15.139話 回想2話 「ステージマネージャー」

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15.139話 回想2話 「ステージマネージャー」

 2020年8月31日、月曜日。俺、三田村茂樹は「ふくしま探偵局」に森川を久しぶりに訪ねていた。しかし、森川との話は途中で切り上げる事になった。星守元警部から救援の要請が来たからだ。 「ちょっと、出かけて来る。夜の飲み会には間に合うようにする」 俺は途中まで森川の車で送ってもらい、自分の実家に帰った。  午後6時には、福島駅西口前にある居酒屋「海の蛍」に、俺は妻の幸子といた。このコロナ禍の中、営業を自粛している店が多い。「海の蛍」のその中の1つらしい。しかし、森川の依頼で、俺達だけ貸し切りにしてくれたと聞いた。そこには、片平月美先生や先崎春美先生、戸澤リカ先生に田中一男くん、みなみさん兄弟。そして、岡崎愛子さんに菅野梢さん。俺が誘った井上浩くん。やはりいつもの通り、森川は遅刻だ。  みんなは、俺と幸子の新婚生活とグアム移住について、飲む前から盛り上がっていた。 「森川先生、今から仙台を離れると、父からラインが来ました」 リカ先生が報告してくれる。 「森川さんの事件で、三田村さんが一番、苦労した事件はありますか?」 井上くんの質問に俺は少し考えた。 「あれじゃない?3年生の時のサマーコンサート?」 幸子が俺を見て笑う。そうかもしれない。あれは大変だった。 「サマーコンサートって?」 井上くんは何も知らないようだ。 「二本松大学管弦楽団の夏に行われる演奏会の事」 さすが音楽科出身の愛子さん。即答だ。 「二本松大学管弦楽団は冬に行われる定期演奏会と夏に行われるサマーコンサートがあるの。まあ、定期演奏会がきちんとしたクラシックの音楽会で、指揮者も選定して行うのに対し、夏の行われるサマーコンサートは、少し軽めのクラシックだったり、ポピュラー音楽を演奏するの。指揮者も二本松大学音楽科の先生だったり、身近な人に指揮をしてもらう事があるわ」 そう言えば幸子は元二本松大学の音楽科の先生だった。 「森川さんは何を?」 「そのサマーコンサートに出演したわ。私もね」 「三田村さんは?」 俺はちょっと迷った。 「彼も出演していたわ」 「三田村さんも楽器を演奏するのですか?」 「彼はステージマネージャーよ」 そうだった。 ☆ 2004年。俺、三田村茂樹は、大学3年生の7月、突然、森川から音楽棟に来るように呼び出しを受けた。もちろん、俺を呼びに来たのは、森川の彼女の緑川鈴ちゃんだ。 「優が、大事な話があるから、一緒に音楽棟まで来て欲しいって・・・」 鈴ちゃんの甘い言葉に乗せられて、俺は、鈴ちゃんについて行った。森川が何か用事を俺に依頼したい時に限って、自分で俺の所に来ないで、鈴ちゃんに迎えに来させる。鈴ちゃんは可愛いから、森川は、そこをつけ狙っての計算だという事は、分かっているのだが、俺は鈴ちゃんの甘い言葉には勝てない。  俺と鈴ちゃんは、音楽棟の3階にある松本勘三郎教授の研究室に入って行った。その研究室には、松本教授に森川、そして、管弦楽団部長の3年生、荒明良仁くんが待っていた。荒明部長とは、森川を通して何回か話もしているし、文学部所属で、管弦楽団でチューバを演奏していると聞いていた。  松本教授に、椅子に座るように言われ、置いてあった椅子に座った。もちろん、お互い自己紹介をするまでもない仲だったので、すぐ松本教授は、本論に入った。 「来週の二本松大学管弦楽団のサマーコンサートのステージマネージャーを引き受けて欲しい」 俺は、最初、何の事だか分からなかった。  しかし、森川が事の次第を説明してくれた。  今回のサマーコンサートのステージマネージャーは、3年生の音楽科の人間に決まっていたが、昨日、急に盲腸になって緊急入院して手術をしたらしい。そこで、管弦楽団に入団していない音楽科で、ステージマネージャーが出来そうな人間を捜したが見当たらず、森川の推薦で、この俺に白羽の矢が当たったのだ。それに、森川がステージマネージャーの仕事の内容から順序までを全て、紙に書いて、教えてくれ、その助手として、鈴ちゃんも手伝ってくれるという事らしい。  俺が承諾する前に、松本教授に森川、そして、3年生の部長の荒明や鈴にまで頭を下げられ、拒否する事が出来なくなり、全ての責任を森川が取るという事で、俺はサマーコンサートのステージマネージャーの役を引き受ける事になった。  それから、サマーコンサートまでの約1週間、音楽棟での管弦楽団の練習を森川と鈴と一緒に見学し、楽器の名前やパートリーダーの名前、曲の時間など、ステージマネージャーに必要な事を、森川にたたき込まれた。  7月30日、金曜日。森川からもらった紙は、10枚を越えていた。  スケジュールを全員に確認する事。男女、指揮者、バイトの学生の控え室の部屋の掲示から案内の掲示を事前に確かめる事。椅子や譜面台のステージ上の位置を把握し、とその数を覚える事。照明係や音響係に本番中に連絡をして、明るさや照明の付ける時間を調整する事。指揮者の出入りを指示する事。曲の始まりの合図や、管弦楽団が、ステージから降りる時間を合図する事。アンコールの演奏開始を促す事。観客へのアナウンスを調整する事。バイトの学生を朝、集めて、その手順を説明する事。弁当の数の確認と注文・・・。  俺は、頭がパニックになりそうだった、もし、頭の良い鈴ちゃんがいなかったら、到底、1人では出来なかっただろう。 「幽霊が出るらしいよ」 緑川鈴ちゃんが俺をからかってきた。 「福島市音楽堂のコンクールに落選した女の子が自殺したらしい。その霊が彷徨っているの」 付き合っている平田幸子が最もらしい事を付け加えていた。 「大ホールで演奏中、かつらが落ちた男の人が、職場でその事が話題になり、音楽堂に来て、首をつったらしいの」 鈴ちゃんは、俺を怖がらせようとしているのか・・・。  今年の二本松大学管弦楽団サマーコンサートは、福島市音楽堂の大ホールで開催される。  