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数日後、魔法使いの住む町に到着した。いつものように町を見させてくれるのかと思いきや、フェニーチェは町はずれに降り立った。
「ここらに見えたんじゃが」
彼はあたりをぐるりと見まわす。
「なにを探してるの?」
「古木じゃよ。一番大きく、立派な大樹」
「どうして?」
「魔法使いは必ずその町一番の古木のそばに住むのじゃ。オルディアを探すもののための目印のようなものじゃな」
目星がついたのかフェニーチェが歩き出した。アステルも後を追う。
「なんでこぼくなんだ?」
ルベールがポシェットから顔を出した。
フェニーチェはすっかり音の狂ったハープを爪弾く。
「大地に芽吹き、火たる太陽と水の力によって育ち、梢に風が歌い、葉にエーテルを宿す。そのようなことを言っておったが、あれの話は難しゅうてならぬ」
虹の魔法使いほど永く生きたものは多くない。彼と同様の存在は二千年近く前に消えてしまったのだという。彼のことを理解するのは難しい。
大地、火、水、風、エーテルは彼の力の根源である精霊たちのことであり、彼自身を指す言葉でもある。
「魔法使いは人間のことを知っているようで知らぬ。近くて遠く、遠くて近いのじゃ」
「近くて遠く、遠くて近い」
フェニーチェが立ち止まった。三人の目の前には立派な古木が大きく枝を張っていた。芽吹いたばかりの新緑が太陽にキラキラと輝いている。
不意と梢が揺れ、黒髪の少年が舞い降りた。ぞっとするほど整った顔の少年はわずかに透き通っている。人間のように見えたが人間ではなさそうだ。
「ここが虹の魔法使いオルディア・アルクス・カエレスティスの住み家と知って来たものか」
「そうじゃ。リト、久しいの」
フェニーチェは少年のように人懐っこい顔で笑った。少年は怪訝な顔をしたがふとほほ笑む。彼もフェニーチェを育てた精霊の一人のようだ。
「そんな姿をしているから見違えたぞ、雛鳥・フェニーチェ」
「大人になって二千年近く経つのじゃ。いつまでもヒナと呼ばんでくれ」
リトはくつくつと笑う。少年のように見えるだけでフェニーチェよりずっと年上らしい。永く生きるものの年齢は見た目ではわからない。リトはエーテルの精霊だ。
「私からすればまだまだヒナだ。今日はもっと幼いヒナを連れてきたようだが?」
「ドラゴンと人間の子じゃ」
リトの鋭い視線がアステルを捕らえる。
「メリダの血族だな。かなり強い魔法だ。誰を犠牲にした」
「責めるように言わんでくれ。この子の父母が犠牲を払うた。純粋な愛の賜物じゃよ」
リトは目を伏せ、長い黒髪をかき上げる。
「純粋な愛ほど複雑怪奇なものはない。ドラゴンと人間の娘よ、なぜここに来た」
真っ直ぐに見つめられてアステルは思わず目を伏せる。涼やかなその目に心の奥底まで見透かされそうな気がした。
「フェニーチェに誘われたから来ただけです。ご迷惑でしたか?」
リトは気まずそうに唇をなぞる。
「言葉が悪かった。すまない。ここに来るものの大半は望みがある。若き身で努力もせずに縋りに来たのであれば諭そうと思った。それだけだ。そうでないなら歓迎する」
「自分の望みは自分で叶えるわ。魔法使い様とはお話してみたいって思っただけです」
リトはふと笑った。そのほほ笑みは雪解けのようにも思えた。
「殊勝な娘よ、疑って悪かった。して、小さなドラゴンはなにゆえ同道している?」
リトは少しかがんでポシェットから顔を出していたルベールと目の高さを合わせる。
「おれは魔法使い様のお庭に入れてほしくてついて来たんだ。けど、姫さんたちと出会って、もう少しこっちにいようって思ったから望みはねぇ」
リトは驚いた顔をしたが、ほほ笑んでルベールの頭を撫でる。
「お前のような客が多ければディアの気鬱も少しは晴れる。お前たちを歓迎しよう」
リトが手を上げると、突如としてそこに小さな家が現れた。
「ようこそ、虹の魔法使いの家へ」
花の香をまとった春風と共に風の精霊が通り過ぎた。先ほどまでなかったハーブ園では小さな精霊が遊んでいる。水の精霊だろうか。思いもよらない光景にアステルとルベールは言葉も出なかった。
「今の時間帯ならフレイアが中にいる」
リトに促されてアステルは一歩を踏み出す。丁寧に手入れされたハーブ園は花盛りで、見たこともない花も咲いている。色とりどりの花々のえもいわれぬ芳香が胸を満たした。
「きれーだな」
「ええ」
「オルディアは薬もよう作るゆえ、ハーブの手入れを欠かさぬのじゃ。今年もきれいに咲いておる」
