11.141話 事件簿1話 「トーマス先生の事」

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11.141話 事件簿1話 「トーマス先生の事」

私、安藤玲がヨーロッパツァーを終えた2020年6月、すぐ日本に帰国したかった。しかし、世界的にコロナ禍の中、日本に帰る事が用意ではなかった。結局、色々手配したり、2週間健康状態チェックをされたりで、ようやく日本で自由の身になった。私は東京に留まらずそのまま福島市に向かった。森川先生に会いたかったからだ。  7月10日、金曜日。私はそのまま森川先生のいる「ふくしま探偵局」に向った。「ふくしま探偵局」に行く事は、事前に森川先生に伝えておいた。 「明日の金曜日なら事務所にいると思う。急用が入ったとしてもすぐに帰るから、事務所で待っててくれ」 彼らしい言葉だ。  生まれつき音楽の才能がある者もいる。そんな人は、楽譜を見ただけで、音楽的に演奏する。しかし、そこからが、大変だ。その更に上を目指さなければ、いけない。今まではそれで良かったが、プロを目指す者にとって、天性の才能ほど、邪魔な事はない。何と言っても、それまで、その天性の才能で、誤魔化しが効いて、努力する事をしなかったので、その上に登るための努力の仕方が分からないからだ。  しかし、天性の才能に恵まれず、自分の努力で昇り詰めてきた、ごくわずかな者は、その上への昇り方を知っている。それは、自分に何が足りないかを知っているからである。そして、それを今まで克服しようと努力し、着実に昇り詰めてきているからである。  このような2種類の人間が、音楽大学には存在する。ほとんどが前者の方であるが、最後は、5分5分の争いとなる。そして、ほとんどの人間が、自分がその辺の一般庶民と変わらなかった事を、現実に感じていくのである。それが、音楽大学の卒業式である。  なので、逆を言えば、音楽大学で卒業演奏会に出場したり、在学中に他の音楽大学に留学したりする者が、この厳しい音楽という世界の中で生きていけるのかもしれない。  私は、今、大学在学中からプロの演奏家と共に、バイオリンを演奏することが出来た。偶然かもしれない。しかし、その手助けをしてくれたのが森川先生である事は言うまでもない。  私は、久しぶりに森川先生の顔が見たくなったのである。でも、先生は私の顔が見たくないかもしれない。私の顔に妹の面影が残っているから・・・。でも、私は、森川先生が妹の死を乗り越えたと思っている。  「ふくしま探偵局」に来たのは、今回で2度目。昨年の4月、森川先生に呼ばれた時が最初。今回は私の方から。もちろん、バイオリンは持参しない。  大木財団のビルの前に「ふくしま探偵局」がある。階段を上るとそこに待合室があった。受付にいつか会った事のある菅野梢さんが待っていた。 「お話は伺っております。でも、森川先生、福島警察署の霧島城司警部に呼ばれて、先程、出て行きました。用事が終われば帰ると思いますので、3階で待っていて下さい。301号室です」 やはり森川先生は人気者だ。霧島警部が森川先生を随分、当てにしていることは昔から分かっていた。梢さんは部屋の鍵を持って、受付から出てきた。私は梢さんの後について、3階に行く階段を上った。1年前と変わらない雰囲気だ。3階に着いてそのまま目の前の部屋に入っていく。 「ここでお待ち下さい」 素っ気ない部屋だった。ヨーロッパの教会の待合室でも、花とか飾っている。しかし、ここにはお茶もない。  しかし、5分も経つと、若い男性がコーヒーとお菓子をお盆に乗せて、部屋に入ってきた。 「お待たせしてすみません。森川さんはまだのようです」 たぶん彼が新人くんだ。 「それは知っている。だから、待つのを覚悟で来たの・・・」 彼はもじもじしていた。 「『ふくしま探偵局』の他の人間も出払っていて、俺しか残っていないんです」 彼はばつが悪そうだ。 「俺、井上浩っていいます。4月からここで働いています。森川さんに誘われて・・・」 森川先生が見込んだ男か。 「私は安藤玲。仕事はバイオリンの演奏です」 「バイオリン・・・?」 「バイオリニスト」 彼は目を点にした。音楽家を初めて見た感じだった。 「今日、バイオリンは持ってきてないの」 「そうですか・・・」 「バイオリンの先生が森川先生でした」 私はあまり詳しく語らなかった。 「俺、4月からここで働いていますが、森川さんの事、あまり知らなくて・・・」 「ここにいて、大丈夫なの?」 「大木展子局長から、お客様の相手をして来いと言われて・・・」 あまり話し方は勉強していないらしい。 「大変な役目ね」 「森川さんとはいつから、付き合いっていうか、知っているんですか?」 「森川先生と最初に会ったのは・・・14歳の中学3年生の時だから、かれこれ15年以上は知っているわ」 「それじゃ、森川さんが解決した事件とか知っていますか?」 「山のように・・・」 「何か聞かせて下さい。