福島市音楽堂は1984年に福島市にある信夫山の麓に開館した。福島市では、数少ないコンサートホールのひとつだ。演奏会場は、1002席ある大ホールと200席ある小ホールがある。  大ホールの壁全体に、石川県の九谷焼タイルを施し、床には音響効果のため全て桜のムク材を使用している。その大ホール正面にはデンマーク製のパイプオルガンを備え、このオルガンを演奏したときに最高の音色が得られるよう設計されている。客席に入ると、その荘厳なパイプオルガンの姿に誰もが圧倒される。  この大ホールの設計により、残響時間は空席時で3秒、満席時でも2.5秒となり、まるでお風呂に入っているような感じで音が響き渡る。そして、この響きから福島市音楽堂で演奏する事を苦手にしている人も多い。  音楽堂には、大ホールの後に大きな楽屋が存在し、着替えも出来る。また、大ホールを中心に第1練習室から第7練習室が備えてあり、その練習室を単独で借りて練習する人間や団体も多い。平日でも満員御礼の日がある程だ。第1や第4、5の3つの練習室は、管弦楽や吹奏楽の練習も出来る程広くなっている。  だから、このようなサマーコンサートの時、大ホールだけではなく、全部の練習室も一緒に借りて、男女の控室や指揮者、ソリストの控室などにする事も多いと聞いた。もっと、出演者が多い場合、小ホールも借り控室とし、演奏会をする団体もあるらしい。  翌日、7月31日、土曜日。午後1時に福島市音楽堂集合となった。俺は自分の車の助手席にバイオリンケースを持った幸子を乗せて、音楽堂に向かった。二本松大学から大きな楽器を借りたトラックに積み込む役目は、2年生と1年生の男子になっていた。2年生だった幸子は、福島市から東北本線で2つ目の駅にある二本松大学まで行かなくて良かった。  福島市音楽堂の駐車場は、狭い。全ての駐車場が満車になっても、音楽堂の小ホールは満席にならないほどだ。東京のように近くに地下鉄の駅もない。福島駅から歩いても40分はかかる。交通の便に悪い場所に作ったものだと感じる。  東京から転勤してきた人間が「公共機関を使って来て下さい」とか言っていたらしいが、この福島は5分も経てば、次の電車やバスが来るような東京とは違う。1つ電車を逃せば、次は1時間以上も電車は来ない。バスも同じだ。そんな事を知らない奴が、正論を振りかざす。  その狭い福島市音楽堂の駐車場に午後1時前から、パトカーが2台、止まっていた。それも、正面に。俺と幸子は嫌な予感を感じながら、福島市音楽堂に入っていく。集合場所は大ホールステージ横にある控室。しかし、そこに行く前に大ホールのホワイエで森川と緑川に会った。 「あの吉田繁警部補が事務室に来ていた」 森川が俺に囁く。 「面倒な事にならないといいね・・・」 幸子が隣で不審な様子を見せる。  控室で二本松大学管弦楽部の代表たちと軽く打ち合わせをした。  これから、舞台を作る。2時からリハーサル。5時から夕飯休憩を1時間。再開が午後6時。そして8時30分解散だ。俺は幸子に促され、誰もいない観客席の真ん中でその舞台作りを見守る。管弦部はだいたい80名。その集団が、山台を設置し、椅子を配置していく。そして、譜面台を置く。俺の手元にある森川からもらった舞台配置図と見比べる。あの80名の集団は、この舞台配置図も見ないで、それぞれが的確に椅子を配置していく。見事なものだ。美術科の俺にとっては、そのシンメトリーな配置にうずうずしてしまう。俺はその衝動を抑えられず、ステージの上がる。 「この上から見ると面白いわ」 幸子がステージ後にあるパイプオルガンを見上げる。頭の上にはパイプオルガンのコンソールが見えた。小さな螺旋階段を上り、コンソールに出る。そこから大ホールの観客席全体が見渡せる。見事な壮観だ。下では人間が仕事をしている。上から見渡すのは、何か偉い気持ちになる。 「三田村、ちょっと降りてこいよ」 下から森川の声がする。  俺は、上ってきた螺旋階段を下り、観客席入口にいた森川の所に行く。 「ちょっとこっちに・・・」 森川に促され、大ホールに通じる防音のドアを開け、ホワイエに行く。すると、そこに見たことのある顔があった。 「お久しぶりです。三田村くん」 吉田繁警部補だった。  俺は、森川の悪い癖がまた出たと思った。事件の匂いがすると、すぐ頭とつっこむ癖だ。 「午前中のアンサンブルの演奏会があって、その演奏会中に盗難事件がありまして・・・」 はやり、事件だった。 「福島マンドリン倶楽部というのがある」 名前を聞いた事がある。年配の人が集まっているらしい。 「午前中に演奏会があった。彼らは第4練習室を控室に使用していた。この福島市音楽堂の練習室には、それぞれ貴重品を入れる事ができるロッカーが、その廊下に設置してある。この福島マンドリン倶楽部の団員も演奏会中、そのロッカーに貴重品を入れて、演奏会をしていた。しかし、演奏会終了後、着替えをしに第4練習室前に来ると、そのロッカーに入っていた貴重品が全てなくなっていたらしい」 森川が的確に説明する。 「ロッカーは1つで、その鍵は団長がずっと持っていたそうです」 吉田繁警部補が付け加える。 「練習開始まで30分あるから、話を聞いてみようと思う。三田村も来るか?」 俺はステージマネージャーという仕事がある。森川は何を話しているんだ。 「ステージマネージャーという仕事は、鈴もいるから大丈夫・・・」 先を越された。俺は福島市音楽堂の事務室横にある会議室に向かった。  会議室は満杯だった。中には14名のおじさんおばさんが詰めていた。うるさかった。森川は全員を静かにさせ、質問した。 「今日、ロッカーに貴重品を入れた人」 全員が手を挙げる。 「鍵をかけた人」 2人が手を挙げる。 「私、リハーサル後、全員がロッカーに貴重品を入れたのを確認して鍵をかけました。でも、吉井田さんは?」 「佐倉団長、私、演奏会の前にロッカーに忘れ物をしたのを思いだして、佐倉団長から鍵、借りましたよね」 「そうだった」 「そして、ステージ脇の控室で鍵を返しましたねよ」 「そうそう」 年寄りの話は長くて嫌だ。 