連れて行こうとした。じゃが、メリダが許さなんだ。種族の違うもの同士の婚姻は困難が多い。城への道のりくらい越えられず、どうして越えられようか、と」
「お祖母様って意外と厳しいのね」
アステルにとってはやさしくていくらでも甘やかしてくれる祖母だ。そんな試練を課すとは思いもよらなかった。
「平和になった世のメリダしか知らぬ姫にはわかるまい。メリダは残虐なドラゴンどもを六百年の長きに渡り従えてきた。その身が深紅であるのは返り血で染まったと言われるほど苛烈な治世を行った時期もある。長く生きたものでメリダを恐れぬものはおるまいよ」
折に触れて耳にするメリダの偉功。それがどれほど偉大なのか平和な時代しか知らないアステルには想像もできない。
「ドラゴンってそんなに残虐なの?」
「さよう。かつては戯れに村を焼き、人間を引きちぎり、武勇ばかりを追い求めた。メリダがおらねばドラゴンか人間、どちらかが滅ぶまで殺戮は続いたであろう。メリダがおるから今の安寧があり、そなたも生まれてきた」
アステルの知るドラゴンは彼の言う通り、血の繋がったやさしいドラゴンだけだ。そんな面があるとは知らなかった。
だが、ドラゴンは人間を圧倒する力を持っている。その力を快楽のためだけに使ったのなら、彼の言うような残虐な行為が横行していても不思議ではない。
「お祖母様ってやっぱりすごいのね」
「さようさよう」
「それでお父様はどうしたの?」
彼はくくと笑ってハープをぽろぽろと鳴らす。
「恋の狂気や男気というものはああいったものを指すのであろうな。カーロは一人馬に跨り、颯爽と駆け出した。供さえ置き去りにして一散に駆け出したのだ。わしはフロガに懇願され、すぐに後を追うた。が、一切手は貸さなんだ。それをカーロも望んでおったゆえ。カーロは休むことなく馬を駆り続け、なんとたったの四日で城のある火山の麓にたどり着いた。男前じゃったぞ、そなたの父は」
あの軽々しく、なにを考えているかわからないカーロの話とは思えない。若いころの父はそれほど情熱的だったのだろうか。
「上空からしか見たことがなくとも、あの山が人間に登れるものではないのは知っておろう?」
アステルはこくりと頷く。切り立った崖には木さえ根を張れず、わずかな草が生えるばかりだ。
「さすがに山は登れなかろうと、手を貸そうとした。が、カーロはわしの手を取ろうとはしなかった。そのか弱い五指と力強い足で崖を登ったのじゃ。鋭い岸壁に指の皮は裂け、血に塗れておったが、それでもカーロは登り続けた。そして、ついにメリダの前に辿り着き、フロガを幸せにすると、生涯ただ一人を愛し続けると誓った。それほどの覚悟を見せたカーロにメリダは感激し、結婚を許すばかりでなく、子を作る術を教えた。そうして生まれたのがそなたよ」
両親の激しく狂おしい愛と祖母の存在があったからアステルは生まれてきた。これまで知り得なかった話がじんと胸にしみる。
「私、血筋だけじゃなくて、お祖母様がいなかったら生まれてないのね」
「そうじゃな」
「なんだか不思議……」
「運命とはそういうものじゃ」
彼は不意に妙なる歌声を響かせ始めた。彼が歌っているのは恋歌だった。妻を熱烈に愛する男の生涯。何度も運命に翻弄され、離れ離れになっても二人は出会うと彼は歌う。
「フェニーチェは恋したことがあるの?」
彼は軽く肩をすくめた。
「わしは恋を知らぬ」
「えっ、そうなの?」
なににおいても経験豊富そうな彼の返答は意外だった。
「不死鳥はわししかおらぬゆえ、そうできているのやもしれぬし、まだ出会っておらぬだけやもしれぬ。情を絡ませたものはおるが、激情に突き動かされた試しはない。じゃが、それでよいと思う。この身が炎のように燃え続けようと心は穏やかに在れる。失うことを恐れ、手に入れるためあらゆるものを振り捨てるは性に合わぬ」
「恋って激しいのね」
「そうじゃな」
フェニーチェが不意と遠くを指さした。
「今宵、宿を取る街が見えて来たのぅ」
彼が示した先には小さく街が見えた。王都のように大きな建物があるようには見えない。半日しか飛んでいないのに、ずいぶん遠くへ来たような気がした。
見知らぬ街にもうすぐ着くのだと思うと、寂しさはどこかへ行ってしまった。どんなものがある街なのだろう。
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