4.302話 「1枚の名画」

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4.302話 「1枚の名画」

既に、俺、井上浩がこの「ふくしま探偵局」に来てから、1ヶ月が過ぎた。ここ1ヶ月の仕事は、今までの俺の人生の中で一番ハードなものだった。それは心身共に・・・。  2020年5月の大型連休もゆっくり休めなかった。世間では、外出を控えたり、家から外に出なかったりしている状況だ。でも、「ふくしま探偵局」は、コロナ禍には関係ないようだ。仕事の代休は、いつでも休んで良いという事だった。まあ、何も予定のない俺にとって、休日を頂く代わりにお金をもらった方がいいけど・・・。  しかし、いつ事務所に来ても、第3課の他3人と大木局長にしか会う事がなかった。他の課の人間は存在するのだろうか?と思った時もあった。  5月13日、水曜日。第2課の机は4つ。たまに、コンピュータが立ち上がっていたり、机の上が散乱していたりしている事から、誰かが所属しているらしいが、まだ会った事はない。 「ここの人達は?」 「今、3階の会議室でお客様と話し合い」 受付にいる菅野梢さんがにこやかに話してくれる。  この建物の3階は「ふくしま探偵局」の会議室。俺も何回か3階に行った。2階からの階段を上ると、ドアがある。ドアを開けると、301号室。その隣が302号室、303号室、304号室と会議室が4つある。2階の局長室の真上が305号室。少し大きな会議室。でも、305号室はあまり使用される事はないと片平月美さんが話していた。 「会議室という名の宿泊室」 何かあった時、その405号室に泊まることが出来るらしい。また、相談に来た人が自宅に帰る事が嫌で宿泊していったり、夫の暴力から逃げてきた女性が宿泊、避難した事もあるそうだ。 「井上くんは、ポテトハウスが近いから、405号室に泊まる事はなさそうね」 先崎春美さんは、笑っていた。  しかしだ。第1課の机4つは不思議だ。まあ、その窓際一番手前には受付の菅野梢さんが、事務処理をしている机なので、残りの机は3つ。でも、俺が来た1ヶ月前と状態が同じ。 「潜入捜査が長引いているの」 大木展子局長がそんな話をしていた。 「東鳴子温泉の『みどり屋』の女将、青山櫻さんからメールがあったんだ」 森川優さんが、片平さんに話しているのが聞こえた。 「休暇をもらって、行こうとか思うんだ」 「私も一緒に休暇、もらっちゃおうかな・・・」 青山櫻・・・俺の知らない名前だ。 「森川先生、元気?」 事務室の2番目のドアが開き、とても若い女の子が入ってきた。手にファイルを持っている。そして、可愛い。 「愛子さん、こちらは4月からここに勤めている井上浩くんだ」 俺が手を伸ばす。 「岡崎愛子、24歳です。ヨロシク」 俺の手を握ってきた。マスクはしているが、やはり、可愛い。 「ちょっと忘れ物・・・」 岡崎さんは、そういうと風のように事務室を出て行った。 「井上くん、ごめんね。第2課の彼女、ちょっとそそっかしいの」 「森川先生の教え子。二本松大学音楽科の出身さ」 また、森川さん関係の人物だ。 「みなさん、ちょっと来て」 今度は大木局長が第3課、俺達4人を呼ぶ。 「はい」 飲んでいたコーヒーカップを持ったまま、森川さんを先頭に局長室に入っていく。  4人で局長室のソファに座る。すると、目の前の机に手紙が置いてあった。 宛名は「ふくしま探偵局」。下に「検」の朱印が押してあった。つまり、この封筒は指紋、細菌などの検閲は済んでいるという朱印だ。「ふくしま探偵局」に来る封筒はとても多いと聞いている。その1つ1つを誰がいつ検査しているかは、この俺にはまだ分からなかった。いや、知りたくもない。そして、森川さんが封筒を裏返す。 「大崎市立鳴子美術館長 久保田邦彦」と書いてあった。 森川さんが、中の封筒を取り出して机の上に置く。 「拝啓 ふくしま探偵局 御中」 書き出しはそう書いてあった。 「突然もお手紙、失礼いたします。『ふくしま探偵局』というものが存在し、表沙汰に出来ないような事件を調査していただけると、ある方からお聞きしました。そこで、今回、思い切ってこの手紙を出しました。  私は現在、宮城県の大崎市にある鳴子美術館の館長を任せられております。  ところで、『早良草信』という画家をご存じでしょうか?この宮城県に生まれた天才画家です。しかし、今から5年前、自分の才能に苦悩し、若くして自害してしまった方です。享年30歳。ですから、彼の描いた絵画も、そう沢山ありません。  しかし、最近、世間が『早良草信』の絵画を評価し始めました。彼の残していた絵画が高値で取引されています。先を見込んで1枚数千万円で取引する企業も出てきました。  その30年の生涯に残された絵画は大小合わせても60点に満ちません。また、彼の作品は全て、記録されていて展覧会に出品された絵画を含めて、全て国内に保存されています。  ところが最近、その『早良草信』の描いたと思われる1枚の絵画が発見されたのです。今年の2月、宮城県の鳴子温泉からです。