「吉井田さん、その時の様子を詳しく思い出してください」 「・・・」 吉井田さんは、頭をひねりながら考えていた。回りの団員が急かす。森川がまた全員を静かにさせる。音楽堂職員が3つ、お茶を持ってくる。吉田繁警部補、森川、俺の前に置く。 「大橋さん、ありがとう」 吉田繁警部補が眼鏡をかけた音楽堂の女性職員にお礼を言う。 「鍵でロッカーを開け、中の物を全部出して、自分の小物入れからコンタクトを出しました」 「その後は?」 「小物入れをロッカーに入れ・・・鍵をかけました」 「出した貴重品は?」 「あっ」 吉井田さんが固まる。 「そのままです」 「どこにその貴重品を出しました?」 「ロッカーの前にあった段ボール箱の上?」 「段ボール箱はなかった」 吉田繁警部補が確認内容を話す。  森川は会議室を出た。俺もその後を追う。森川は隣の事務室に入る。 「今日、第4練習室前から段ボールを片付けた職員の方はいますか?」 誰も手を挙げない。森川は机が一番高い場所にある人の所に行く。「高橋課長」と書いてあった。 「高橋課長、今日、午前中だけで帰宅した職員はいますか?」 「いるな・・・」 高橋課長は、机の中からファイルを出す。 「清水有加さんだ」 「連絡、取れますか?」 すぐ、高橋課長が電話する。 「もしもし、高橋だけど・・・」 「今、交換する」 「二本松大学の森川と言います。午前中、第4練習室前から段ボール箱を移動しましたか?」 「そうですか。どこに?」 「わかりました。お休み中、すみません」 森川は電話を高橋課長に返すと、事務室を出た。その後を俺と吉田繁警部補が追う。森川は事務室前の物置に入る。すると、中から「福島市音楽堂」と文字が印刷された段ボールを出す。その箱を開ける。中身を吉田繁警部補に見せる。 「解決ですね」 森川は段ボール箱を吉田繁警部補に渡す。 「私達はこれで、練習に戻ります」 「俺は後ほど・・・」 俺と、森川は大ホールに戻っていく。 「さすが、森川」 「偶然さ」 リハーサルの時間まであと10分。ステージの上ではほとんどの団員が練習を始めていた。コンサートマスターの席には幸子が座っている。森川はバイオリンを持つと、その横に座る。ステージの横では緑川鈴ちゃんが私を呼んでいる。俺はステージに昇り、鈴ちゃんの横に行く。 「大変だったね」 何もかも知っている女性だ。恐ろしい・・・。  そして、サン=サーンス作曲の交響曲第3番「オルガン付き」の練習が始まった。  午後5時、夕飯休憩になった。俺は幸子が作ってくれたお弁当を楽屋で食べた。他の団員も楽屋や外のベンチで食べていた。中には近くのラーメン屋やレストランに行った人間もいる。幸子の隣では、幸子と同級生の野田明美さんと大森瑠志亜さんが一緒に持ってきたサンドウィッチを食べていた。 「明美、見えたよね」 「見えたよ、瑠志亜。白かった」 「そう。たまに揺れてた」 「そうそう」 幸子が何の話か尋ねる。 「明美、瑠志亜、何が見えたの?」 「幽霊・・・」 「どこで?」 「練習中に2階の出入り口の近くで・・・」 「白くて、ゆらゆらしてた」 「今回の練習。観客席は部外者立ち入り禁止でしょ。オケで出番のない降り番の人は、ステージ脇の控室か後の楽屋にいる事になっているでしょ」 「それに、ステージマネージャーの三田村先輩だって、1階の観客席にいるし・・・」  福島市音楽堂の観客席は、斜めに作られている。1階から観客席に入ると、一番奥まで階段がついていて、途中、2階に出入り口から入ってくる所とぶつかる。そして、その奥に続く。だから、福島市音楽堂の大ホールは、1階から入ろうと、2階から入ろうと、中の観客席はつながっている。  1階の入口から入るには、福島市音楽堂の入口から入り、ホワイエを通り、1つしかない出入り口を通らないと、入って来る事が出来ない。2階に行くには、そのホワイエにある階段から2階に上り、2階にあるドアを開けるほかない。つまり、観客席の出入り口は2つしかない。1階のドアの近くには俺が座っていた。2階は部外者立ち入り禁止のため、入ってくる事ができない。それなのに、2階の出入り口近くに白い影が、練習中に見えたという事は・・・。 「噂は本当だったんだ」 俺は幸子を見つめた。 「まあ、害はないから・・・」 幸子は気楽なもんだ。  夕飯休憩が終わり、午後6時から映画音楽の練習になった。曲が多いため、人間の出入りも多い。演奏しない人間は速やかに楽屋に退場する。  俺は先程の話もあったので、2階の観客席をたまに見ていた。しかし、野田さんや大森さんの話したような白い影は見えなかった」  しかし、練習中に俺の同級生の泉洋介が俺のそばに寄ってきた。彼はクラリネットの3年生で、クラリネットパートが5人もいるので、たまに降り番になるらしい。今、練習している曲も降り番だという事だ。 「三田村、女の泣き声が聞こえるそうだ」 「どこで?」 「楽屋で」 「行ってみよう・・・」 俺と洋介は観客席からホワイエに出て、そのまま事務室前に行って、廊下を回り練習室の間を通り、大ホールの裏にある楽屋に来た。 「三田村、幽霊の鳴き声が聞こえた」 そこで待っていた同級生で打楽器パートの岡山和太瑠も俺のそばに寄ってきた。 「前の曲の時、2人で楽屋でお菓子食べてたら、女の泣き声がした。声をかけても、楽屋の中を見渡しても、誰もいなくなった。それで、俺はおまえに声をかけに行った」 「俺は団長に探しに行ったけど、団長、ステージで練習中で・・・」 俺は2人と楽屋の中を捜索したが、人間の姿は見つからなかった。また、音が出る装置も見あたらなかった。  そのうち、2人は次の曲のため、ステージに戻っていった。俺は1人楽屋にいるのが怖くなり、ステージ横に控室に行った。今度は、フルートの2年、鎌田ろみいさんが降り番で、俺の方に来た。 「お疲れ様です」 「お疲れ」 練習は休憩なしで、次の曲に続いていた。ろみいさんはそのまま控室から廊下に出て行った。楽屋には・・・と思ったが、話す事が出来なかった。  