森川さんを知るキッカケにしたいんです」 「最初に私が森川先生に出会った中学3年生の時の話でも・・・」 「構いません」 井上くんは、椅子に座った。 ☆  私がバイオリンを習い始めたのは、小学校の1年生の時。隣の仙台市で外国の先生に習い始めた。しかし、その先生の死去に伴い、私のいとこ、産婦人科をしている安藤りょう子さんの紹介で、近くの大学生にバイオリンを習う事になった。その先生の練習方法が、今の私の実力を開花させてくれたと思っている。  私は、なぜか、バイオリンを習う事になっていた。理由は分からない。でも、隣の仙台市に有名な外国人のバイオリニストが住んでいて、毎月2回、父親の車でそこの先生の自宅兼レッスン会場に、日曜日ごとに通っていた。  2004年10月14日、木曜日。その私のバイオリンの先生である、リチャード・トーマス先生が、突然亡くなった。私が中学3年生の時だった。その時、私は先生の死因を知らなかった。  私は、リチャード・トーマス先生の紹介で、東京にある音大の付属高校のバイオリン科に進学する予定だったので、進学をどうするか、新しい先生をどうするか、両親といろいろ相談した。本当は、東京や仙台市の先生も捜した。しかし、父の都合で今までのよう事が出来なくなった。それで、福島市で、自分で通う事ができる人を捜していた。  私の父には弟がいる。と言っても双子の弟。その弟が福島市内で産婦人科を開業している叔父になる。その叔父の娘、安藤りょう子さんに新しい先生を紹介された。 「私の同級生で、バイオリンを教えるのがとても上手な人がいる」 安藤りょう子さんの家の近くにある、その方を訪ねた。  それが、当時、二本松大学理数学科に通学し、二本松大学管弦楽団に所属していた森川優先生だった。私の家が、森川先生の自宅に比較的近くにあり、私が自転車で30分から40分で通えるという事も、父が納得した理由だった。  また、いとこの安藤りょう子さんとその父の絶大な推薦がものを言った。 「とても、人間的にも問題がなく、演奏も素晴らしい」 「観察力も抜群で、他の人より、ポイントを抑えるのが上手だ」 決めてとなったのは、叔父、安藤直さんの言葉だった。 「名探偵らしい」 私の父は、大の推理小説好きで、探偵モノに目がない。そんな事もあり、私と父は、森川先生の自宅を訪問することになった。    10月24日、日曜日。福島市笹谷地区にある森川先生の自宅は、2階建ての今風の家だった。しかし、一部屋だけ、防音装置完備の練習用の部屋あった。森川先生の御両親は、森川先生が高校生の時、飛行機事故に巻き込まれて亡くなっていている。また、妹も森川先生が高校2年生の時、誘拐され殺害されている。報道にも大きく取り上げられ有名な事件だ。だから、今は1人で住んでいるという事だった。家の中も綺麗に片付いていた。 「綺麗好きの彼女が、片付けているのだろう」 父が話していたのを覚えている。  私は、森川先生の前で一度、バイオリンの腕前を聴いてもらう事になった。私は、その時に練習していた、ヨハン・セバスチャン・バッハの有名な「無伴奏バイオリン・パルティータ」の中の「シャコンヌ」を演奏しようと思った。今月、10月31日、日曜日にリチャード・トーマス先生の教え子による演奏会で演奏する事になっていたので、ある程度、弾く事ができると思っていた。持ってきたバイオリンを出し、譜面台に楽譜を準備し、森川先生に失礼のないように一度礼をして、曲を弾き始めた。  まずは、シャコンヌのテーマを。段々と変化していく音楽を、できる限り、上手に演奏しようと心がけた。自分では、まずまずの出来替えで、この演奏なら、あのリチャード・トーマス先生も、OKのサインを出すと思えた程の演奏だった。私は、演奏を終えると、バイオリンを置いて、森川先生に礼をした。    しかし、森川先生は、私の演奏を褒める事もけなす事もしなかった。 「私も同じ曲を弾いてみましょう」 森川先生は、自分のバイオリンを取りだした。音叉を出して、いきなり調弦すると、私が演奏した「シャコンヌ」を森川先生は暗譜で弾き始めた。  私は、生まれて初めて、心が動いた瞬間だった。それは父も同じだったと思う。同じ曲なのに、演奏する人によって、これ程までに曲が変わって聴こえるとは、思ってもみなかった。リチャード・トーマス先生のバイオリンの演奏も聴いた事があったが、それ以上の感動を味わった。父は速攻で、森川先生に、私を習わせる事に承諾した。  その後、3人でお茶を飲みながら、いろいろと驚く事になった。  まず、森川先生が話を始めた。 「安藤さんのお父さんも、職業が変わり、大変でしょう」  私達は、安藤りょう子さんの紹介で来た事しか話をしていなかったのに、森川先生は、いきなり父の転職の話をした。しかし、父の転職の事は、実を言うと私も知らなかった。 「森川先生はどうして、私が転職したと思うですか?」 「すみません。もし、間違っていたら、ごめんなさい」 「まず、お父さんの服装ですが、初めて私の、それも年下の私の所にくるにしては、日曜日なのに、背広姿は、とても上品すぎます。  