『早良草信』が東鳴子温泉やその周囲に宿泊されていたという記録、つまり宿帳も発見され、その温泉宿に泊まっていた時に描いて、その温泉宿に寄贈されたらしいのです。  2月に発見されたのは東鳴子温泉の『谷口ホテル』です。2月から4月にかけてその絵を鑑定してのは、私ども鳴子美術館の鑑定人、水木定男です。彼もこの道のプロで、今まで『早良草信』の作品も何点か見ています。  ご存じのように東鳴子温泉は大崎市にあります。そこで、『谷口ホテル』の主人である谷口実氏が、絵の大切さ、絵の保存のために、この『早良草信』の絵を私ども大崎市立鳴子美術館に売却したいと話をしてきました。私どもとしては、将来性も話題性もある『早良草信』さんの絵ですから、大崎市立鳴子美術館の目玉として是非、展示したいと願っております。  ここで問題となるのがその金額です。谷口実氏は鑑定料を含め、膨大な金額を提示しているのです。そして、私ども大崎市立鳴子美術館が断れば、他の美術館に売却するとも話てきました。  私どもといたしましては、地元の天才画家の作品ですし、地元から発見された作品ですので、是非、大崎市立鳴子美術館で展示したいのです。  私ども大崎市立鳴子美術館の鑑定人が鑑定した絵画ですから、間違いはないと確信しております。ですが、何とぞもう一度、『ふくしま探偵局』で調査して頂くわけにはいきませんでしょうか?  そんなわけで、お手紙を出しました。どうぞよろしくお願いいたします  追伸:現在、コロナウイルス拡散防止のため、休館しております。 5月 吉日 大崎市立鳴子美術館長 久保田 邦彦」  中には館長の名刺が一緒に入っていた。 「『みどり屋』の青山櫻さんの紹介だろう」 森川さんが先程話していた人の名前を出す。俺が不思議そうな顔をしていたからか、片平さんが俺の顔を見る。 「井上くんが、不思議がっているわ」 「そうそう、井上くん。東鳴子温泉にお世話になっている宿があるんだ。10年来の付き合いになる。そこの女将からも同じようなメールがきていたから・・・」 まあ、よく分からないが、この「ふくしま探偵局」は、大企業だけでなく知り合いからの調査依頼でも引き受けるという事がわかった。 「それじゃ、後は上で話してくれる。これからお客様が来るから・・・。301号室は使っているから、303号室で・・・」 「わかりました」 「明日の午前中に訪問すると・・・」 森川さんは、大木局長に明日の訪問時間を告げた。お客との交渉は、ほとんど大木局長が行う。これもこの「ふくしま探偵局」のルール。 俺たち4人は書類やコーヒーカップを持って局長室を出た。 「303号室に行ってくる」 森川さんの言葉に受け付けの梢さんが反応し、303号室の鍵を渡してくれた。俺はみんなのコーヒーカップをお盆に載せ、筆記用具を小脇に挟んだ。会議がある時、俺はみんなのコーヒーカップを持って行く係になっていた。  事務室を出て、廊下を通り、受付前のドアを開ける。幸い受け付け前の椅子には誰も座っていない。階段を上る。3階に入ると廊下を通る。301号室の前のドアの上には、赤いランプがついている。誰かが使用している証拠だ。たぶん第2課だろう。303号室のドアはすでに先崎さんが鍵を開けていた。中は、そう警察署の取調室みたいだ。いつ来てもそう感じる。取調室と違うのは自由に出入りできるくらい。  中には大きな机が2つ面と対してる。それに椅子がそれぞれ2つ。入口と反対側には大きな鏡がついている。しかし、その鏡は裏から見ると、マジックミラーになっていて、305号室から細い通路が全ての会議室に延びていて、その通路から、全ての会議室が見えるらしいと聞いた。今時、各部屋にカメラを仕込んだ方が楽だと思うが、そこが「ふくしま探偵局」らしいやり方だ。また、湯沸かし器もあるので、お茶には不自由しない。なんせ、第3課、はお茶やコーヒーにはうるさい。  俺たちが座ると、どこからか森川さんが『早良草信』のプロフィールの書いた用紙を3人に渡した。 「明日、14日、木曜日、午前9時、出発。車は私と春美先生の2台。私と月美先生が美術雑誌記者。井上くんがカメラマン。春美先生は車で待機。宿泊は一応2泊の準備。宿泊は『みどり屋』で。それぞれに準備をして下さい」 既に森川さんは、予定を決めていたらしい。 「何か用意しておく事は?」 「『早良草信』について尋ねられたら何でも答えられるように、その紙を熟読しておいてくれ」 俺は手元の用紙を見た。 「早良草信 1984年宮城県生まれ。高校生の時、「阿武隈の春」でデビュー。  東京美大に入学後。「鬼首」、「日の出~松島」、「ダムに落ちる夕日」など故郷を描いた風景画、「或女」、「続、或る女」、「鏡の女」などの人物画でも才能を現す。  大学を卒業後、「空白の1年」と言われる1年間に各地で放浪。その後「仙台の街」で復活。東日本震災後は、気仙沼、南三陸、石巻、女川を回り、復興する姿を作品に残す。 2014年。栗原山中にて自害。作品を伸び悩む遺書あり。 作品総覧別紙」  裏には何枚かの絵が載っていた。どれも個性的というか・・・。俺には描けないような絵だと思った。  5月14日、木曜日。