すると、そのろみいさんが、控室にいる俺の所に飛び込んで来た。 「三田村さん、幽霊の声が・・・」 俺は回りを見渡したが、鈴ちゃんも見あたらなかった。仕方が無く、俺はろみいさんと、その幽霊を確認しに廊下に出た。 「『かつらが~』って声が聞こえるんです」 「演奏中、かつらを落とした幽霊か・・・」 2人で楽屋とは反対側にある練習室の方に歩いていった。静かだった。時計はすでに7時を回っていた。すると、突然、俺の耳にも聞こえた。 「ずら、ずら、ずら・・・」 隣にいたろみいさんが俺に抱きついてきた。俺は腰を抜かしそうになった。耳を疑った。 「ずら、ずら、ずら・・・」 低い男の声が2回も聞こえた。俺とろみいさんは、そのまま練習室前の廊下を後にして、控室に向かった。  ステージでは最後の曲の練習が終わっていた。ろみいさんが知り合いに声が聞こえた話をしていた。何人もの人間が先程、俺がろみいさんに抱きつかれた場所に向かった。しかし、誰も幽霊の声を聞いた人間は現れなかった。それに、練習室は、誰も、他の団体も使用していなかったので、練習室からの音漏れの可能性もなかった。  森川に、大ホールで見えた白い幽霊や、楽屋での泣き声、そして、今回の声の話をした。 「本当の幽霊かもね」 森川はそんな感じだった。 「明日は朝8時30分に来てくれ」 森川はそう言うと、鈴ちゃんと駐車場に消えた。  翌日、8月1日、日曜日。俺は幸子を助手席に乗せて、森川の家に向かった。森川の家には既に鈴ちゃんも待っていた。そして、俺は3人を乗せて、福島市音楽堂に向かった。昨日と違って、駐車場は空いていた。それもそのはず。サマーコンサート当日は、二本松大学管弦楽部の団員は、音楽堂に車で来る事を許されていない。それは、駐車場が狭いので、お客さんの分を空けようとする配慮だ。しかし、団員でないお手伝いの人は、車で来る事を許されている。だから、団員以外の俺の車を森川は当てにしていたのだ。 「そういえば、三田村、昨日の幽霊だけど・・・」 森川まで俺を怖がらせようとしているのか・・・。 「また、何か・・・」 「三田村は幽霊の正体を知りたくないのか?」 「森川はその幽霊を捕まえたのか?」 「そういう事じゃないけど・・・。どうだ」 「知っているなら聞かせてくれ」 「音楽科の4年生に荒井真紀という先輩がいる」 「初耳だ」 「彼女は来年、東京にある音大の大学院に進学が決まっている」 「すごいな」 「彼女の専門はオルガンだ。三田村、大ホールの観客席に白い幽霊が出たのは、俺たちが何の曲を練習している時だ?」 「そうだな・・・。サン=サーンスの交響曲だね」 「そう、副題が『オルガン付き』だ」 「そんな名前だった」 「真紀先輩は、今日、東京でレッスンがあり、サマーコンサートの本番を聞く事が出来ない。そのため、昨日、こっそり、音楽堂に来た」 「でも、観客席のドアは・・・」 「彼女はこの音楽堂パイプオルガン会の会員だ。つまり月に2回、この福島市音楽堂のパイプオルガンを演奏している。この大ホールにも在学中、月に2回も来ている。音楽堂の職員から観客席の鍵を借りて、自分で開け閉めする時も多かった。その時、鍵をコピーした、昨日のようにリハーサルでこっそりパイプオルガンを聞くために・・・。悪意はない。ただ、パイプオルガンの演奏はあまりない。その機会を無駄にしたくない。彼女は、持っていた観客席2階の合い鍵でそっとドアを開け、サン=サーンスの交響曲第3番『オルガン付き』を鑑賞した。そして、こっそりと出て行った。鍵を閉めて・・・。  彼女は、昨日、白い服を着ていたそうだ・・・」 「荒井先輩も、そう話してくれれば、観客席の一番良い席で聞かせたのに・・・」 「私もそう話したさ。でも、他の人間に手間を取らせるのが嫌だったようだ。昨日、大変申し訳ないと話していた」 「そういう事か・・・」 「それに、夕飯休憩の後、一番最初に練習した曲で、オーボエのソロを演奏した4年生の中野静恵という先輩がいる」 「その先輩は知っている。気が弱いと話を聞いた」 「その中野静恵先輩が、昨日のリハーサルでソロを2回しくじった」 「そう言えば・・・」 「次の曲は降り番だった。中野先輩は、1曲目が終わるとそのまま楽屋や逃げた。あの楽屋には、更衣室が4つある。しっかりした更衣室ではなく、カーテンがついている簡易のものだ。彼女はそこに閉じこもり、ソロ失敗と4年生の重圧から泣いてしまった。それを、その後に来た3年生の泉洋介と岡山和太瑠に聞かれた。中野先輩は、彼らが楽屋を出た瞬間に、その更衣室からそっと出て、トイレに逃げ込んだ」 「それじゃ、あの泣き声は・・・」 「そうだ。中野先輩は、昨日徹夜で練習したそうだ。この件は黙っていてくれ。中野先輩大学生活最後の演奏会だからね・・・」 「わかった」 「そして、昨晩、福島市音楽堂で、私達以外、もう1つの団体が練習していた」 「わからなかった」 「信夫野女声合唱団だ。二本松大学混声合唱部の卒業生も多くいる若い合唱団だ」 「そんな合唱団があったのか・・・」 「日本の合唱に多く取り組んでいて、来週、この福島市音楽堂で定期演奏会を行う。昨日、練習していた曲は工藤直子作詞、松下耕作曲の女声合唱『あいたくて』だ」 「知らない曲だ」 「その3曲目に『蟻の夏』という曲がある。最初の出だしが『ザ、ザ、ザ」と始まる」 「それで・・・?」 「それが、ソプラノ以外全員でリズミックに歌うから、『ザ』がちょっとずれると『ズラ』と聞こえる。信夫野女性合唱団は、小ホールで練習していた。あの練習室の丁度上の2階にある」 「でも、1階まで声は漏れないだろう」 「それが、昨日、響きを確認するため、その時だけ、指揮者が小ホールのドアを開けていた。そして、小ホールのドアの横には、物を運ぶためのエレベータが備えてある。エレベータの1階は、あの練習室の前だ。つまり小ホールのドアから漏れた声がたまたまエレベータを伝わって、1階の練習室前に響いた。声が低く聞こえたのは、その残響のせいだ。指揮者が響きの確認が終わって、小ホールのドアを閉めたため、それ以降、声は聞こえなかった。  