しかし、背広は、大分、着込んだ感じです、袖や襟などにその痕が伺えます。だから、それは今まで会社に行く時に、着ていた服装なのでしょう。  玄関にあった革靴も同じです。日曜日にしては、上品すぎる。しかし、革靴の底の減り方に特徴があります。外側が多く減っています。これは、毎日、外回りをして歩いて仕事をしている方の革靴です。例えば銀行や保険会社の外回りのように。でも、今日この服装で来たという事は、もうこのような背広姿の仕事には就いていないという事でしょう。  でも、今まで、日曜日に着るラフな服装がなかったので、とりあえず背広で来た。  それに、今度の転職先は、日曜日も営業するようなお勤めでしょう。もし、今まで通りなら、仙台市のリチャード・トーマス先生のような立派な先生が、仙台市にはたくさんいます。紹介してもらえば、同じように仙台市に日曜日ごとに通える事も可能です。それに、東京の音大附属の高校を狙っているという事ですし・・・。  それなら、福島市にいる私のような凡人でなく、もっと権力のある人を見つけるでしょう。しかし、玲さんが自分で通えることのできる福島市の私の所に来たということは、今までのような生活スタイルに変化が起こったからでしょう。それが、お父さんが日曜日に働かなくてはいけない転職を、したからじゃないでしょうか」 「驚きました。森川先生のおっしゃる通りです。先日まで私は福島の銀行に勤めていました。しかし、会津若松市に転勤しないか、という話が持ち上がり、今、単身赴任をするのは大変だという事で、家族でいろいろと話し合った末、銀行を辞めたのです」 「すみません。プライデートな事まで話してしまって・・・」 「いいえ、構いません。あとは、何か気付きましたか?」 「観察した事を話してもよろしいのですか?」 「大丈夫です。私が気分を悪くすると思わず、話してみてください」 「では、私がそう思った理由の第二に、そのワイシャツの袖のボタンにあります。たぶん、奥さんはとてもまめな方、なのでしょう。何度か、そのワイシャツの袖のボタンを直した形跡があります。  しかし、右手の一番端だけは最近少し、糸がほつれても、直していません。それは、もう、このワイシャツが職業で使用しなくなったからではないでしょうか。  そして、もしかすると、玲さんには小学生の妹もいますね」 「それはどうして分かりますか?」 「その楽譜入れのバックです。普通、『安藤』か『玲』だけ名前を書くようなスペースに、わざと小さく『安藤玲』と書いています。  だから、同じものを持っている、それも女の子がいるのではと思いました。玲さんが使わなくなったら、次の妹に、そのバックを使用させるために、名前の脇に空欄を空けて、そこに妹の名前が書けるようにと。お父さんの年齢から察すると、玲さんより上の女の子と考えるよりは、下の女の子がいるのでしょう。それも、まだ、名前を書いてあげないとダダをする小学生かなと・・・」 「その通りです、玲の下には小学3年生の妹がいます」 父は、その話で森川先生の事をとても気に入ってしまい、私にバイオリンを習わせる事に承諾した。それは、彼の推理力だけでなく、先ほどのバイオリンの素晴らしい演奏もあったからではあるが・・・。  そして、話題は、私の前のバイオリンの先生のリチャード・トーマス先生の事になった。 「そういえば、脳溢血で亡くなったと聞いています」 父が森川先生に話した。森川先生は少し考え、壁に貼ってあった、可愛いカレンダーを見ながら、椅子に座った。 「リチャード・トーマス先生が亡くなったのは、今月の10月14日ですよね。その前に、玲さんは、トーマス先生の所にレッスンに行きましたか?」 「はい、10月3日、日曜日に。先ほどの『シャコンヌ』を弾きました」 「3日ですね。10月31日、日曜日ですが、リチャード・トーマス先生が教えている生徒さんによる仙台市での演奏会には、玲さんは出演する予定でしたか?」 「はい」 「最後のレッスンで、リチャード・トーマス先生は、何かいつもと変わった事がなかったですか?」 私は父と顔を見比べた。いつもレッスン会場には、父もいるからだ。 「何でもいいです。いつもと違うな、と感じた事があれば・・・」 「そう言えば、いつも玲がバイオリンを失敗すると、少し機嫌を悪くして怒っていましたが、その最後のレッスンだけは、玲が失敗しても、怒らず、『大丈夫だよ』と声を掛けていました」 「それは、いつもより、機嫌が良かったと、いうわけですか?」 「そういうより、あまり、レッスンに集中していなかったように、思われます。  なので、私もいつもはこんな先生じゃないのにな、と感じて、覚えていたのです」 「他には、ありませんか?」 「大した事ではないかと思うのですが、いつも自分で演奏して、曲の悪い所を直してくれるのに、その日だけは、先生のバイオリンがケースの中に入ったままで、最後のレッスンは、一度も私達の前でバイオリンを弾きませんでした」 私は思い出したままに話してみた。 