俺は先崎さんの車の助手席に乗った。先崎さんは森川さんの車の後をついていく。国道13号線から福島飯坂インターチェンジを経由し、東北高速道路に乗る。俺は、朝、森川さんから手渡された名刺を見る。 「雑誌 福島美術 編集部 井上 浩」 いつも森川さんは用意周到だ。住所も電話番号も書いてある。 「この電話番号に電話されたらどうするんですか?」 「梢さんが電話で対応してくれるわ。だから大丈夫」 「この住所は?」 「大木先生の沢山あるお父さんの会社。ネットで検索されても大丈夫なように先週からいろいろサイトを作ったらしいから・・・」 さすが「ふくしま探偵局」。完璧だった。 古川インターチェンジを経由し、国道47号線を北上する。周りの風景があっという間に田園風景に変わる。そして、15分も経たないうちに田園風景の中に3階建ての白亜の建物が見えた。 「あれね」 前の車に続いて、先崎さんが駐車場に車を入れた。俺はカメラを持って、外に出た。先崎さんが手を振る。 「閉館中だけど、車があるね。大手ゼネコンが建物だけを税金で作ったっていう所だね」 森川さんが批評する。  3人で美術館の入口に入っていく。周囲の風景とは違い、美術館の中は宮殿のようだった。森川さんは名刺を取り出すと、受付のマスクをした女の人に話しかけていた。女の子の胸には「岡崎」と名前が書いてあった。すると、岡崎さんは私達を案内してくれた。 「どうやら、話は通っているようだね」 森川さんを先頭に「館長室」と書いてある部屋に入っていく。館長室の横には、「5月16日、土曜日。早逝した天才画家 早良草信 最後の1枚 発表会」という看板が置いてあった。発表会は明後日だ。  館長室に入るとマスクをした男の人が2人、話していた。俺は森川さんに「常に観察すること」と言われていた。椅子に座っている男は、痩せていて銀縁の眼鏡をかけていた。しかし、頬が少し痩け、やつれていた。髪は短め、背広はセールで買ったような安物。袖口が少しほつれていた。靴は革靴だが、つま先がはげていた。  逆に立っている男。まず、巨漢。はじけそうな顔に金縁の眼鏡。スーツも大きめ。特注で日本製ではない良い物。靴は茶色の皮性。そして、ハゲ。  森川さんが名刺を手渡す。片平さんも習う。もちろん、俺も。すると、2人もそれぞれ名刺を渡した。 「福島美術という雑誌の編集をしている森川と片平です」 2人が頭を下げる。 「そして、カメラマンの井上です」 俺も頭を下げる。 「私がこの大崎市立鳴子美術館の館長、久保田邦彦です。『福島美術』の雑誌はいつも拝見しています」 椅子に座っていた男が館長か。つまり依頼人。でも、「福島美術」って雑誌、あったのか? 「私がこの大崎市立鳴子美術館の一応、鑑定係をしている日本美術協会会員の水木定男です」 私達は館長に促され、椅子に座った。座り心地がいい。  そうそう、俺の仕事を忘れていた。俺は立ち上がった。 「会談の写真を撮影します」 カメラを見せた。  最初は何気ない話から始まった。森川さんの話し方はいつもよりゆっくりめ。 「あの早逝した早良草信氏の描いた絵が見つかったと聞いて、今日は伺いました」 ようやく本題に入る。 「それに関しては、明日、5月15日、午後1時より報道関係者のみに公開する予定です。コロナウイルス拡散防止のためもあります・・・」 水木定男さんが館長の話に入ってくる。 「水木くん、こうして1日早く来てくれたのだから・・・」 「いいえ、報道は公正でないといけません。待ちますよ」 森川さんが話を落ち着かせる。 「私達も来館してよろしいでしょうか?」 「もちろんです。明後日、5月16日、土曜日に一般公開の予定です」 「でも、早良草信氏の作品は、全て発見されているというのが、この世界の定説だと思いますが・・・」 「あなたもこの世界の人間なら、『早良草信の空白時代』というのを知っているでしょう」 「彼が東京の美大を卒業した後、将来に不安を持ち、1年間、姿をくらましたという時期ですよね。美大時代からすでに名作を発表していたのに・・・」 「その『空白時代』に実はこの鳴子温泉を中心に松島、湯浜にかけて、つまり宮城県北部の温泉を転々としていたようなのです。その証拠も東鳴子温泉の『谷口ホテル』の宿帳に載っていました。  そしてその『空白時代』の1年間、1枚も絵を描いていないと言われていましたが、世話になった『谷口ホテル』に『鳴子峡の夕暮れ』という1枚を寄贈していたようです。昨年2月、『谷口ホテル』からその話がありました。私が当館の鑑定をしていたので、2ヶ月かけて調査しました。本物の早良草信氏の作品とわかり、今回、このような記者会見を計画しています。  非常事態宣言が明日に終了する予定ですので、その後に、日本各地にある早良草信氏の他の作品を借りて、展示しようと思っています」 水木さんの口は滑らかだ。 「他にも彼の作品が発見される可能性があります。この鳴子の地から・・・」 彼は自信たっぷりに話す。 「もし、その新しく見つかった絵を買い取るとしたら、いくらになるのですか?」 「あなたもぶしつけな質問をする方ですね。