信夫野女性合唱団に知り合いの先輩がいてね。昨晩、聞いてみたよ。真相は今、話した通りだ」 「じゃ、幽霊は?」 「いない」 俺は駐車場に車を止めると、心を落ち着かせて、福島市音楽堂に入った。  午前9時10分、ステージ横の控室で打ち合わせがあった。福島市音楽堂の職員や照明音響係、団長や副団長に俺。しかし、1人、いなかった人間がいた。ヒラノ写真館の平野雅也さんだ。彼は毎年、このサマーコンサートの写真を撮影している年配の方だ。当日の練習風景やスナップ写真。本番の写真や休憩中の写真。そして、演奏会終了後の記念写真。後で管弦楽団に写真を送り、注文をとっているらしい。  俺は打ち合わせの後、ヒラノ写真館に電話をした。 「本日、撮影をお願いしている二本松大学管弦楽団ですが・・・」 「オヤジはもう、行きましたが・・・」 「まだ、到着していません」 「30分も前に出ました。福島市内に店があるので、10分もしないで到着するはずですが・・・」 「途中で事故とか・・・」 「そんな連絡はまだ、入っていません」 「では、待ってみます」 「こちらも探してみます」 俺は森川にその件を相談した。リハーサルは9時45分からだった。まだ、時間の余裕があった。  森川は頭の髪の毛を少しいじると、福島市音楽堂の事務室に向かった。 「大橋香奈さん、電話をお借りしてもいいですか?」 森川は答えも聞かずに受話器を取っていた。大橋さんは昨日と違って眼鏡を外していた。しかし、俺たちに昨日同様、お茶を持ってきてくれた。 「もしもし、こちら福島市音楽堂ですが、福島県文化センターですか?」 「そちらで本日、演奏会はありますか?」 「そうですか。わかりました。駐車場にヒラタ写真館の車は見えますか?」 「ありがとうございます」 森川は電話を切ると、大橋さんが持ってきたお茶を飲むと、俺に向かってお願いをしてきた。 「三田村、福島県文化センターに行って来てほしい。そこで、本日、福島医大ギタークラブのサマーコンサートがある。たぶん、そこに平田雅也さんが間違って行っているから、連れてきて欲しい。リハーサルから写真撮影をして欲しいから・・・」 俺は事務室を出ると、高橋課長とすれ違った。事務室の中で森川はその高橋課長と何かを話していた。俺は、車で福島県文化センターに急いだ。  福島県文化センターは、1970年に開設したホールだ。こちらも信夫山の麓に作られ、この福島市音楽堂から歩いても15分で到着する。道の1本だ。車なら5分もかからない。たまに会場を間違う人間もいる。というか間違う人間が多い。大ホールは1700席を越え、小ホールも400席を越える。  俺は福島県文化センターに到着すると、そのまま大ホールに直行した。すると、大ホールの前でうろうろする高そうなカメラを持った初老の男性にあった。 「平田雅也さんですか?」 森川の推理は当たっていた。俺は彼を車に乗せると、福島市音楽堂に戻った。 「不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる」 リハーサル開始5分前に森川は話していた。  そして、無事、リハーサルが始まった。俺には仕事があった。今日、会場で受付をしてくれる二本松大学混声合唱団のバイトの人に、鈴ちゃんと一緒に役割分担を説明する事だ。  10時、バイトの学生6人がホワイエに集まった。バイトの中には、この管弦楽団の演奏会のバイトが初めてじゃない奴もいて、そいつらが他の初めてのバイトの学生に詳しく話をしてくれた事もあって、俺と鈴ちゃんは少し安心した。  受付の会場作成、花束贈り物受付台設置。当日券販売のマニュアル。プログラムの手配。11時になると、大きな花束が3つ届いた。連想会終了後、ステージ上で指揮者、オルガニスト、コンサートマスターに贈る花束だ。  11時15分にはお弁当が「お弁当の店 あぶくま」から届く。団員80名。その他のお手伝い20名、合計100個のお弁当だ。そして、大量のお弁当が届いた。大量だったので、2回に分けて届けられた。大量だった。数えてみると、150個。おかしい・・・。俺は受付の子に相談された。しかし、俺にもわからない。お弁当を注文したのは、団員の誰かで、俺ではない。しかし、お弁当は100個と森川からもらった用紙には書いてある。誰かが2つ食べるわけでもない。俺は誰に相談すれば・・・。  丁度、その時、休憩になった森川がホワイエに俺達の様子を見に来た。鈴ちゃんがお弁当の事を森川に報告する。森川は荒川良仁部長に確認する。 「確かに100個分の料金しか、払っていないそうだ」 「食べちゃおうか?」 「だめだ三田村。50人がお弁当を待っている。食べ物の恨みは怖い」 森川はお弁当を受け取ったバイトの子を探した。 「松川春菜さん。お弁当を受け取ったのは君かい?」 「そうです」 「何と言って受け取った?」 「1回目は『管弦楽団の方』と言われました」 「2回目は?」 「2回目は『サマーコンサートですね』と言われました」 また、森川は髪の毛をいじり考える。森川は考える時、髪の毛をいじるのが癖だ。 「2階に行ってくる」 森川はホワイエを出た。俺もその後を追う。2階の小ホールでは、「福島短大ハンドベルサマーコンサート 第4回定期演奏会」の看板が出ていた。 「私、今日、大ホールで演奏会をする二本松大学管弦楽団の森川と言います。本日、お弁当を依頼していますか?」 受付にいた女の人は頷いた。 「何個、注文されました?」 「50個です」 「どこに注文しました?」 「『お弁当の店 あぶくま』ですが、まだ、来ないのです」 森川は事情を話し、何人かを連れて1階に戻ってきた。そして、お弁当50個を渡した。 「食べなくて、良かったな」 森川はそう言うと練習に戻っていった。  俺や鈴ちゃん、それに受付のバイト6名は、その後すぐお弁当を食べた。開場してしまうと、受付やドアの開閉、入場券の販売、観客の誘導、駐車場の指示、パンフレットの配布、花束や贈り物の預かり、お客の対応など団員が昼食を食べている時こそ、働かなくてはいけないからだ。