第35話 通り雨

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第35話 通り雨

『んー、ごめん。なんかね、親戚がお母さんのことで揉めてるみたいなの』  翌日の夜、電話口の渚は消沈していた。  何故かと言うと、今日、渚たちはこっちに帰ってくる予定がダメになってしまったのだそうだ。僕もガッカリしていたが我儘を言って渚を困らせるわけにはいかない。 「残念だけど仕方がないね。すぐに会えるよ」 『うん……寂しい』 「寂しいね」 『寂しいからって他の人と浮気しちゃダメだよ?』 「ありえないよ」 『太一くん、かっこいいから』 「ぷっ、そんなこと思ってるのは渚だけだよ」  渚と付き合い始めてから――正確にはあの夏を過ごしてから――僕の中では、渚と渚以外の女の子の間には、自分の体と他人の体くらいの差が生まれていた。ちょっと体に触れたくないと言う感覚があって忌避していた。  渚への罪悪感から目を逸らしていたのか、それとも生理的に嫌悪していたのかはわからないけれど、例えば他の女の子のお尻とかは見たくなかった。だから浮気なんてありえない。  ◇◇◇◇◇  そしてさらに翌日……。 「瀬川、何か聞いてない?」  朝、教室を入ったすぐの所で呼び止めてきたのは鈴音ちゃん。  何かと言われてもこちらもわからないのだ。 「渚からおはようのメッセージが来なかったことだよね?」 「そう。メッセージを送っても配信されないみたいなのよ」 「うん、こっちもそう」 「えっ、何? 瀬川、お前毎朝彼女からモーニングコール貰ってんの?」 「いや山崎、今はそれどころじゃないから……」 「電話も通じないし」 「うん。うちの母親に渚のお母さんの番号教えて貰ったけど、そっちも繋がらない」  僕たちは途方に暮れていた。渚への連絡手段が全て断たれてしまっていたからだ。 「後で家の方にも寄ってみるけど、たぶん母親の実家」 「困ったわね……」  そうしているうちに担任の先生がやってくる。  ただ、朝のSHRにしては珍しいことに副担任も一緒だった。  何故か二人の顔は険しく、一抹の不安を覚える。  挨拶を終えると担任は真剣な顔で話し始める。 「ちょっと皆に聞いて欲しい。うちのクラスの鈴代の話なんだが、昨日、鈴代の代理人の弁護士から学校に連絡があった。鈴代がクラスでいじめを受けていると――」 「嘘でしょ!?」 「そんなわけない!」 「何だそれ!」 「絶対ありえない!」  それは僕にも、クラスの誰にとっても寝耳に水の話だった。  途端に教室が蜂の巣を突いたような騒ぎに陥る。 「まあまあ落ち着け。僕もそんなまさかと思ったんだ。うちのクラスにいじめなんて無いと言いたいし、皆の様子も知ってるつもりだ。けどな、訴えがあった以上は調べないといけないんだ、わかるか?」  担任が(なだ)め、それから委員長や新崎さんが呼びかけてようやく静まる。 「とりあえず、一時間目はHRに充てるからまずは調査用紙に記入して伏せたまま提出してくれ」 「先生! 鈴代本人から何か言ってきてないんですか? 連絡が取れなくて」  僕は何より聞きたかったことを担任に問う。 「いや……それがな、代理人の話では転校させると言ってきているんだ」  教室が再び大騒ぎになる。  ただ僕には、その喧噪がまるで耳に入ってこなかった。  耳に何かが詰まったような感覚と共に視界が狭まり、血の気が引いていくのが感じられた。  ◇◇◇◇◇ 「瀬川、大丈夫か!?」  相馬の声とともに肩を揺すられる。 「ぇ…………」  僕が現実に引き戻されたのはHRが終わった後だった。  時間を見るとかなり早い時間に終わったようだ。  机の上に配られたはずの調査用紙は既に無かった。  聞くと、隣の席の三村が白紙のまま提出してしまったそうだ。 