猫の大冒険

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 呑気に暮らしていると、ひょんなことから痛い目を見る羽目になる。  この猫の居候している家の爺ちゃんなんかは、よく猫を膝の上に乗せて、その頭から背にかけてをゆっくりと撫でながら、対面の人に説教をしてやる。ずっとおんなじように撫でられていると、段々気味が悪くなってくる。だから、時々顔を上げて対面の人の顔を認めるが、大抵苦笑いしている。ところが爺ちゃんは猫の喉の辺りを優しく掻きむしって、いよいよ得意げに話をする。曰く「何にも考えずに、ぼんやりと生きていられるうちは良いですよ。ところがぼんやりが嫌で、無理にでも風を起こそうとすると、それが知らぬ内に嵐となって、いつか人の手には負えなくなるもんです」  猫は生まれてこの方、始終ぼんやりとして生きてきた。が、確かに時には刺激を求めて、『風』とやらを起こしてみたい気もする。けれども、爺ちゃんの話は所詮人のことに限るから……と、気にも留めていなかった。  猫は散歩に出かけた。何か面白いことがないかと探索するためだ。猫だって、偶に珍事に遭遇しなくては、いつしかくすぶってしまうものである。何か……何でも些細なことで良いから、新しい発見が無いものかと思って出かけたのが始まりであった。  溝に沿って歩くことにした。人間には二本しか脚が無いから、至極単純な動きで歩みを遣るが、そのせいで猫よりもずっと遅い。四つ脚の方が効率的に決まっている。二本で歩くより四本の方が速い、簡単な話だ。すれ違う鈍間な人間を見やっては、ふんと鼻を鳴らしてやった。  前方より、『四角い箱』がもの凄い勢いで向かってきた。あれには人が乗っているから、どうやら人のこしらえたものらしい。あれなんかは四本脚であるからして、人間なんかよりずっと速いし、下手をすると猫でも追いつかない。おかん曰く、あの箱には「危ないから絶対に近づいちゃいけません」と言う。確かに、あんなのと正面からぶつかり合おうものなら、ひとたまりも無いのだろう。  今のは、猫の脇をすれすれで抜けていった。猫は何だか怖くなって、溝の中へと入り込んでしまった。これで安全じゃあないか。  溝を伝ってせっせと足を運んでいくと、目の前に大きな段差があらわれたので、地上へと舞い戻った。そして、何だか訳も分からず「にゃあ」と一つ鳴いてみた。無意識にぺろぺろと口周りを舐めて、また俯き加減で歩き出した。  ——ふと、顔を上げてみると、どうだろう。猫は思わず立ち止まった。一体ここはどこだろう? 変わらず道はあっちこっちへ続いているし、住宅も所狭しと並んでいる。が、どうもここらは、嗅いだことのないにおいがする。鼻をひくつかせながら、三つ四つと歩を進めてみるが、やはりいつもとは異なっている。  どうやら、道に迷ったらしい。猫ははじめ、呑気に構えていた。が、段々事の重大さに気がついて、冷や汗をかき出した。遣る足も、心なしか忙しくなる。  川を横断する橋までやってきた。振り返ってみると、坂道である。猫は、これをずっと下ってきたのだ。——良く良く考えてみると、何も困ることは無い。あの家に帰れずとも、別の家に居候すれば良いだけの話だ。何だ、大したことないじゃあないか……と平気に思おうとしても、やはり心はざわざわとして落ち着かない。  橋を渡り切って、不安から路地に入り込んで、身をすくめて首だけ振り向くと、人間の子どもと目が合った。子どもは悪戯にだむとこちらへ足を踏み込んだので、猫は咄嗟に駆け出した。無闇に走ったものだから、一層見知らぬ場所へ出た。川沿いを辿ってきたらしく、今度はさっきと別の橋に出くわす。水色の塗装が剥げかけているその橋を、車が一台通過した。猫は用心深く、その端っこを渡った。元来たように坂を上っていけば、いつものあの家に帰り着くことができるかもしれない、と考えた。が、どうしても家を見つけ出す自信は無かった。もう家に帰れるかもしれない、などといったことは考えたくもなかった。
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