そして、俺はリハーサルが終わるのを待った。  練習が終了すると、団員が昼食のため解散する前に、指揮者の場所に行って、今日の日程や服装の確認をした。そして、終了した後の移動の仕方まで、昨年、森川に習った通りに話をした。俺の話が終わると、観客席とステージ袖に忘れ物がないように話した。 「解散」 部長が全体に声を掛ける。 「まずはご苦労さん」 前にいた森川が囁いてくれた。  まあ、森川は、こんなで御礼を言う人間ではないので、その囁きが嬉しかった。ステージマネージャーとして、この俺を認めてくれたような発言を受け止めた。  開場は、午後1時30分。開演が午後2時。だから、その前に、打楽器や大型楽器を積載するトラックをあらかじめ演奏会を観に来る観客より早めに駐車場に入れる手はずをしておいた。トラックは、時間通り12時に福島市音楽堂裏の駐車場に来たらしく、指示をしておいた水原広志くんは、手際よく駐車スペースに移動させてくれた。  ステージ袖で行うチューニングは、午後1時45分。それまで団員は、控え室で昼食、休憩、最後の個人練習になる。   俺は、バイトの学生がそれらをしっかり行っているか福島市音楽堂の中を見て周り、最後はステージ袖で、観客の入りを見ながらアナウンサーとの打ち合わせになる。  しかし、この日は、そうはいかなかった。  昼食を早めに食べ終わった森川と幸子が俺の所に来た。 「茂樹、ここにあった緑色のバイオリンケース、知らない?」 幸子に肩をつつかれ、そう聞かれた。  つまり、幸子の言うバイオリンケースは、幸子のバイオリンケースではなく、控えのバイオリンが入ったケースの事だ。  管弦楽の演奏会で一番多い楽器は、バイオリンだ。そして、バイオリンは弦楽器。弦が4本、張ってある。一番音の高い弦は、「ミ」の音。つまり、ト音記号の一番上の音になる。従って、その弦の細さは、グランドピアノの一番音の高いピアノ線と同じくらいだ。その線を「E線」とか「一番線」とか呼ぶらしい。  森川に言わせると、毎日、楽器を演奏するプロは、1週間から1ヶ月で、4本の弦を張り替えるらしい。それぞれが伸びてしまったり、錆びる事もあるからだ。しかし、アマチュア、それも大学の学生は、そんなお金はない。従って、1年間も弦を変えない学生も、沢山いる。  それで、演奏会本番で、力が入ってしまって、演奏途中に、その一番音の高く、細い「E線」を切ってしまう人間が、たまにいるらしい。  そんな時は、演奏途中に切ったバイオリンを持っている人が、後の人とバイオリンを交換し、それをバトンのようにして、最後尾の人に渡して、最後尾の人が、そっとステージ袖に戻る。そして、そこに準備してある控えのバイオリンと交換して、また、演奏途中にステージ袖に戻って、演奏する。その控えのバイオリンを準備する事は、コンサートマスターの仕事なのだ。だから、幸子が演奏会のコンサートミストレスの時には、必ず、バイオリンを2つ持って行く。自分の演奏用のと、控えのバイオリンを。  俺は、幸子にそう尋ねられて、記憶を探った。 「リハーサルの時には、そこのステージ袖の椅子に、控えバイオリンのケースがおいてあった」 「リハーサルのいつまで、バイオリンがあった事を覚えている?」 「すまん。覚えていない」 「三田村、悪いが、緊急館内放送を入れて、10分後に、管弦楽団員全員をこのステージに集めてくれ」 森川は、少し左手で眼鏡を直しながら、俺に注文した。俺は、アナウンサーの学生に依頼して、森川の話を伝えた。  10分後、ステージの上には、二本松大学管弦楽団の全員が集合していた。いつも管弦楽団の世話をしている森川の依頼なので、誰も文句は言えないのだ。 「忙しい所、申し訳ないのですが、ステージ袖にリハーサルの時まであった控えのバイオリンとその緑色のケースが、紛失してしまいました。誰か知りませんか?」  全員がざわめきだした。しかし、その在処を知る人間はいなかった。すると、コンサートミストレスの幸子がお願いした。 「バイオリンの誰もが弦を切って、そのバイオリンのお世話になる可能性があります。ここは、時間を取って、全員で捜してくれませんか?」 「まず、控え室の自分の楽器のケースの周囲を捜して下さい」 森川もお願いした。  その後、パート毎に、福島市音楽堂の捜す場所を的確に指示した。すでに、森川の頭の中には、捜索のプログラムが出来ていた。この福島市音楽堂は、駐車場が狭い。なので、楽器もトラックで運んでくるし、出演する団員も、全員、車で来る事は禁止になっているので、自分の車にバイオリンを持って行く事はない。だから、森川は、福島市音楽堂の内部に、捜索の場所を集中させたのだ。それでも一応、会場の外のゴミ箱やベンチの下まで指示を出していた。 「報告は、各パートリーダーがこのステージに来て下さい。その後は、各自の休憩をします。午後1時を捜索の最終時間にします。それで見つからなかったら、本番、バイオリンの誰もが弦を切らない事を祈りましょう」 森川の指示は的確だ。 「解散」 荒川部長のかけ声と共に、全員が少し駆け足で、それぞれの控え室に散って行った。ステージの上には、俺と森川と幸子だけが残った。  森川はステージの後にあるパイプオルガンを見つめていた。 「開場時間を少し遅らせて、もう少し、バイオリンを捜索する時間を増やしたらどうだ?」 「三田村、諦めが肝心な時もあるんだよ。こんなに全員で捜してない時は・・・」 「森川らしいな・・・」  ステージには、それぞれのパートリーダーが報告に来た。最後のパートリーダーが報告に来たのは、午後1時より大分早い時間だった。 「弦が切れない事を祈ろう」 森川はそう呟いて、演奏する自分の椅子に座って、ホールの中を見渡していた。 「森川、大丈夫か?」 「あと、20分、ここで考えさせてくれ。それが過ぎたら、時間通りに、1時30分に開場して、お客さんを、会場に入れよう」 森川は髪の毛をいじりながら、会場内を見渡していた。    20分はあっという間に過ぎた。森川は、諦めたように席を立って、観客席に降りていった。