猫の大冒険

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 とぼとぼ歩いていると、茶色い毛の野良猫に出くわした。真っ茶よりも若干黄味がかっている。灰色をしたこの猫は、茶猫の動向を目一杯警戒した。が、彼は野良には珍しくちっとも灰猫を敵視せず、のそのそと近寄ってきた。 「やあ」と挨拶をしてくる。挨拶に挨拶で返す程度の最低限の礼儀は、そんじょそこらの低俗な野良とは違って心得ているつもりだから「やあ」と返事してやった。 「君は随分と小綺麗な身体をしているな。どこの家の猫だい?」  それが分からない、と答えるのは癪だから「この坂の先さ」と漠然と考えていることを言ってやった。 「ふうん、いいね。人間に養われるってのは。僕はね。その人間ってやつに見捨てられたのさ。随分と手懐けられたもんだ。あいつがいると、何にも悪さなんてできやしなかった。けれども、その代わりに随分可愛がられたね。途端に見捨てるなんてことは、無いと、思ってたんだけどね。現状この有様さ。食いもんは、僕だけが知ってる秘密の場所で、どこぞの白髪の婆さんが夜な夜な与えてくれるんだけどね。いつかその婆さんも来ないようになったらと思うと、不安で不安で……夜しか眠れないよ」 「来なくなった時のことを考えるなんて、珍しいね」 「長いこと人間と暮らしていると、少なからず人間の思考というものが伝染するらしい……僕だって初めは、そんな風に考えなかったさ。だけど、今になって良く良く思うと……」  猫は、この野良の話を聞いていて、何だか体の芯からヒヤリとするような、恐ろしいような、不安であるような気がして、身震いした。その痙攣を必死で堪えていると「まあ、君には何の関係も無い話さ。帰る家があるんだから。——良ければ君の家を、僕にも紹介して欲しいのだけど……」 「ダメだよ!」 「けち!」  茶猫は前脚を振り上げ、灰猫の顎を軽く蹴ると、とぼとぼと去っていった。  猫は、今すぐにも駆け出したかった。その気持ちを抑えつけるので、精一杯であった。また無闇に走ってしまえば、一層迷い込むのに決まっている。帰らなければ! と思う度に、両の前脚で思いきり地面を蹴り飛ばしたくなる。が、やはりここは落ち着かなくてはならない。  暫く歩いて、身に徒労を覚え始める頃になると、どうして自分は初め、ああ軽率に冒険心を起こしたのだろうと後悔ばかりに苛まれた。今はただ、早く家に帰り着きたい……帰って、婆ちゃんのよこす飯にがっつきたい。恋しいのは——あのぬくぬくとした感じ、落ち着き、皆の醸し出す平和……あれらが丸ごとである。爺ちゃんに婆ちゃんに、チビが二人とおかんにおとん、誰でも良いから颯と現れて、自分を抱き上げてくれぬものかと切に願った。そう思うと、先刻の茶猫の「見捨てられた」というのがいかに悲壮か、よく理解できる。ところが、この猫は自ら飛び出し、それらを手放したのだから間抜けだ。間抜けな自分の前足を見下ろして、にゃあとため息をついた。  落胆して、ほとんど放心状態で歩いていると、空気を切り裂くような爆音が側に轟いて、驚いた猫は一遍に駆け出した。それは、あの『四角い箱』の発した、この世のものとも思えぬ『鳴き声』であった。猫は、あれに轢かれて、押し潰されるところだったのだ。  道路を瞬く間に横断し、それでもまだ興奮が冷めやらずに駆けた。はっと気がついた時には、狭い路地の草むらに隠れていた。右も左も壁が迫って、猫はそろそろと前へ進んでいく他に無かった。  ようやく壁の連続が終わり、草の丈も段々低くなって視界の開けそうなところに、先程の茶猫とは別の、黒猫が横切る。黒猫はこの灰猫に気がつくと、にやりと不敵な笑みを浮かべてこちらへ近づいてくる。灰猫は警戒して、後ろ脚に体重をかけた。 「そんなに身構えなくとも良い」と黒猫は言う。 「俺たちは仲間だろうに」  仲間かどうかは判断つけかねるが、猫は少し態度を和らげることにする。 「お前は……野良猫にしては随分と小綺麗だな。野良の、風上にも置けない奴だ」 「綺麗で、何が悪い」 「悪いさ。野良猫というのは、誇り高く、泥臭く生きるものだよ。その様子じゃあ、まだ『人』に頼って生きているんだろう。恥ずかしくないのか? いつまでも、たかが猫と見下されて生きるのは、悔しくないのか?」 「……考えてもみなかった」 「だから、猫の地位はいつまで経ったって向上しないのだ。猫は人間なんかよりずっと強く、たくましい。分かり切ったことだ」  そう言うと黒猫は、足元の地面を蹴って、そこへ舌を伸ばした。 「何を食った?」 「蟻だ」 「蟻を……」 「何を驚いてる。蟻でなくとも、何でも食うさ。虫なら……」 「虫を食うのか」 「毎日鼠が狩れるわけでもない。ただ他の低俗な奴輩がするような、ゴミ漁りだけは屈辱的だからやらない。——なあ、ここいらの人間に、虫やら鼠やらが口にできるか? 奴らは自然風味を胃に入れるとすぐに腹を下すじゃないか。どうしても水で洗ったり、火で炙ったりしなくちゃ口に入れられない。もし水や火がこの世から消えたなら、奴らは生きてはいかれんのさ」 「虫がいなくなったら?」 「虫はいなくならない。知っているか? あれだけ表通りにはうじゃうじゃといる人間だが、あんなのよりずっと虫の方が、数も種類も桁違いなのだ」  猫は何だか感心してしまった。この黒猫に、畏敬の念を抱いた。憧れるようだが、実際にそんな暮らしがしたいとは思わない。猫は、やはりあの家に戻りたい、帰りたい。 「君のいかに立派かということは、良く分かった」と返事をした。 「お前を弟子にしてやってもいいが……」 「それは、遠慮しておく」 「この先、そんな具合じゃ生きていかれないぞ」 「……構わない」  虫なんて食うくらいなら、そのまま飢えて死んでやる、とこの猫は考えた。黒猫は面白くなさそうにふんと鼻を鳴らすと「貴様のようなとぼけた猫の顔には二度と出会いたくない。猫の恥だ」と吐き捨てた。  恥だと言われようが構わなかった。実際、自分は猫としてちっとも勇ましくない。ねずみを追っかけて殺して食うなんてことすら、恐ろしくて真似できそうにもない。けれども、人間の手を借りてでも、それでもああいう風に気楽に生きていくことができるんなら、それはちっとも悪くないことだと思った。  黒猫は、この猫の脇を悠然と通過していった。猫は振り返ったが、黒猫は二度と、この猫に興味を持とうとはしなかった。
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