この業界、そのような言い方はルールに反する」 「失礼」 「早良草信氏はこれからもっと注目度が増していく日本屈指の天才画家です。海外でも彼の画集は出すと売り切れになる程だ。そこから考えると、一千万はくだらないと思いますが・・・。  それに、早良草信氏はすでに亡くなっている。もう、世の中に作品を出すことは出来ない。高値になる事は間違いないでしょう」 水木さんは力が入っていた。  すると、森川さんから俺に合図が来た。 「お二人が並んでいる写真を撮影したいのですが」 森川さんと片平さんが立ち上がり、代わりにその場所に久保田さんと水木さんが座った。俺は適当に写真を何枚か撮影した。 「明日はいらっしゃるのですか?」 「はい」 「では、午後1時に伺います」 俺たち3人は適当に挨拶をし、館長室を出た。 「美術館というより博物館に近いね」 無人の館内を見回した。森川さんの意見と同意見だった。  入口で岡崎さんが見送ってくれた。3人で大崎市立鳴子美術館を出ると、駐車場で先崎さんが待っていた。 「何かあった?」 森川さんが問いかける。 「別に何もないわ。普通の建物。工事の記録も普通。館長は大崎市役所課長の天下り先。職員にもなにもなし」 先崎さんは、持ってきたコンピュータで、調査していたらしい。 「お昼でも食べに行こうか・・・」 2台の車で駐車場を出た。館長室から水木さんがずっと覗いているのが見えた。  近くの定食屋さんに入った。食べ終わる頃、森川さんのスマホが鳴った。 「大木先生からだ。先ほど、大崎市立鳴子美術館の水木さんから、俺たち3人の身元確認の電話が来たそうだ。とても警戒しているらしい」 「こちらの身元を探るなんて、彼の方が怪しいわ」 片平さんが微笑んでいる。  俺たちは今晩、宿泊する宿に向かった。47号線を北上し、東鳴子温泉に入っていく。そして、脇道の羽後街道の温泉街を通り、温泉街が終わろうとした所に「みどり屋」があった。  「みどり屋」は純和風な外見。森川さんが言うには、東鳴子の宿は全て違う重曹泉を持つ、日本にあまりない温泉地帯だそうで、他の旅館の温泉に入って、比べるのもいいらしい。ちなみにこの「みどり屋」は「美肌の湯」。2人のお嬢様が期待していた。お湯は薄い紅茶色らしい。  4階建てだが、そんなに大きくない建物が気に入った。旅館の隣りに小さな駐車場に2台駐めた。車を降りるとすぐ、女将らしき人が近付いてきた。 「お久しぶりです。森川先生、片平先生」 この人が森川さんの会話に出てきた青山櫻だと感じた。 「それに、先崎先生ですね」 「はじめまして」 「そして、今度『ふくしま探偵局』の探偵さんになった井上さんですね」 「はじめまして」 俺は緊張した。可愛い。それに、大人の色気がする。 「井上くん、固まっているぞ」 森川さんの声で我に返った。 「そして、お悔やみ申し上げます」 「先日は、わざわざ、福島市まで来て頂き、ありがとうございます」 「森川先生の自宅に伺ってみたかったのですよ」 青山櫻さんが森川さんに頭を下げている。何があったんだ・・・。でも、ここは大人になって、本人が話さない限り、森川さんには聞かないようにしていた。  俺たちは「みどり屋」に入ると、2階の和室に通された。もちろん、男女に分かれて。すると、一緒に来た女将の櫻さんが森川さんに大きめの封筒を渡した。 「お願いされていたものです」 「ありがとう」 森川さんは、封筒を受け取った。 「夕食は早めの6時でよろしいですか?」 「お願いします」 「では、後ほど」 そういうと、櫻さんは部屋を出て行った。入れ違いに隣の部屋に行った片平さんと先崎さんが入ってきた。 「どうですか?森川先生」 片平さんが尋ねてきた。 「実はこの件、ここ『みどり屋』の女将、青山櫻さんからの依頼だったんだ。櫻さんと大崎市立鳴子美術館の館長、久保田邦彦さんは久保田さんが市役所に勤めていた頃からの知り合いで、迷っていた久保田さんが櫻さんに相談。櫻さんが私のいる『ふくしま探偵局』に依頼状を出したのさ」 今まで俺の頭の中でモヤモヤしていた事が、分かってきた。 「で、その封筒は?」 「『谷口ホテル』の最近の宿泊状況さ」 「よくそんな物が手に入りましたね」 「片平先生、それは櫻さんの功績さ」 すると、ドアをノックする音が聞こえた。 「どうぞ」 先程出て行ったばかりの女将の櫻さんが日本酒を持って入ってきた。 「これは私からの差し入れです」 「申し訳ないね。あまり気にしないでくれ」 四合瓶2本とコップを4つ、テーブルの上に置くと、そのまま静かに部屋を出て行った。森川さんはすぐ1本目の栓を開けると、4つのコップに注いだ。時計はまだ午後4時。飲むには早い。 「もう、ここから移動しないから・・・」 森川さんは、一番先に飲み始めた。片平さんも先崎さんも後に続く。それを見た俺も・・・。 「もしもし」 森川さんは飲みながらスマホで電話をかけ始めた。 「森川ですが・・・」 「今、東鳴子です」 「はい」 「・・・・そうですか」 「大崎市立鳴子美術館の水木定男です」 「そうですね。明日の午前中」 「いつも急ですみません」 「集合は午後1時ですから、その30分前では?」 