フェニーチェは懐かしそうに笑う。三人に気付いた幼い精霊はどこかに駆けて行ってしまった。
ハーブ園を抜け、素朴な木の扉を叩くと、燃え盛る炎のような髪の精霊が姿を見せた。
「久しいな、フレイア」
「おや、久しぶりですね、フェニーチェ。その子たちは新しいお友達ですか?」
火の精霊フレイアは三人を中に通しながらそう言った。彼にとってもフェニーチェは子供らしい。
「そうであり、そうではない。今のわしはこの姫の教育係じゃ」
「つまり弟子。なら、私にとっては弟子の弟子ですね」
そう言ってフレイアは楽しそうに笑った。
「火の制御はフレイアに教えてもろうたゆえ、わしの師じゃ。姫も火の制御が苦手でな。教えてやって欲しい」
「もちろん。弟子の弟子は弟子ですから。ところでこの子は? この子も弟子ですか?」
フレイアに差し出された手にルベールは恐る恐る前足を乗せる。乗るべきか否か迷っているらしい。だが、小さな青い火が灯るとすぐに食いついた。
「こんなに小さいドラゴンがいるんですねぇ」
フレイアにじろじろ見られてルベールはうっかりと罠にはまったことに気付いたらしい。逃げたそうにあたりをキョロキョロする。
「大丈夫ですよ。いい子いい子」
やさしく撫でられて、ルベールは警戒を解いた。相変わらず警戒心があるのかないのかわからない。
「わしにもようわからぬのじゃ。旅の最中に出会い、連れて行けと頼まれたゆえ連れてきたのじゃが」
「不思議な子ですねぇ」
猫のように喉元を撫でられてルベールは気持ちよさそうにしている。火の精霊である彼の指は心地よいものらしい。
「オルディアは息災か?」
「元気といえば元気ですよ。相変わらず塞ぎがちですが」
フレイアはふうとため息を吐く。その時、誰かが階段を降りてきた。軽い足音に杖を突く音が混じる。階段を見上げると白いローブをまとった男とも女ともつかないひとがいた。長い金の髪は不思議にきらめき、大きなピンクの色眼鏡をかけている。杖には七色の宝石でできた飾りが揺れている。その七色の宝石には見覚えがある。あれはどこで見たものだろう。
「ディア、お目覚めですか?」
ディアと呼ばれたそのひとは滑るようにアステルの前に来た。背はアステルより少し小さい。
「待っていましたよ、アステル・リーブル」
アステルは驚きに目を見開く。ここに来てからアステルは一度も名乗っていない。なのに彼は名を呼んだ。それに待っていたとはどういうことだろう。
突然ぐらりと傾いた彼をフレイアが慌てて椅子に座らせる。
「ちゃんと覚醒してから降りてきてくださいっていつも言ってるじゃないですか!」
フレイアに叱られて彼は申し訳なさそうに笑う。彼は寝ぼけていたらしい。手に持っていたはずの杖はいつの間にか消えていた。
「ごめんなさい、フレイア。あんまり待ちわびていたので我慢できませんでした」
「あ!」
ルベールが突然舞い上がって、彼の膝に着地する。
「あんたおれの夢に来た!」
彼はくすくすと笑って、ルベールの頭を撫でる。
「はい、あなたの夢に何度も行きましたよ。私が虹の魔法使いオルディア・アルクス・カエレスティスです」
ルベールは口をぽかんと開けた。何度も夢の中で会っていた相手が魔法使いだとは想像もしていなかったのだろう。
アステルは魔法使いが夢を渡ることは知っていた。彼女は夢で逢った記憶はない。だが、もっともっと古い記憶にあるような気がする。
「フェニーチェ、ふわふわの小鳥さん、今日はお膝に来てくれないんですか?」
フェニーチェは少し気まずそうにしたが、本来の姿に戻り、彼の膝に着地する。オルディアはうれしそうに彼を撫でて小さく笑う。
「やっぱりあなたのふわふわが一番ですね」
フェニーチェはくるると鳴いてオルディアに頬を寄せる。彼が育ての親だというのがよくわかる。
魔法使いと精霊たちは特別ゆっくりした時の中にいるのかもしれない。なにしろ齢三千歳を超える不死鳥さえ子ども扱いしているのだから。
「そなたが撫でたがるから手入れは怠っておらぬ。息災のようじゃな、オルディア」
彼はくすくす笑ってもう一度フェニーチェを撫でる。
「忘れてしまったことは多いですけど、元気ですよ。フェニーチェも元気そうでうれしいです」
彼はゆっくりと視線を動かし、ルベールを手に乗せる。
「ルベール、あなたは今も私の庭に行きたいですか?」
ルベールは大きな金の目で魔法使いを見上げた。いつかの夜、一緒にいたいと言われた。けれど、魔法使いに会った今、気が変わっているかもしれない。