「そうですか。実は、私も少し、リチャード・トーマス先生の死亡には、疑問があるので・・・」 「森川先生は、何が気になるのですか?」 「実は、私もその演奏会で、最後にリチャード・トーマス先生と2人で、教え子をバックに、ヨハン・セバスチャン・バッハの『2つのバイオリンのための協奏曲』を演奏することになっていたのです」 「森川先生も、リチャード・トーマス先生に習っていたのですか?」 「いいえ。ただ、演奏仲間だったという事です」 「それで、何が疑問だったのですか?」 「演奏会はキャンセルにする予定だと、直接、リチャード・トーマス先生から聞いたのです。10月9日くらいでした」 「でも、私には何も連絡はなかったし、最後のレッスンの時には、プログラムの印刷の確認もしました。自分の名前や曲目に、間違いがないか・・・」 「という事は、その時点では、まだリチャード・トーマス先生は演奏会を行うつもりでいた。しかし、9日までの間に、演奏会を中止にする出来事が起きた」 「やはり、病気が重くなったのでは、ないでしょうか?」 父も興味があるようだ。 「いいえ、リチャード・トーマス先生は、いきなり亡くなったと聞きました。病気の前兆もなく。私は先生の葬儀に参列したのですが、前日の10月13日も、病気でふせることなく、仕事をしていたと・・・。  しかし、その疑問だけが残って、帰ってきてしましましたが・・・」 「どう思いますか、森川先生?」 「玲さんの来週日曜日のレッスンの時まで、考えてみましょう」  森川先生はメモ用紙をだして、私に見せてくれた。 「実は、10月31日の演奏会を延期して、11月7日、日曜日に、リチャード・トーマス先生の追悼演奏会を行うのです。今、私達が計画を立てているのですが、まだ、プログラムに余裕があります。ですから、リチャード・トーマス先生の教え子という事で、玲さんも、その演奏会に出場してみませんか。  私は、仙台の仲間と弦楽四重奏を演奏しますが、玲さんは、今のバッハの『シャコンヌ』を、演奏してみませんか。  演奏会に出る予定で練習したのだから、ある程度、心構えが出来ていると思うのですが・・・。ですから、その前に一度、私のレッスンの日を入れてみましょう。少しは、素敵な、そして、リチャード・トーマス先生に捧げられる『シャコンヌ』を演奏して頂けたらと思うのですが・・・」 私と父は、森川先生の申し出を承諾した。  私は家に帰ると、その日から「シャコンヌ」の練習に集中した。どうすれば、森川先生のような演奏ができるのか。あの時の演奏を頭の中から思い出し、それを真似しようと、必死になって、練習した。    初めて、森川先生のレッスンの日が来た。私はバイオリンを背中に背負うと、自転車を森川先生の自宅の方面に走らせた。  森川先生のレッスンは変わっていた。リチャード・トーマス先生のレッスンでは、考えられなかったものが、バイオリンのレッスンの場にあった。  それは、コーヒーや紅茶、カフェオレであったり、冷たい飲み物であったり、おいしそうなチョコレートであったり。たまには、森川先生がお菓子を食べていたり・・・。私もそれらを進められた、  しかし、森川先生の耳は鋭かった。それに記憶力もすごかった。前に演奏した内容と違っていた点を、全て指摘された。良くなった点や、逆に悪くなった点。その練習方法はしない方がいいと言われた点。そして、左手のわずかな構えの入れ方で、ビブラートが変化したり、右手の弓の持ち方で、音の音質が変わっていったりする事など、その演奏部分に合わせて、雰囲気も変える事を習った。  彼には、技術面だけでなく、芸術性がそなわった練習方法をたくさん習った。1時間のレッスンが、すぐ終了したように感じた。  リチャード・トーマス先生のレッスンでは、いつも時計を見ていた。 「早く終わらないかな・・・」 しかし、森川先生のレッスンでは時間が経つのを忘れる程、集中できた。それも、食べ物と飲み物があったのに、それを口にする時間がもったいなかった。でも、森川先生はレッスンが終了した後、私に楽器を片づけさせ、食べ物と飲み物を勧め、リチャード・トーマス先生の死因について、私に話してくれた。    森川先生は、椅子に座り、左手で眼鏡を直し、少し冷たいカフェオレを一口のんだ。 「玲さん。先日、あなたとお父さんに約束した通り、少し、私なりにリチャード・トーマス先生の死因について考えてみました。その結果、1つの事実に突き当たりました」 「それは何ですか?」 私はコーヒーを飲みながら、尋ねた。 「あの後、私は、リチャード・トーマス先生と最後にバッハの『2つのバイオリンのための協奏曲』を練習した時に録音した曲を、聴いてみたのです。私はいつも、自分が演奏して練習する時、録音して、後で聞いてみる癖があるので、いつも録音しているのです」 「それで何かわかりましたか?」 「はい、とても大事な事が・・・」 「何ですか?」 「これは、リチャード・トーマス先生自信のプライドに関わることなので、お父さんだけに話してください。  