俺は、心配で、森川の後をついていった。森川は、そのまま観客席から、ホワイエを通り、受付のドアを開けて、すでに並んでいるお客さんの横を通って、福島市音楽堂の正面玄関に向かって行った。そして、森川は、そのまま福島市音楽堂の外に出てしまった。 「森川。先程、この音楽堂の外のゴミ箱からベンチの下まで捜させたじゃないか」 「そうだな・・・」 森川は、音楽堂の周囲を歩き始めた。 「色々、考えた結果だ」 森川は、そう話すと、福島市音楽堂裏の駐車場に向かって行った。森川が止まったのは、演奏会終了後に楽器を積載するために待機していたトラックの前だった。そのトラックの運転手は、エンジンをかけたまま、運転席で弁当を食べていた。 「すみません。こちらにいらない楽器とか言って、誰か何か持って来ていませんか?」 森川は、運転席にいる人間に、窓を開けさせて、尋ねてみた。すると、運転手は、食べていた弁当を自分の膝の上に置いた。 「これかい?」 トラックの運転席の助手席に置いてあった緑色のバイオリンのケースを森川に見せた。 「そうです」 森川に笑顔が戻った。 「バイドだっていう学生が、演奏しない楽器のようだから、涼しい場所に置いてくれって、言って預かったんだ。それで、この運転席でクーラーをつけて、ここに置いておいたけど、演奏会にこの楽器、使用するのかい?」 「はい。とても、大事なパートなんです」 森川は、運転手に御礼を言うと、その緑色のバイオリンのケースを開け、中にバイオリンが入っている事を確かめ、元来た道を戻って行った。 「三田村のステージマネージャーとして、バイト学生に対するしつけは、ちきんとしているな・・・」 森川は、嫌みな言葉を含まず、素直に俺に話した。 「つまり、『いらない物は、きちんと片づけろ』と、『楽器は涼しい場所で保管』の2つさ」 俺は、森川に謝るほかなかった。 「三田村の責任でも、この楽器をトラックに持って行ったバイトの学生の責任でもないさ。私の管理や注意が甘かったのさ」 「でも、よくトラックにあると推理したな」 「推理じゃないよ。『音楽堂の中』という範囲の設定を、『音楽堂の敷地内』という範囲の設定に変更して、捜索した場所を除去して行ったら、あのトラックが残ったのさ」 「不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる」 俺は昨日、森川が話していた言葉を思い出した。  そして、二本松大学管弦楽部のサマーコンサートが始まった。入場者も多く、もう少しで満席だ。俺はステージ横で聞いていた。  前半の部が半分くらい過ぎた頃だった。受付にいた水原広志さんが慌てて俺の所に来た。 「この後、花束贈呈を行う3人のうちの1人、青木望美さんが見あたらないのです」  俺は、控室を鈴ちゃんに任せて、受付の人のいるホワイエに向かった。受付の人達も慌てていた。既に入場者もいなくなり、暇そうだった。 「始まる時はいたのですが・・・」 「青木さんは、連絡なしにいなくなる人ではありません」 「観客席で聞いているとか・・・」 「でも、演奏が始まってからも、この受付でチケットもぎりをしていました」  俺はステージマネージャーという仕事を気安く引き受けたが、とても大変だったという事に気がつき始めていた。  俺たちは、バイト総動員で、控え室や練習室、トイレ、そして、福島市音楽堂の外まで探した。しかし、青木望美さんは見つからなかった。  すると、前半が終わった森川が黒服の姿でホワイエに来た。 「鈴に聞いたんだが・・・」 「全員で探したが、見つからない」 俺は探した場所を森川に告げた。そのうち、幸子と鈴ちゃんもホワイエに来てくれた。 「トイレは全部、探したか?」 バイトの女の子、松川春菜さんと御山美須々さんが捜索していた。 「いませんでした」 「どこのトイレを探した?」 「このホワイエにあるトイレと事務室前、それに大ホール裏の練習室の所です」 「パイプオルガン練習室前は?」 「そんな場所にトイレがあるのですか?」 「あまり知られていないけどね。あるんだ」 俺と森川、それに幸子に鈴の4人でそのトイレに向かった。女子トイレには幸子を鈴ちゃんが入って行った。 「茂樹、来て」 「どうやら見つかったらしいな、三田村」 俺と森川は女子トイレに入る。休憩中だったが、大ホールから遠くにあるトイレには誰もいなかった。ただ、1つのドアが閉じ、その前に幸子と鈴ちゃんが待っていた。 「ドアが閉まっているけど、反応ないの」 すると、森川がそのドアに上った。 「倒れている。三田村、救急車」 俺は個室に降りる森川を見ながら、事務室に向かって走った。事務室からトイレに来る頃には、閉じていたトイレのドアは開き、ぐったりとした青木望美さんが、森川により救護されていた。 「どうやら、貧血で倒れ、頭を打って、意識をなくしたらしい」  結局、後半の演奏会に出る森川と幸子はそのままステージに向かった。代わりに俺と鈴ちゃん、それに事務室から来てくれた高橋課長と大橋香奈さんが、青木望美さんに付き添って、救急車が来るのを待った。  救急車はすぐ来た。道路を挟んだ迎えに日本赤十字病院があった。青木さんは救急車に乗せられる頃には、意識を戻していたが、大事をとって病院に運んでもらった。そして、演奏会後の花束贈呈は、青木望美さんに代わって、緑川鈴ちゃんにお願いした。 俺にとって大変だったサマーコンサートが終了した。花束贈呈役の鈴ちゃんを代役をしっかり果たせた。会場の撤収も時間より早めに終わった。  現在、午後5時。打ち上げ開始の午後7時には余裕で間に合う時間だ。団員ではない俺だが、ステージマネージャーとして、打ち上げに招待されていた。俺は福島市音楽堂に来た時と同じメンバーを送っていく約束をしていた。  幸子と鈴ちゃんがホワイエにいる俺の所に来た。俺は最後の仕事として、今日、使用した部屋全ての鍵を事務室に返す役目があった。そして、最後の鍵を森川が持ってきた。楽屋の鍵だ。 「鈴、幸子さん、ここで少し待っていて・・・」 森川は事務室の前で2人を待たせた。 