「あんなもん書くとこないからな」  三村の言葉に周りの面々も頷く。  周りにクラスメイトが大勢集まっていた。 「鈴音の話だと今朝から連絡が取れてないって」 「あ、うん……」 「渚のお母さんの方も繋がらないみたいなのよ」  どうしようもなかった。しかも弁護士を通して来ている以上、学校側も連絡が取れないはずだ。実家に居るのは間違いないだろうけれど、その実家の連絡先も――。 「あるぇ? 1時間目自習なった?」  明るい声と共に教室に入ってきたのは笹島だった。  ただ、誰もまともに返事を返さなかった。 「えっ、だだ下がりバイブスやばっ」 「笹島、お前、飛倉の屋敷から帰ってきたのか?」 「えっ、あたしは屋敷じゃなくて翔子さんちに泊ったんだけど」  誰だよ翔子さん。 「いや、鈴代と会ったでしょ?」 「てゆーか、何で飛倉って知ってんの?」 「えぇとだな、要するに鈴代の母方の実家が飛倉なんだよ」   「へぇ、そーなんだ。でも、鈴代ちゃんは見てないよ? てか、でっかい屋敷でちょー緊張してパパも真面目にしてろって言うからバッキバキだった」 「えっとさあ七虹香、鈴代がイジメられて転校するって言ってきたんだって、学校に。それでその実家から戻ってきてないんだって」  三村が笹島にさっきまでの話を説明した。 「ええっ!? 鈴代ちゃんイジメられてたの!? 誰に!?」 「たぶんそれ誤解か何かだと思う。言ってきたの弁護士だし」 「でも転校とか大ごとじゃん!」 「それがわからなくて困ってるんだよ」 「なあ、笹島。鈴代の実家って住所分かる?」 「住所はわかんないなあ。行き方はわかるけど」 「えっ、じゃあ地図で見てみてよ」  笹島にスマホでマップを開かせて地図を見て貰っていたが――。 「ぜんぜんわからん! 特にバス」 「マジかぁ……」  笹島の言葉を聞いた僕は椅子に体を投げ、脱力してしまった。手の打ちようがない。  笹島とのやり取りを見守っていた面々からも溜め息が漏れる。  視界の端では1-Cから姫野がやってきていて三村から話を聞いていた。 「瀬川は――」  考え事でもしていたのか、しばらく俯いていた笹島が探るような上目遣いで僕を見る。 「――瀬川は鈴代ちゃんの所に行きたいの?」 「ああ、今すぐにでも行きたい」 「んー。――あたしを一緒に連れてってくれるなら行き方教えてあげる」 「マジで!? いやでも新幹線高いし」 「自分の交通費くらい出すし。あと七虹香(なじか)って呼んで!」 「えっ、やだ」 「即答! なんでよ!」 「渚以外を名前で呼びたくない」 「鈴音ちゃんは呼んでるじゃない!」 「それは渚につられてつい……」 「あたしも呼んでよ。てか、みんなも名前で呼んでよ! 七色の虹の香りで七虹香。素敵でしょ? あたし、気に入ってるのにみんな呼んでくれないんだもん」  いや、虹の香りってなんだよ。せめて虹の華にしとけよ。 「な、七虹香っていい名前よね……」 「そうだね、七虹香」 「七虹香って呼ぶね」  満足げな笹島。だが――。 「瀬川はどうすんの?」 「ぇえ……」 「この際、七虹香って呼んであげるくらいいいんじゃないかな、瀬川」 「そうよ、後で鈴代さんにも説明してあげるわ」 「じゃあ……宜しくお願いします、ナジカさん」  絶対面倒くさいことになりそうな気がした。  ◇◇◇◇◇  その後、新埼さんと委員長にも協力してもらい、担任に早退を告げに行った。  渚のいじめという降って湧いた問題の解決にも繋がるからと説得し、笹島と駅に向かう。  途中、母に電話を入れて渚の母親の実家を訪ねることを話し、プリペイドカードにチャージを頼んだ。母も心配していたようだけれど、突然の僕の行動にはさすがに驚いていた。ただ、若いうちの行動力は自分のためになるからと応援してくれた。
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