それに、お父さんにも誰に話さないように約束させてください。出来ますか?」 「はい」 私は、少し大きな声で答えた。 「バッハの『2つのバイオリンのために協奏曲』でリチャード・トーマス先生が第一バイオリンのソロ、私が第二バイオリンのソロを演奏しました。最後に練習を行った時、リチャード・トーマス先生の一人のソロの時のビブラートに、いつものビブラートが効いていない事に気が付いたのです」 「それは何でしょう?」 「つまり、リチャード・トーマス先生は最近、左手でビブラートが出来なくなっていたのではないかと、思ったのです。  ですから、玲さんが受けた最後のレッスンの時には、トーマス先生は自分のバイオリンを弾いて、玲さんの演奏を直す事ができなかったのではないでしょうか?」 「そうなのですか?」 「実は、今度のリチャード・トーマス先生の追悼演奏会の1回しかない練習のために、昨日、仙台市まで行って、練習してきました。その帰り、リチャード・トーマス先生の家を訪問し、追悼演奏会について、奥さんに話しました。  奥さんには、その演奏会にリチャード・トーマス先生の写真を飾る事に承諾していただきました。その時、先生の左手のビブラートについて、私が話を持ち出したのです。  すると、奥さんは驚いた様子で、私にこう話してきました。『森川先生だけです。主人の悩みを知ってくださったのは・・・』と・・・」 「どういう事ですか?」 「つまり、リチャード・トーマス先生は、左手が動かなくなる病気にかかってしまっていたのです。そして、それを必死に隠そうとしていた。しかし、10月31日、日曜日には、私と共演しなくてはいけない。しかし、いつもの自分の演奏ができなくなっている事に、自分自身が気付いている。プロの演奏家にとって、演奏できなくなるという事は、死を意味する。それで、悩んだ挙げ句、早々と、その演奏会をキャンセルしたのです」 「そして、脳溢血で・・・」 「それも間違っていました。  リチャード・トーマス先生は、奥さんにだけ遺書を残して、自殺していたのです。『もう、演奏ができない』と『生きている自信がない』と。それだけ、リチャード・トーマス先生は、バイオリンの演奏にプロ意識を感じていたのだろうね」 「そうだったのですか」 「そして、『もし、私がリチャード・トーマス先生の死に疑いがあって仙台を訪れたなら、この手紙を渡して欲しい』と奥さんに手紙を託したそうだ」 バイオリンの絵の書いている封筒がピアノの上に置いてあった。 「何が書いてあったのですか?」 「リチャード・トーマス先生の最後のお願いさ」 「?」 「読んでみるかい?」 「いいのですか?」 「安藤玲さんにも関係することさ」 森川先生は、ピアノの上にあった封筒を私に渡した。 「親愛なる森川くん」 たどたどしい日本語でそう書いてあった。 「親愛なる森川くん  君がこの手紙を読んでいるという事は、私の死に疑問を持って、この仙台まで来てくれたというだろう。申し訳ない。もう左手が動かないのだ。だから、先に逝く。すまない。一緒に演奏したいとあんなに話していたのに・・・。  ところで、君にお願いがある。というか君にしかお願い出来ない事だ。  1つは、福島に今、気になっている女の子がいる。バイオリンの腕はいい。一番私が気に入っているのは、彼女の音楽性だ。こればかりは誰も真似出来ない。生まれ持ったものだろう。そこで、私の死後、彼女の面倒を見て欲しい。福島で彼女の腕を磨いて欲しい。  彼女の名前は安藤玲という。よろしくお願いしたい。  もう1つは、森川くんの推理力を借りたい。君と一緒に演奏活動をしていて、君がいかに観察力があり、推理力があるかを知った。それで、私からの最後のお願いだ。仙台にいる私の教え子で若宮ルリという大学生がいる。最近、若宮ルリの彼氏がいなくなったというのだ。彼女の連絡先は私の妻に聞いてくれ。彼女には森川くんの事を伝えている。あの外国人の事件を解決した君だ。よろしく頼む。 リチャード・トーマス」  手紙を森川先生に渡すと、私は涙を抑えられなかった。リチャード・トーマス先生が私の事をこんなに思ってくれていたとは・・・。 「もう1つのお願いはどうするのですか?」 コーヒーを飲んで落ち着いた私はバイオリンを演奏している森川先生に尋ねた。森川先生はバイオリンをゆっくり椅子の上に置くと、自分で煎れたカフェオレを一口飲んだ。 「あのリチャード・トーマス先生の最後のお願いだからね。何とかするよ」 「でも、仙台ですよ」 「昨日、リチャード・トーマス先生の奥さんにお会いした帰りに、若宮ルリさんに電話をしてみたんだ。でも、まだ連絡はとれていないけどね。発表会の前日、若宮ルリさんと会ってみようと思っている」 「私もご一緒していいですか?」 「練習は?」 「何とか・・・」 「中学校は?」 「大丈夫です」 「土曜日の朝は早いよ」 「慣れていますから・・・」 「では、朝の8時に迎えに行きます。夜には、本番会場で実際に練習させてもらえる手はずになっているから、その時間には間に合うようにする。」 