「よろしくお願いします」 スマホを置いて、また日本酒を注ぐ。 「今のは?」 「宮城県警の鬼村竜夫警部」 「ああ、あの怖い顔の人ですね」 どうやら片平さんは会ったことがあるらしい・・・。 「水木定男の事ですか?」 「ああ、過去に何かやっていないかを調べてもらっている」 「森川さんは、警察を使うのですか?」 「持ちつ持たれつさ。  そういえば、今回発見された『早良草信』の絵は、新聞紙半分くらいの大きさだそうだ」 「それも、鬼村警部?」 「そう」 「警察は何でも知っているのね」 「そうでもない。知らないことは違う奴に聞くまでさ」 すると、またスマホを持って、電話を始めた。 「もしもし、小林先輩。お久しぶりです。先日はわざわざ福島市までありがとうございました」 「お気を使って頂いて、恐縮です」 「まあ、何とか・・・」 「で?」 「そうですか」 「七瀬も呼んでいます」 「そんな事、ないです」 「ないです!」 「わかりました。報告は後ほど」 「ですね。経費は先日の調査料との差し引きで・・・」 「はい。何かあったら連絡します」 「伝えておきます」 「では・・・」 森川さんは電話で余計な事を話さない。そしてまた日本酒を飲む。 「大学の先輩で、仙台で探偵事務所を開いている小林さんだ」 「あの小林先輩ですか・・・」 先崎さんは知っているようだ。 「今度は何を?」 「『谷口ホテル』の噂と経営者について」 「何かわかったのですか?」 「裏付けがとれた」 「事件解決ですか?」 「最初からこんな事だろうと思っていた」 森川さんは、一体どんな頭をしているんだ!俺は何も分かっていない。 「菊川さんも来るのですか?」 誰だ。菊川って? 「ああ、今、丁度国内にいて、明日の新幹線で来るそうだ」 「誰です?菊川って?」 「森川先生の同級生で、世界を又にかけている芸術家」 「へぇ・・・」 そんな友人は俺にはいない。 「で、『早良草信』の同級生」 「えっ!」 その答えに森川さんを除く3人が驚いた。  日本酒の2本目が開きそうな頃、森川さんと片平さんが部屋を出て行った。 「お線香をあげてくる」 先崎さんに聞いたところ、森川さんが向ったのは、青山櫻さんの亡くなった旦那様の慰霊だそうだ。  森川さんと片平さんは、15分くらいで戻ってきた。その手にはまた日本酒の瓶が握られていた。「また、頂いたよ」 「森川先生が欲しいって・・・」  夕食はとても美味しいかった。 「お肉がないのは、青山櫻さんの森川先生への配慮」 片平さんがそう話していた。そうだ、森川さんはお肉を食べないのだ。  森川さんは、その夜、長い時間温泉に行った。ここ『みどり屋』は沢山の内風呂や露天風呂があるらしい。そして、俺はその夜、片平さんから、青山櫻さんの亡くなった旦那様、青山静馬さんの事件の話を聞いた。  翌日、5月15日、金曜日。朝、起きると森川さんの姿はなかった。午前8時を回る頃、彼は部屋に戻ってきた。 「少し、散歩をね」 何かあったらしい。でも、聞かないのが大人。  今日もここに宿泊するという事で、軽い身支度でお昼前に出発した。12時30分。大崎市立鳴子美術館の駐車場は昨日と違って、この時期なのに満員御礼だった。「早良草信」氏の発見された絵画の価値がこの報道陣の多さで分かった。  美術館の入口を入ると、昨日までは何もなかった玄関ホールにステージが準備されていた。その前に多くの椅子、三脚、そして報道陣が間隔を空けて配列されていた。森川さんと片平さんは椅子に座り、俺はカメラを持って、立っていた。すると、森川さんの横に、派手な服装で帽子を被った男女の2人組が座った。 「優」 女性が森川さんの方を叩く。 「七瀬、久しぶり。先日はありがとう」 「優の奥様のためです」 奥様って誰だ。森川さんは1人で家で生活していると聞いた。 「森川先輩」 「風樹も先日はありがとう」 俺が固まって見ていた。そんな俺に片平さんが近づいてきた。 「女性の方が、昨日話をした菊川七瀬さん。男性の方が弟の菊川風樹くん。2人とも画家」 すると、菊川風樹くんが俺に向かってVサインをしてきた。なんて慣れ慣れしい奴だ。 「風樹はいつ、日本に帰ったんだ?」 「姉貴から今日の話を聞いて、アメリカから飛んで来た。『早良草信』の名前を聞いたら、月からでも来るさ」 「早良草信」の名前は月でも有名らしい。 「だって、『早良草信』くんと言ったら・・・」 そこまで菊川七瀬さんが話すと、森川さんが口に指をあてて、「もう話すな」という合図を送った。七瀬さんは、笑みを浮かべて、静かになった。 「で、弟はいつ帰るの?」 「日曜の便でアメリカに帰るそうよ」 「早いな」 「色々とお墓参りをしたいらしいの・・・。先日だけでは足りないって・・・」 「それはありがたい事で・・・」 森川さんと七瀬さんの話は不思議だ。 「でも、昔から『森川いる所に事件あり』って言うから、これも普通じゃ終われなさそうね」 「なんか、疫病神みたいに私の事を言うね」 「あら、違うの、優?」 森川さんは七瀬さんに頭が上がらないようだった。 「で、今回はどうなの?」 「絵は鑑定済み。