「今は行かねぇ」
その言葉にオルディアはとろけるようなほほ笑みを浮かべた。ルベールの返答はある意味では彼を拒絶した。けれど、それが彼にとっては幸いらしい。
「理由を聞かせてもらってもいいですか?」
ルベールはこくりと頷いて、口を開いた。
「前は辛いことばっかで、逃げ出したかった。死ぬのは怖いし、生きるのも怖い。それでも生きたかったから、あんたに言われた通りここに来た。でも、でもよ、姫さんとフェニーチェに出会って、おれ、この世界が好きになれそうなんだ。だから、今は行かねぇ。ごめんな、待っててくれたのに」
オルディアはルベールの頭をやさしく撫でる。指が長くて大きな手だった。ルベールは心地よさそうに目を閉じる。
「すてきな答えが聞けて私はうれしいです。二人が好きなんですね?」
「ああ。もっと二人といて、いろんなことを知って、強くなりてぇ」
「そうですか」
魔法使いはひどく嬉しそうだ。リトが言ったようにルベールの答えは彼の気鬱を晴らしたようだ。
「けれど、あなたが生きていくのは難しい。私はいつでもあなたを待っています」
オルディアはルベールの小さな左手を指でなぞる。一瞬紋章が浮かび上がり、消えた。
「これは道しるべです。あなたが私のもとに来たくなったら強く願ってください。それだけで私のもとに来られます」
「ありがとう、魔法使い様。おれ、難しいことはわかんねぇ。けど、魔法使い様に面白い話をどっさり持ってこられるようにがんばる。おれ、魔法使い様の笑顔が好きだ」
オルディアは一瞬驚いたような顔をしたが、泣きそうな顔で笑う。
「あなたはやさしい子ですね。あなたが幸せな日々をできるだけ過ごせたらと思います」
ルベールは彼にキスを落とされ、くけけと笑う。
「魔法使い様もな」
彼の長い指にキスをすると恥ずかしくなったのかフェニーチェの羽根の中に隠れてしまった。オルディアは穏やかな視線をアステルに移す。
「ドラゴンと人間の姫、私に聞きたいことがありますか?」
魔法使いの問いにアステルは目を伏せる。この地上で起きることすべてを知るという彼に聞きたいことがないわけではない。だが、彼を前にしたらわからなくなった。初対面のはずなのに彼が不思議なほど懐かしい。
「アステル、出生の秘密を聞きに来たのではないのですか?」
彼に問われてアステルは小首を傾げる。
「どういう意味ですか? 私はフロガとカーロの娘ではないんですか?」
「もしかして知らない?」
オルディアも小首を傾げた。
「魔法石の話を聞きに来たのでは?」
「魔法石? フェニーチェ、知ってる?」
同様に小首を傾げたフェニーチェが申し訳なさそうに翼に顔を隠した。
「話しておらぬ……フロガもカーロも話しておらぬのか?」
「なんの話? 魔法石が私とどう関係してるの?」
オルディアが口を開いた。
「あなたは自身が強い魔法と愛で生まれてきたことは知っているのですよね?」
「はい。それは知っています」
「それがどういったものなのか知りたいとは思いませんか?」
アステルは迷ったが、頷く。
「自分自身のことだから知っておきたいです」
オルディアはやさしく頷いて口を開いた。
「魔法が対価なしに使えないことは知っていますか?」
「はい。大きな力であるほど対価が大きくなることも」
魔力の強さとは即ち、対価にできるものを多く持っているという意味でもある。対価は使うものによってさまざまだ。
オルディアはアステルの胸を指さす。
「あなたの胸の中には核となった魔法石があります。その魔法石をフロガの右目と交換したのは私です」
フロガの失われた右目。アステルを生み出すために差し出したことは知っていた。魔法石と交換されたとは知らなかった。自らの胸に魔法石があることも。
アステルはただドラゴンと人間の血を引いただけではない。
「命を生み出すという行為は雌雄が揃えば自然な営みと思われがちですが、そこにも大きな力が働いています。親は知らず知らずのうちに子のためにあらゆる対価を差し出している。そうでなければ命は生まれ得ず、成長することも難しいからです。対価は愛や時、食べ物。様々な形で差し出されます」
「だったら、だったらなんでおれは独りだったんだ? 魔法使い様が言う通りならおれは生まれてくることも成長することもできなかったはずだ!」
ルベールの悲痛な声にオルディアは手を差し伸べる。
「あなたがたった一人で生まれたその日から私がずっと見守っていました。独りになってしまったものには私ができる限りの愛を」
彼は手に飛び乗った小さな小さなドラゴンを両手でそっと包み込む。
