画家

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 学生の頃より、人一倍絵を描くことが好きだった。画家を志望するくらいには彼の本気度が伺える。周りも、美術に対することへの理解が足りず、ただ、凄いとしか口を開かなかった。  だからだろう。彼は否定されず、苦労を知らずに天狗になり、気が付けば十八になっていた。進路希望は勿論美術大学。皆口々にお前ならできる、頑張れと根拠のない声援を送った。その声援に応えるように、彼は一歩前へと進む。  結果は火を見るよりも明らか。己が絵しか知らぬ彼と、知識ある若者達とでは雲泥の差。滑り止めには引っかかったものの、絵描きとして生きていくと豪語していた手前、プライドも相まって、知識を身に着けようと両親の理解を得るために、定職とはいかないが仕事をし、家計の足しとすることを条件に一年の猶予をもらった。  好きだけではどうにもならないことが身に染みた彼は知識を身に着けようと彼は勉強を始める。油絵、水彩画、日本画、版画、デジタルイラスト、コラージュ。仕事で得た金から家計分を引き、残ったわずかな金でそれぞれの入門書を買い、己の絵を捨て、根幹から変えようと努力した。画廊へと向かい、名画と呼ばれるものを鑑賞し、アトリエ(自らの部屋をそう呼んでいるだけ)に戻り、インプットした名画を別の技法を使いアウトプット。半年そんな生活を続け、素人が見ても、昔の絵とは比べ物にならない程に、彼は成長していた。  そんなある日のことである。いつものように画廊の長椅子に座り目を閉じ、名画と呼ばれた作品の荒波に揉まれ、泥々とした粘性の塊に足を取られ、溺れ、藻掻き、必死に作品の緒を探していた時、訝しげにこちらを見る少女に気がついた。両親と来ているのであろう少女は片手に白い兎のぬいぐるみを持ち、もう片方の手は絵画に夢中の両親と繋いでいる。青いエプロンドレスに白いハイソックス、黒のローファーと、まるで不思議の国のアリスのような風貌をしている。  アリスは両親の趣味で連れてこられたのか、それともアリスの為の教育なのか……アリスの顔はとてもつまらなそうにし、彼に助けを求めている。  瞬間、雷に撃たれたような衝撃が彼に走る。旋毛から足の指先まで一直線に電流が流れるような感覚。画廊では得られない、求めていたインスピレーションに急ぎアトリエへと戻った。見たもの、聞こえた音、匂い、味それら全てをキャンバスへと筆を叩きつける。    描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない描けない。    何十、何百と飲まず食わずで描き続け、それでも思うように描けず、彼はキャンバスを投げ、筆を折り、アトリエで暴れた。怒りが彼を奮い立たせまた描く。奮い立たせるだけで描けない。己の才のなさに打ちひしがれ、心から筆が離れそうになる。離れそうになる部分から目を逸らし、才がないことからも目を逸らし、これまでの努力が無に帰すことに恐怖を覚えながら次の絵を描く。そしてまた…………    穢れを知らぬ少女の柔肌に恋をす。届かぬ想いと理解しつつ、その少女有るべき場所へと向かい、盗み見、戻り、絵に記す。記せず、また向かい盗み見、戻り、絵に記す。何度繰り返したことだろう。己の絵は稚拙だということを認められず、自惚れ、また盗み見、戻り、絵に記す。何度も何度も続け、認めざるを得なくなり、手から離れていく感覚が怖く、手放せず。  そのうち、彼の右の手はその過酷な仕打ちに悲鳴を上げた。そして右の手から筆が離れた。  底なし沼にはまり込んだようだ。藻掻けば藻掻くほどずぶずぶと沈み込んでいく。残された道は諦める以外に見つからなかった。  絶望した。  画家になることを志し進んできたが、インスピレーションも活かせない。筆も持てない。何も残っていない。そう、認めざるを得なかった。何もかも手つかずになり、飯も喉を通らなくなった。  なんとなく俺は凡人の中の一人に過ぎないと自覚し始めたとき左の手で描いてみようと思った。きっかけは覚えていない。多分腕は二本あるからとかしょうもないものだったと思う。痛みを伴わずに描く絵は久しぶりだった。  楽しかった。  勉強した右の手は、ピカソ、ゴッホ、ダビンチやその他大勢の名画を世に生み出した画家の真似事はできる。しかし、頭で分かっていても身に付いてない左の手は、己の絵しか描けない。  彼は自らが描いたその少女らしき唯一の作品を額縁に収め、二度と筆を採ることはなかった。
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