「分かりました」 「私の運転だけど・・・」 「両親は仕事の都合で、日曜日の発表会しか来る事が出来ないと話していましたから・・・」  11月6日、土曜日。私は森川先生と仙台市に向かった。森川先生は、東北高速道路を運転しながら、若宮ルリさんの話をしてくれた。 「昨日、ようやく若宮ルリさんと連絡がとれた。彼女の実家が青森で、彼女の出身高校に教育実習に行っていたらしい。それで、宮城のアパートに電話を入れても、連絡がつかなかっった」 「何かわかりました?」 「若宮ルリさんの彼氏は大槻悠紀夫さん。宮城大学農学部の4年生。若宮ルリさんは、宮城音楽大学の4年生だ。  10月11日、月曜日、体育の日。夕方から2人で落ち合って、夕食をとる予定だった。しかし、彼は待ち合わせの場所に来なかった。彼の携帯の連絡をしても、電源が入っていないらしく、通じない。彼の大学の友達も彼の存在を知らない。東京にいる彼の両親もどこにいるかわからない。  大槻悠紀夫くんが今まで、若宮ルリさんとの約束を破った事はないそうだ。彼のアパートの鍵も預かっているので、その日の夜に行ってみたそうだが、鍵はかかっていた。朝まで待ったが、彼は帰って来なかった。  そして、大槻悠紀夫くんの両親が13日になって、捜索願を宮城県警に提出した」 「今も大槻悠紀夫くんの行方は?」 「わからない。宮城県警によると、大槻悠紀夫くんと同じような体格の身元不明の遺体も出ていないとの事」 「警察も動いているのね」 「まあ、警察も捜索願だけでは、殺人の捜査のような人数は出さないからね」 「そうなんだ」 「あの日依頼、大槻悠紀夫くんの姿を見た人が出ていない。カードなどの使用された形跡もない」  仙台宮城インターチェンジを降り、そのまま仙台市内に車は入っていく。土曜日の朝という事もあり、道は大変混んでいる。若宮ルリさんのアパートは仙台駅を越した東側にあった。この辺り、アパートが多かった。  2階建ての普通のアパート。 「若宮ルリさんに、君が一緒に行く事を連絡しておいた」 森川先生、手際がいい。 2階の一番奥のドアをノックする。中から声が聞こえ、ドアがそっと開く。少し痩せている、それでも可愛らしい女性が見えた。 「昨日、連絡した森川優です。こちらは安藤玲さん」 「どうそ、若宮ルリです」 彼女は私達にコーヒーを煎れてくれた。彼女の話は、先程、車の中で森川先生の話した内容とほど同じだった。 「じゃ、大槻悠紀夫くんの部屋に行こうか」 若宮ルリさんの部屋には30分もいなかった。森川先生の行動は早い。時計を見た。午前10時。  森川先生の車に3人で乗った。大槻悠紀夫さんのアパートは仙台駅を越えた西側にあった。中心街から少し離れ、近くに青葉城が見えた。 「ここの1階です」 大槻悠紀夫さんのアパートも2階建て。101号室だった。若宮ルリさんが部屋のドアを開ける。中は男性の1人暮らしとはいえ、とても片付いていた。 「私がよく掃除に来ていました」 若宮ルリさんが綺麗好きだった。  森川さんは、いつの間にか白の手袋をしていた。犯罪現場のようだ。 「コンピュータはないね」 「警察が持って行ったままです」 机を調べた。1つ1つ引き出しも開ける。 「そこも警察が調べました」 若宮ルリさんが何を言っても森川先生は手を緩めない。次に本棚の本を見ていく。 「彼の専門は?」 「発酵でした」 「発酵というと?」 「細菌を発酵させて・・・」 「つまり、有機物を酸化分解したりすることだね」 私は分からない。 「お酒を造ったり。乳酸を作ったり・・・。納豆、味噌、醤油、漬け物、鰹節、パン、ヨーグルト、紅茶、キムチなどを勉強していました」 「なるほど」 分かりやすい。道理で本棚に食品の名前のついた本が多いはずだ。  しかし、森川先生はそんな専門書より、少し大きめの月刊誌を取り、ページを眺めていた。そして、ロッカーの中や小物入れの中を見る。 「そこも警察が調べました」 「10月11日に会う約束をしていたんだよね」 「はい」 「11日に会う事になった理由は?」 「私の誕生日ですから・・・」 「そうなんだ」 森川先生は少し考える。 「誕生日のプレゼント、今まで何をもらった?」 「そうですね・・・」 今度は若宮ルリさんが考える。 「付き合って最初は、指輪でした。でも、色々な記念日には、健康にいい高価なヨーグルトだったり、新しく発売された日本酒だったりしました」 「大槻悠紀夫さんの研究の成果だね」 「そうとも言えます」 「今回、誕生日のプレゼントをおねだりした?」 「いいえ・・・。でも彼は何かを考えていたようで・・・」 「何か知っている?」 「いつも、プレゼントを渡す瞬間まで教えてくれないのです」 森川先生は、トイレやお風呂場まで調べると、白い手袋を取った。 「次に行こうか」 「もういいんですか?」 「玲さん、見るべき物は見たからね」   3人でまた森川先生の車に乗った。時計を見る。まだ午前11時15分。そのまま森川先生は車を15分くらい走らせた。