鑑定書も作成済み」 「でも・・・」 「今回の目的がね・・・」 「優の事だから、全部、わかっているんでしょ」 森川さんは無言。  そんな時、俺の前に怖い顔した体付きのいい男が立った。たぶん、この人が宮城県警の鬼村警部だ。俺の直感がそう言っている。俺は「警察官」の事は直感でわかる。そんな気がする。名前の通り、怖い顔だ。 「今回もすみません、鬼村警部」 「『森川いる所、事件あり』だから仕方がないさ」 やはり、俺の直感に間違いはない。 「先日は福島市までありがとうございました」 「いえいえ、3年前は何も出来なかったので・・・」 一体「先日」、何があったんだ。  しかし、怖い顔の鬼村警部にまで言われている。「事件あり」と・・・。 「片平先生は知っていますね」 片平さんが軽く会釈する。 「後ろのカメラマンが新しく入った井上くん」 「鬼村です」 握手する手もゴツい。ケンカをしちゃダメなタイプだ。森川さんは鬼村警部と2人で美術館を出て行った。 「ここじゃ話せない内容もあるのよ」 片平さんが説明してくれた。でも森川さんは5分で戻ってきた。鬼村警部の姿は見えない。  辺りがざわつき始めた。久保田館長を始め、水木さんがステージの横に出てきた。 「報道関係者の皆様、お待たせしました。コロナウイルス拡散防止のため、間隔を離してお願いしております。  これから早逝した『早良草信』氏が描いた絵、『鳴子峡の夕暮れ』の発表会を行います」 アナウンスをしている岡崎さんの声が少し震えている。 「その前に、この絵が発見された東鳴子温泉『谷口ホテル』の主人、谷口実さんからお話を伺いたいと思います」 スポットライトが反対側に座っている男に当たる。 「東鳴子温泉『谷口ホテル』の谷口実です。今回、この絵を発見したのは偶然で、ホテルの中に飾ってあった1枚の絵を眺めていたらその下に『早良草信氏より寄贈』を書いてありました。あまり人が通らない所に飾ってあったので、他の人の目に触れることがあまりありませんでした。寄贈された時は私の父が健在の時で、その時の様子は私は全く知りません。父も数年前に他界し、『早良草信』氏も亡くなっていることから、どのような事が2人の間であったかも想像の範囲でしかありません。  ですが、『早良草信』の名前はこの鳴子の人間なら知っております。私も驚きました。  そして、昔の台帳を探し、『早良草信』氏が2006年8月に当ホテルに半月、滞在している事も判明いたしました。これは鳴子の遺産です」 谷口さんは声を奮わせていた。俺は、シャッターを切るのも忘れて、聞いていた。谷口さんは白い手袋して、台帳を報道陣に見せていた。沢山のフラッシュがたかれた。俺も一応、カメラのシャッターを切った。 「次に、この絵の鑑定をして頂いた当美術館の鑑定士、水木定男さんから説明をします」 岡崎さんは大活躍だ。 「私がこの度、大崎市からこの美術館全ての鑑定を依頼されている水木定男です。日本美術協会の会員でもあります」 また、会場から多くのフラッシュがたかれる。 「私はまず、谷口実氏が持っていた宿帳の鑑定をいたしました。今まで私は沢山の『早良草信』氏本人が書いた手紙や字を見てきましたが、それと全く同じ筆跡であり、その台帳が『早良草信』氏本人が書いたことは間違いないと確信を持ちました。  そして、これから御覧いれる彼の絵ですが、『早良草信』氏は30歳という若さで亡くなるまで60数点の作品しかこの世に残しておりません。全ての作品は発見されているというのが美術界の定説でした。しかし、私は今回、彼の描いた20数点以上の作品を実際に見て、彼の絵のタッチ、油絵の具の配合などと今回の『鳴子峡の夕暮れ』の絵のタッチや絵の具の配合から検討し、『鳴子峡の夕暮れ』が、2006年8月にこの鳴子温泉で本人が描いた作品であると確信しました。  今、話題のある『早良草信』氏の作品ですから、この大崎市立鳴子美術館の展示物の1つとなれば、大きな目玉となります。皆さん、是非、非常事態宣言が解除されたら、当美術館に足を運んで、その目で『早良草信』氏の新しい作品を見て欲しいと思います」 水木さんが礼をすると、また会場からフラッシュがたかれた。 「まるで、館長気取りだな」 森川さんがもらすのを聞き取った。 「久保田館長、お披露目をお願いします」 ようやく館長の出番がやってきた。 「では、皆さん、これから作品を披露します。招待状にも記載した通り、フラッシュによる痛みも考えて、各社フラッシュ撮影は2回のみとさせて頂きます。3回を越えた方は訴えられます」 会場から笑いが起こる。 「では、カーテンを開きます」 久保田館長がステージ中央にある作品を覆っているカーテンに手をかける。久保田館長が会場全員を引きつける。そして、カーテンがひかれた。そこには、鳴子峡と思われる緑々として風景画描かれていた。  その瞬間、会場の中の照明が消えた。フラッシュが一斉にたかれる。会場の中がざわつく。俺は森川さんの指示を仰ごうと、前に椅子を見るが、そこには森川さんの姿はもうなかった。俺にはその時間がとても長く感じた。後になって聞くと、せいぜい1分くらいだったらしい。  