「本来なら、団長が来るんだが、用事があって俺が来た。三田村、事務室に付き合ってくれ・・・」 「それが最後の仕事だ」 俺は鍵束の入ったケースを持って、森川の後をついて行く。  事務室に入ると、俺は高橋課長に鍵を返却した。森川は近くにいた大橋香奈さんに寄っていく。 「少し話があるのですが、事務室の外に出られますか?」 大橋さんは突然の事で驚いたようだった。そして、高橋課長に許可をもらうように見つめた。 「いいよ」 高橋課長は、森川の事を昔から知っているようで、すんなり許可した。 「何でしょうか?」 事務室の外の廊下で大橋さんは森川に話しかえる。遠くて、幸子と鈴ちゃんが見守る。 「もし、間違っていたらごめんなさい」 森川は前置きをする。 「昨日から、大橋さんの事が気になって・・・」 告白かい。それも年上に・・・。お前の彼女が後にいるだろう・・・。  大橋さんが困った顔をしている。 「大橋さん、自宅が大変な事になっていませんか?」 森川のその一言で、彼女はその場に崩れ落ちた。すかさず、幸子と鈴ちゃんが大橋さんを助けに入る。 「優、何を話したの?」 鈴ちゃんが怒る。 「大丈夫です。私が悪いので・・・」 「やはり、何かありましたか?」 「あまり、関わらないで下さい」 「でも、おばあさんが人質にされているのでしょう・・・」 その言葉に驚いたのは、大橋さんだけではなかった。幸子も鈴ちゃんも俺も、森川の顔を見つめた。お前、冗談は・・・。でも、森川の顔を真剣だ。冗談じゃなさそうだ。 「先ほど、知り合いの警察に連絡しました。そろそろ、結果が来る頃です」 丁度その時、事務室から高橋課長が出てきた。 「森川さん、今、福島北警察署の戸澤警部補から連絡があって、全て終わったと伝えてくれと・・・」 森川は高橋課長に手を振る。 「無事、おばあさんが強盗犯から解放されたようです」 「本当ですか?」 「今、連絡があったと聞きましたよね」 「はい」 「自宅に連絡してみてください」 大橋さんは、涙を拭くと、携帯で電話をした。そして、おばあさんと話が済むと、森川の方を見た。 「ありがとうございます。宅配業者に変装した警官が、家で祖母を人質にしていた犯人を捕らえてそうです。祖母も無事だと・・・。私、家に帰ります」 大橋さんはそのまま事務室に急いで戻っていった。狐につままれたのは、残った幸子と鈴ちゃんと俺だった。  福島市音楽堂からの帰る車の中で、森川を3人で責めた。 「理由を話すよ」 森川が最初に口を開いた。 「大橋香奈さんの自宅は、私の家から100メートルくらいの所にある一軒家なんだ。彼女の祖母は茶道の師範で、私は昔、彼女の家でお茶を頂いた事があるんだ。そして、現在、香奈さんはおばあさんと2人暮らしをしている」 いつもの様に森川は淡々と話す。これも、森川の癖。 「まず、大橋香奈さんの様子がおかしいと思ったのは、昨日、福島マンドリン倶楽部の事件の際、お茶をもらった時だ」 俺も大橋さんの入れたお茶を飲んだ。何も感じなかった。 「香奈さんは、祖母から茶道で手ほどきを受けている。しかし、昨日のお茶は薄すぎた。茶道を嗜む香奈さんにしては、おかしいと思った」 俺は何も感じなかった。 「それに、いつもコンタクトなのに、昨日は眼鏡をかけていた。目の病気か、コンタクトの調子が悪いか、一昨日、大変泣いたかだ。そして、昨日、事務室で帰りの挨拶をした時、香奈さんはずっと携帯を見つめながら、事務仕事をしていた。まるで、何かの連絡を待つかのように・・・。  それで、失礼だとは思ったが、携帯の履歴を見た」 「優、それってプライバシー侵害」 「犯罪です」 女子2人が責める。 「履歴は貸し金融業者の名前が並んでした。香奈さんはお金を必要としていた。私は昨日の夜と、今朝早く、香奈さんの家の前を歩いてみた。夜は電気が消え、とても静かだった。朝は明るいのに、ずっとカーテンが閉まっていた。いつもなら、朝早くから香奈さんのおばあさんが洗濯物を干したり、散歩したり元気な姿を見せていたのに・・・。そして、『茶道教室休み』の札が今朝は玄関に出ていた」 「ストーカー?」 「それに、見たことのない県外ナンバーのグレイの車がずっと香奈さんの家の前に停まっていた。私は、香奈さんのおばあさんが重い病気が、人質にされているかどちらかだと思った。  でも、病気なら香奈さんが福島市音楽堂の事務を休んで、おばあさんを看護するはずだと思った。香奈さんの両親が相次いで病気で一昨年、亡くなった時、香奈さんは仕事を休んで、看護していたからね」 俺たち3人は無口になった。 「今朝、福島北警察署の戸澤警部補に頼んで、香奈さんの家の外にあった車のナンバーを照会してもらった。そうしたら、盗難車だった。午後から戸澤警部補に動いてもらった。そして、先ほど、香奈さんの自宅でおばあさんを縛って、香奈さんにお金を要求していた3人組を逮捕してもらったのさ。  香奈さんは、貸し金融業者からお金を借りるよう、強要されていたらしい。それで、仕事もままならないままだったんだ」 俺たち3人は、森川の行動を理解した。そして、森川の家で2人を降ろした。 「2日間、大変だったな、ステージマネージャー。飲み会で会おう」 森川にしては、褒め言葉だった。俺は幸子と一緒に車を自宅に向けた。 ☆ 「三田村さんと平田さんはその頃からのお付き合いだったのですか?」 「まあね・・・」 「その戸澤警部補って、先ほどラインをよこしたリカ先生のお父さん?」 「ですね」 井上くんの質問が止まらない。俺はあまり質問されないように、井上くんに釘を刺した。 「井上くん、今日は飲みに来たんだ。それ以上、質問すると、もう日本には帰ってこないぞ」 「来ないぞ」 隣りで幸子も同調する。幸子もあまり話したくない事があるのは知っている。 「また、昔話をしてたのか三田村」 森川が疲れた顔をして居酒屋「海の蛍」に入ってきた。 「よう三田村、グアムはどうだい?」 ようやく、昔話から話題がそれそうだ。
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