そして、駐車場に車を停めた。 「若宮ルリさん。昨日、送ってくれた彼の写真意外に、最近の彼の写真はあるかい?」 「昨日、森川先生に送ったのが、一番新しい彼の写真です」 すると、森川先生は自分の携帯を取り出した。そして、大槻悠紀夫さんの写真を見せた。スマートで格好いい。森川さんはそのまま車を降りた。私と若宮ルリさんも後に続く。  森川先生は駐車場に近い食パン屋の前に来た。すでに行列が出来ている。 「ここ、最近出来た食パン専用のお店です。『みやぎの』という名前です」 若槻ルリさんはそのお店の存在を知っていた。3人で行列の最後尾並ぶ。森川先生は、食パンをどこかに買っていこうとしているのだろうか?それとも、お土産か?  10分くらいで、私はお店の中に入ることが出来た。森川先生が食パンを1つ購入する。そして、会計をしている女の人に、先程の携帯の写真を見せる。 「この男の人が2,3週間前にここに来ませんでしたか?」 女の人は周囲の人とその携帯を見つめていた。しかし、彼女達の反応は少なかった。 「1日に沢山のお客さんが来ますから・・・。それに、そんな前の事は・・・」 「そうですよね。ありがとうございます」 森川先生の諦めも早かった。  森川先生はお店の前で佇む。 「どうして、森川先生はこの『みやぎの』に来たのですか?」 「彼が立ち寄ったと思ったのさ」 「どうしてですか?」 「彼の部屋に10月号の仙台市のタウン誌があっただろう」 「はい」 「あの中で1ページだけ、ページを折ってあった所があった」 「それが・・・」 「『今月は食パンで!』という特集のページだ。その中で、食パン屋が5件、紹介されていた。中の2件は、歩いては行けない遠い場所。残った3件の中で一番近いのがこの『みやぎの』だったのさ」 「気がつきませんでした」 「ところで、あの日、彼との待ち合わせ場所は、仙台駅前だったよね」 「はい」 「もし、大槻悠紀夫さんがその待ち合わせ場所に行くとしたら、あのアパートから、歩き、バス?」 「たぶん、歩きです。彼、歩くのが好きでしたから・・・。2人で仙台市内をよく歩きました」 若宮ルリさんが彼の事を思いだしたように涙ぐむ。  森川先生は歩道の縁を丁寧に見ながら、駐車場に進む。駐車場に来ても、その周囲をくまなく何かを探しているようだ。私と若宮ルリさんはその姿をただ見つめる。  すると、森川先生がいきなり声を上げる。 「若宮さん、こっちに来て」 私達が森川先生の声のする方に行く。駐車場の端。落ち葉の溜まっている中から何を取り出す。 「これ、大槻悠紀夫さん財布かな?」 若宮ルリさんの顔色が変わる。 「そうです」 森川先生が財布の中身を見る。大槻悠紀夫さんの免許書が出てくる。お札もある。カードもある。森川先生は財布を若宮ルリさんに預けると、その落ち葉の中をまた手で探る。 「携帯だ」 若宮ルリさんに見せる。 「彼のです」 「電源がつく。壊れていない」 森川先生が預けた財布の中を見る。 「レシートがある。10月11日。15時45分にこの『みやぎの』で食パンを購入している」 「じゃあ・・・」 「大槻悠紀夫くんは、いなくなる直前に、ここにいた事になる」 森川先生は話し終わらないうちに、辺りを見回し、道路向かいにあるコンビニに走っていく。私達も森川先生を追う。  店員は3人いた。森川先生はそのうち一番年配の男の人に話し始めた。 「ここの前にある防犯カメラは動いている?」 男の人は驚いたように体をこわばらせている。 「動いていますが・・・」 「実は、彼女の彼氏が行方不明なんだ。10月11日から。その日、あの駐車場にいた事が分かっている。ここのお店の防犯カメラで確認したいんだけど・・・」 森川先生は、携帯の彼の写真を見せる。その勢いに負けたように彼は首を縦にふる。 「本当はダメですが、そういう事情なら・・・」 妻夫木店長というらしい。彼は私達を奥の部屋に案内してくれた。 「一応、1ヶ月、ビデオは保存しておきます」 倉庫から段ボール箱に入った大量のビデオテープを持ってくる。10月11日のテープはすぐに見つかった。デッキに入れる。早回しで再生する。15時52分。大槻悠紀夫さんらしい人が駐車場に歩いてくる。 「彼です」 若宮ルリさんが叫ぶ。しかし、その瞬間、大槻悠紀夫さんが駐車場から降りた男性とぶつかる。胸元を捕まれる。車から他に男が2人降りる。3人の囲まれる。駐車場の奥で袋だたきにあう。若宮ルリさんは手で目を押さえる。しかし、5分もしないうちに、男達は車に乗ってどこかに行く。その後に大槻悠紀夫さんが倒れている。動かない・・・。 「悠紀夫・・・」 若宮ルリさんの言葉が声にならない。しかし、その時、大槻悠紀夫さんが体が動き始めた。ヨロヨロをしながら、場面の奥に消えていく。手に食パンはない。 「この時、財布と携帯を落としたのだろう」 森川先生は手帳に何かをメモしていた。 「妻夫木店長、後でこのビデオテープの提供を警察がすると思います。なくさないで管理していて下さい」 森川先生の真剣さんが妻夫木店長に伝わる。 