いきなり美術館の照明が全て回復した。俺はとっさにステージ中央にある作品を見た。まだ、カーテンで覆われている。それを水木さんが支えていた。次に周囲を見回した。片平さんは目の前にいた。入口近くに森川さんと、車で待機していたはずの先崎さんが立っていた。まるで会場から誰も出ないように門番をしているようだった。その後にあの怖い鬼村警部の姿も見えた。  しかし、会場の耳を引きつけたのは、ステージ中央の水木さんの叫び声だった。 「この絵は、俺が見た『早良草信』氏の作品ではない」 フラッシュが一斉にたかれた。 「誰から停電の中、本物と偽物をすり替えたんだ」 水木さんは叫んでいる。  会場は騒然となった。スマホで話し始める者。入口に人間が走り始めていた。しかし、1人だけ悠々としている人がいた。森川さんだ。彼は俺の前の椅子にゆっくり戻ってきた。少し微笑んで・・・。 「宮城県警の鬼村です。皆さん、その場を動かないで・・・」 顔だけでなく、声も恐ろしい。その声は会場内に響き渡っていた。誰もが動きを止めた。 「事件現場の安全を確保します」 警察手帳らしき物を出していた。すると、入口から制服を着た警察官がなだれ込んできた。 「報道関係者は警官の指示に従って、入口から出て下さい」 マスクをしていても、声が大きい。こういう時は便利な人だ。辺りを見回すと、森川さんの隣にいた菊川七瀬さんや風樹くんの姿はなかった。森川さんも会場を出ようとする。もちろん俺も。 「おっと、森川先生。先生にいて頂いた方が心強いのですが・・・」 入口で鬼村警部が俺達を止める。 「鬼村警部。メモに書いた通りです。証拠も渡しましたし、病院の証明書のコピーも渡しました。それに保険会社の契約書もあります。内堀も外堀も埋めてあります。その証拠を見せつければ、この事件は解決です。鬼村警部の手柄になります」 「しかし・・・」 それでも鬼村警部は、森川さんを引き留めようとする。 「私はあまり目立つのが好きじゃない事はご存じですよね。外には多くの報道陣がいますし・・・」 そう、この1ヶ月、森川さんと一緒に活動してわかった事は、彼は目立つのが嫌いだという事。どこに行っても自分の名前や顔を公に出すのを拒む。手柄を自慢しない。でも、それが彼らしい。  後ろでは、水木定男さんが偽物の前でうなだれてる。久保田館長がまだ椅子に座ったまま。谷口実さんの姿は見えない。 「それじゃ、後ほど・・・」 森川さんは鬼村警部の握手すると、入口から出て行った。もちろん、俺も後を追う。  その後、森川さんは1人でどこかに行ってしまった。俺と片平さんと先崎さんは、3人で「みどり屋」に戻ってきた。  そして、午後5時。森川さんが「みどり屋」に戻ってきた。俺は聞きたい事が沢山あって、子供のようにそわそわしていた。 「先程は、一緒にお墓参りに行って頂いて、ありがとうございます」 玄関で青山櫻さんが森川さんに挨拶をしていた。彼の今までの行動が納得できた。それからすぐ、俺と森川さんのいる部屋に、片平さんと先崎さん、そして、日本酒を2本もった鬼村警部が現れた。 「おつまみは私の差し入れです」 着物を着た青山櫻さんがコップと刺身を持ってきた。着物姿の青山櫻さんはとても色っぽい。 「鬼村警部、飲まれますよね」 「いいや、勤務中なので・・・」 もう午後6時を過ぎているのに。そういう鬼村警部に櫻さんは烏龍茶を注いだ。 「でも、よく犯人の計画に気づきましたね」 櫻さんが話を切り出す。森川さんのすでに1杯目の空になったコップに櫻さんが日本酒を注ぐ。 「たまたま、偶然にわかったんですよ」 森川さんのいつもの癖。「たまたま、偶然」が飛び出す。そんな事、あるわけがない。それにしても、赤貝の刺身がうまい。 「井上くん。そんなに醤油をつけると、赤貝の本来の味がわからなくなるぞ」 心の中を読まれているようだ。 「森川先生も、イカを大葉でくるむと、イカの本来の味が・・・」 鬼村警部が牽制してくれる。部屋に6人の笑いが響く。 「実はね。私、あの『早良草信』を知っているのです」 またまた、驚きだ。 「櫻さんからメールが届きましたね。東鳴子温泉の谷口ホテルで『早良草信』の作品が見つかった。それも2006年8月に描いた物らしいと・・・」 「そうですね」 「それも、鳴子峡を描いたらしい作品だと」 「そうです」 「実はその時から私、その作品について、全く信用していませんでした」 「最初から・・・」 「はい。ですから、私は、その作品が本物かどうかより、今回の騒動の真相、動機が知りたくて、ここまで来ました」 「それを早く言ってくれれば・・・」 鬼村警部が愚痴る。 「『早良草信』くんは、彼が東京の美大に通っていた時、今日、大崎市立鳴子美術館で私の隣に座っていた同級生の菊川七瀬と展覧会で知り合いになり、たまに福島市に遊びに来ていました。その時、私と出会いました。大学3年生の時です。その後、『早良草信』くんと菊川七瀬は大学を卒業。私は訳あって、もう1年大学にいました。その4月、菊川七瀬から相談を受けました。『彼がスランプになった』と・・・。その時、彼が立ち寄ったのがこの近くの鳴子温泉。