「この手から零れ落ちて命を落とすものの方が多いのは否定できませんが……」
彼の声が震える。すべての命が愛されてほしいのに、そうではないと彼は知っている。
「だから、魔法使い様が懐かしいんだな」
ルベールは魔法使いの長い指をぎゅっと抱きしめる。
「飢えて死にそうになると灯った魔法の火は魔法使い様がくれてたのか?」
「そうです。あなたが彼らと出会って安心しました」
「魔法使い様が生かしてくれたから出会えた」
彼の頬を涙がつうと下る。
「私のしたことは間違いではありませんでしたか?」
その声は幼い子供が怯えているかのようだった。ルベールはにかっと笑う。
「ああ、大正解だ。ありがとな、魔法使い様」
彼の目からとめどなく涙が溢れる。
彼の手の上には世界中の生きとし生けるものが乗っている。その長い指の隙間から零れ落ちるものは少なくない。零れ落ちるものすべてを救おうとあがく彼にとってルベールは救いなのだろう。
彼は気持ちを落ち着けるように息を吐き、顔を上げた。
「話がそれてしまいましたね。アステル、あなたが生まれたのは自然な営みの延長線上ではあるものの、特殊であることは否定できません。だから、魔法石が必要になりました。けれど、魔法石は単なる核でしかありません。核が重要なのは事実ですが、それが赤子として生まれるには十分ではない。両親の深い愛と決意が必要不可欠です。あなたが生まれ、無事に成長し、魂を輝かせることができるのは両親の深い愛があってこそなのです」
胸の奥がほっこりとあたたかくなった気がして、アステルは自分自身を抱きしめる。両親の愛がこの身を作り、生かしてくれている。そのことが無性にうれしい。
「魔法使い様、ありがとうございます。私、あなたに会えてよかったです。自身のことでずっと悩んでいましたが、今は自分が好きになれそうです。両親だけでなく、あなたやフェニーチェ、ルベールがいてくれたから今の私がある。私が私として生まれたことを誇りに思います」
魔法使いはふわとほほ笑んで頷く。
「フェニーチェ、あなたもずっとそばにいたのですよね?」
フェニーチェは頷いた。
「あなたもこの子を愛したのでしょう?」
「生まれたその日より愛しまずにはおれなかった。これほど愛らしく愛しい赤子がいるだろうかと」
フェニーチェの眼差しはとろけるようにまろい。
「人間に似た姿を維持するのは大変だったのでは?」
「姫のためであるならば、苦労とも思わなんだ。オルディア、この世界は美しく、愛しいものであふれておるよ」
魔法使いの目が複雑そうに揺れる。
「私は上手に導けているのでしょうか?」
フェニーチェは華やかな冠羽の生えた頭を彼の頬にすりと寄せる。彼は誰よりも慈悲深く、慈愛に満ち、悲しいものばかりを見て苦しんでいるとフェニーチェは言っていた。
「そなたの導いた世界は十分すぎるほどに幸せじゃよ」
オルディアは震える手でフェニーチェを抱きしめる。
「ありがとう、私の小鳥さん。アステルとルベールに会えてよかったです」
「二人とも良い子じゃよ」
「はい、とても」
永く生きているはずの魔法使いが不思議なほど幼く見えた。
三人はしばらく魔法使いの家に滞在することが許された。その夜、アステルはカーロに手紙を書いた。
無事予定通りに魔法使いの家に着いたこと。旅の間に見たこと、聞いたこと。便せん一枚では書ききれないほど書きたいことがたくさんあった。
「なにしてるんだ?」
「お手紙を書いてるの。お父様が一週間に一度は書きなさいって。今日でちょうど一週間なの」
「ふうん」
ルベールは首を左に傾げたり、右に傾げたりした。
「もしかして文字が読めない?」
「文字は読めねぇけど数字は読めるぞ」
考えてみれば彼が文字を読めないのは当然のことのように思える。
「今度フェニーチェに教えてもらいましょうね」
「そうだな」
ルベールは大あくびをする。今日は水の精霊に追い掛け回されたり、フレイアにいいように弄り回されたりしていたから疲れてしまったのだろう。
「先に寝てていいのよ」
「そうする」
ルベールはポシェットに敷き詰められたフェニーチェの羽根に潜り込んだ。
アステルも手紙を書き上げて封をし、ベッドに潜り込む。手紙は明日フェニーチェに持って行ってもらえばいい。
魔法使いの家はあちこち壁が途切れていて、隙間風どころか風が入るはずなのに不思議とあたたかかった。
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