「わかりました。金庫に入れておきます」 一緒に画面を見ていた妻夫木店長にも事の大きさがわかったらしい。  私達は妻夫木店長のお礼を言うとコンビニから出た。すると、森川先生が携帯を出して、電話を始める。私は時計を見る。12時45分。 「こちら森川と言います。行方不明者を捜しています」 「10月11日。午後4時頃。仙台市青葉区あたりで20代男性を救急搬送していませんか?」 「わかりました。待ちます」 森川先生の頭の回転も早い。 「今、救急センターに電話した。あの時間、救急車が出なかったか尋ねた。大槻悠紀夫くんのあの状態だ。歩いてどこかに行くのは無理だ。近所の人が救急車を呼んだ可能性がある」 すると、5分で携帯が鳴った。 「はい、森川です」 「そうですか。仙台南警察病院ですね」 そこからの森川先生はもっと早かった。道路を渡ると、車に飛び乗った。そして、仙台南警察病医院に直行した。こういう時の赤信号がとても長く感じた。病院は大きかった。しかし、受付で森川先生が事情を話すと、すぐ4階に案内された。  ナース長の風祭さんは年配だった。 「意識は回復んですが、記憶がまだで・・・」 部屋に案内されるまでにそんな話をしてくれた。10号室は個室だった。ドアを開けると、ベットに座っている男性が見えた。すると、若宮ルリさんが飛び込んでいった。  もし、「奇跡」という事があるのなら、今回のような場面の事を言うのだろう。私と森川先生と風祭さんは、入口で立ってその状況を見ていた。 「悠紀夫!」 若宮ルリさんが叫ぶ。大槻悠紀夫さんがパジャマ姿で彼女を見る。若宮さんが彼の胸に飛び込む。それを大槻さんが受け止める。 「どうしたルリ、泣いて・・・」 私の後にいた風祭さんが驚く。 「記憶が戻った」 風祭さんはすぐ、廊下の飛び出す。 「ここはどこだ?」 大槻悠紀夫さんが辺りを見回す。廊下からお医者さんが入ってくる。時計を見た。13時50分。昼食を食べて、お昼寝してもまだ、練習には間に合う。 「私達はここで失礼します」 森川先生は2人と風祭さんに挨拶した。 「でも・・・」 若宮ルリさんが引き留める。 「警察や両親に連絡しないといけないでしょう。私達はこれから演奏会の練習があるのもで・・・」 森川先生の去り際も早い。  森川先生は、病院を出ると、どこかに携帯で連絡をしていた。 「トーマス先生の奥さんと、宮城県警にいる鬼村竜夫っていう怖い警部補さ」 「何を連絡したの?」 「奥さんには、彼を見つけた事。鬼村警部補には、彼を暴行した男達の乗った車のナンバーとビデオテープの存在についてさ・・・」  午後4時からの練習には余裕を持って間に合った。森川先生の練習は土曜日の最後だった。その日は仙台市内のホテルに宿泊した。もちろん、森川先生とは部屋は別々。しかし、夜中、森川先生の部屋には沢山の人が訪れていた。後から聞くと、宮城県警の鬼村警部補を始め、東京から駆けつけた大槻悠紀夫さんのご両親だった。    翌日、11月7日、日曜日。仙台市のバッハホールで、盛大に「リチャード・トーマス先生の追悼演奏会」が行われた。日本各地だけでなく、世界中から、特にリチャード・トーマス先生の出身のフランスからは何人ものプロの音楽家が来て演奏した。  私は、プロの演奏を間近で見ることができた。そして、まだ、自分には音楽大学の附属高校に行く意味がない事を悟った。そして、森川先生のもとで、4年間レッスンし、それから音楽大学を目指そうと思った。そんな世界中のプロの演奏家と一緒に、中学校3年生の私が『シャコンヌ』を演奏できたのは、とても良い経験になった。  自分で納得の行く演奏だった。それに、天国のリチャード・トーマス先生にも、十分、褒めてもらえる演奏だと思った。 「技術より、演奏する心を磨きなさい」 レッスンの時、森川先生に言われた言葉は、今でも忘れない。  「リチャード・トーマス先生の追悼演奏会」の最後のステージは、森川先生が第一バイオリンを務める弦楽四重奏の演奏だった。曲は生前、リチャード・トーマス先生が大好きだったドミトリ・ショスターコヴィッチの弦楽四重奏曲を演奏した。その高いテクニックと音楽性に、会場が静まりかえった。私の心も揺れた。そして、この人について行こうと決めた。 ☆  いつの間にか、時計はお昼になっていた。井上くんの目は爛々と輝いていた。 「暴行した男はどうなりました?」 「鬼村警部補が捕まえたらしいよ。証拠のビデオが物を言ったらしいわ」 「あの2人は?」 「2人の結婚式に私と森川先生が招待されたわ」 すると、ドアをノックする音が聞こえ、あの森川先生が入ってきた。 「玲さん、お久しぶり。霧島警部が離してくれなくて・・・井上くん、また、昔話を聞いていたな・・・」 森川先生は相変わらずだ。でも、彼の心がガラスのように壊れやすい事を私は知っている。私は彼の一番の教え子で、義理の姉なのだから・・・。
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