しかし、4月の鳴子峡はまだ雪があり、あの作品のように緑々とした鳴子峡が描ける時期ではありません。彼はこの鳴子温泉に一週間ほど滞在し、私と菊川七瀬と話をしました。  そして、菊川七瀬が早良草信くんにある提案をします。『海外に行ってみては・・・』と」 「海外?」 「そう海外。最初は東アジア。そこからアフリカに渡り。7月にはグアムに行った」 「グアム・・・」 片平さんが何か言いたげ・・・。 「そのグアムで早良草信が事件に巻き込まれたのです」 「事件・・・」 「そう。意識不明の重体に・・・」 「・・・」 「丁度、知り合いの家の近くでスケッチをしていた彼が事件に遭遇した。そして、偶然が重なり、丁度、両親の墓参りでグアムにいた私が『早良草信』くんと判明し、領事館の保護で病院に入院した」 「えっ?」 「森川さんの両親って・・・」 「そう、フィリピンで亡くなりましたが、グアムにお墓があります」 俺は森川さんの事をあまり知らない。話をするたびに驚く事ばかりだ。 「私は、病院に行って彼の看護を手伝い、事件を起こした犯人を捕まえた。そして、9月になって彼は意識を取り戻した。その後、何回か手術して、日本の病院に来たのが、10月。そこからリハビリを始めて、退院したのが次の年になってから・・・。  ですから、あの谷口ホテルの宿帳も偽物」 「なるほどね」 「早良草信くんの『空白の1年』というのはそういう事。本人もその事を公にしていないので、私や菊川七瀬くらいしか真相を知らない。彼の両親も高校生の時に亡くなって、天涯孤独の身だったからね」 「それで、今回の事件ですね」 「彼の偽物の作品が出てきたのが今年2月。もちろん、谷口ホテルの主人、谷口実さんの嘘。しかし、大崎市立鳴子美術館の鑑定士、水木定男さんが、早良草信くんの作品だと鑑定している。偽物を知っているに違いないと思いました。  まず、あれだけの贋作、作るのに1年くらいはかかります。ということは、この計画が練られたのは、約1年前。  また、この2人、何かつながりがあると思い、徹底的に調査しました。しかし、2人の出身地や経歴で接点は全くありませんでした。そこで家族まで調査を伸ばしました。もちろん、調査を行ってくれたのは、仙台市にある小林探偵事務所の小林士郎さんです」 そうか、ここで小林探偵事務所の登場か・・・。森川さんは2本目の日本酒の栓を開ける。 「2人は結婚して、それぞれ子供がいます。谷口実さんには、現在、仙台の専門学校に通っている一人娘の谷口きららさん。そして、水木定さんには、現在、東京の私立大学に通っている一人息子の水木新くん。どちらも2年生。年齢が同じ」 「じゃあ・・・」 「そう、2人共出身高校が古川中央高校」 「知り合いだった」 「知り合いどころか、付き合っていた」 「そこか・・・」 「同じクラスだったそうです。どちらも一人っ子。谷口ホテルとしては、娘に婿をもらって、跡取りにしたい」 「ですね」 「そこで、3年生の10月。進路が決まり始めた頃、2人が何日か一緒に欠席。きららさんが多めに休んだ日が続きます」 「それも、探偵事務所?」 「そう」 「怖いね」 「それで、宮城県内の産婦人科を調べてもらった」 「大変そう」 「仙台市内の産婦人科でした。そこで谷口きららさんは中絶していた。その事で、谷口実さんが水木定男さんに強く出た。水木定男に早良草信くんの偽物を作らせ、多額の保険金をかけ、発表する。出所は谷口ホテル。水井定男の鑑定があれば大崎市立鳴子美術館に多額で売却できる。そして、今日の事件です」 「停電ね」 「色々と考えて、鬼村警部にはお世話になりました。本当に配電盤をショートさせるとは・・・」 「でも、森川先生の読み通りでした」 「でも、谷口実本人が配電盤を切りに来るとは・・・」 「それだけ、せっぱ詰まっていたんでしょう。谷口ホテルの経営状態は最悪でした。  今日、一度作品を報道陣に見せた後、誰からがその作品を交換したようにした。そして、その作品を今度は水木定男が偽物を鑑定する。それで、谷口ホテルにも、大崎市立鳴子美術館にも多額の保険金が入る。鑑定した水木定男の面目も保たれる。あとは証拠」 「そうでした」 「宿帳の偽装。保険金の掛け金が水木定男の口座から入っていたこと。2006年8月、グアムの病院の滞在記録。谷口きららの中絶記録」 「2人はあきらめたようで、弁護士を呼びましたよ」 「本当はもう少し長く停電させたかったようです」 「作品がすり替わる時間が足りませんでしたね」 「事故かもしれないのに、『停電』と叫んだ男もいますね」 鬼村警部は、午後8時前に帰って行った。 「忘れないうちに報告書をまとめないといけないので・・・」 それは、俺たちも同じ事。でも、まだ俺は報告書を作成した事はない。  翌日、5月16日、土曜日。俺たちは青山櫻さんから多大なお土産を頂いて、東鳴子温泉をあとにした。 「宿代も無料だった」 後から森川さんに聞いた。  俺は高速道路の途中、柔らかい日差しの中、いつの間にか眠りについていた。
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