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7.303話 「井の頭公園の事件」
先日、2020年5月、大崎市立鳴子美術館の事件で、森川優さんの存在が報道陣の目にとまってしまったらしい。ある雑誌からその後、この「ふくしま探偵局」に連絡が入った。
「『ふくしま探偵局』の特集をさせてくれ」
もちろん、大木局長は拒否した。
「森川優というのは、二本松大学音楽科にいた森川優准教授か?」
この「ふくしま探偵局」の建物の下で雑誌の記者が張り込んでいた事もあった。しかし、森川さんは、そんな記者を無視した。
しかし、6月の雑誌にこの「ふくしま探偵局」の特集が出てしまった。それだけでなく、「とても詳しい事が『来月の特集号で』記載」とまで載っていた。
そこから、大木財団の力が見せつけられた。大木展子局長のお父さんの大木泰蔵さんがあらゆる力を使って、その出版社に圧力をかけた。編集長が大木財団に謝罪に来たと、後から知った。
「帰った編集長の頭に包帯が巻かれてた」
「救急車が呼ばれた」
色々な話で第3課で盛り上がっていたが、編集長は普通に帰ったらしい。
その大木財団が、この「ふくしま探偵局」のあるビルの目の前、俺が最初に福島に来て間違って入ったビルにあるという事もこの時知った。あの可愛い田中さんという受付がいるビルだった。俺はそれから、大木財団のビルを毎日、気にしてこの「ふくしま探偵局」に来るようになった。
そんな雑誌のたった1回載っただけなのに、6月に大木局長の机の上に来る郵便の数が5倍に増えた。依頼メールの数はそれ以上だったらしい。
「私の仕事だけが増えた」
大木局長は、森川さんに愚痴を言う回数が増えた。しかし、私達に来る仕事は今までも同じに抑えてくれていた。
2020年6月15日、月曜日。森川さんから招集がかかった。
「大木展子先生が断れない仕事らしい・・・」
3階の305号室で第3課の会議が始まった。
「昨日、『父の日』という事で、大木展子先生がお父さんの大木泰蔵さんからお願いされたらしい・・・」
森川さんが机の上に資料を置いた。
「今回の依頼主は、東京中野区にある柿崎商事の会長、柿崎直央さん69歳。大木先生のお父さん、大木泰蔵会長の古い友達だそうだ」
「大変ね、大人は」
片平さんがみんなの飲み物を持ってくる。
「柿崎商事の社員、大沢竜郎、31歳が6月11日、木曜日に自宅から離れた井の頭公園で殺害された。警察が捜査しているらしいが、一向に進まないらしい。4日前の事だ」
俺は最近覚えたコンピュータのネットを繋いだ。
「東京で大手の商事会社、柿崎商事の会社員、大沢竜郎さん31歳が、6月11日の夜、何者かによって殺害されました。現場は、井の頭公園。夜、帰宅途中の人により発見。何かで頭を殴られたのが原因。持っていた名刺から身元が判明。
大沢さんは小金井市に奥さんと2人暮らし。会社は東中野。なぜ大沢さんが帰宅途中、井の頭公園に立ち寄ったのかも含めて、武蔵野警察は捜査している。
大沢竜郎さんは、柿崎商事の東南アジア部門の課長を務めており、8月から海外勤務が予定された矢先の事件だった」
記事はあまり大きくなかった。井の頭公園とか小金井市、東中野と書かれても、宮城県生まれの宮城県育ちの俺にとっては、場所の感覚もない。全部、同じ東京都に思える。俺は画面で地図を広げた。「東中野」を探すだけで、大変だった。
東中野、中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻窪、吉祥寺、三鷹、武蔵境、東小金井、武蔵小金井と通勤。毎日、こんな電車通勤は嫌だな・・・。俺はそう思う。そして、井の頭公園に行くには、途中の吉祥寺で下車か・・・。担当警察署は武蔵野警察。
次に「のりかえ案内」を検索。東中野、武蔵小金井間は、16.3キロ。中央線で25分。まあ、乗り換えがなくて行けるのは、まあまあ。俺は最低限の知識を頭に入れる。
出来る事を事前に行うのが、この職業の鉄則。それが仕事が早く終わるかどうかを左右する。先月、森川さんが話していた内容だ。
「これはうちが扱う事件じゃないね。東京の警察が犯人を捕まえるだろう。日本の警察は優秀だからね。特に殺人となると、警察のメンツをかけて、捜査をするから・・・」
森川さんは、あまりのる気じゃないらしい・・・。でも、報道されている通り、警察が動いている。「すでに、時間から4日が経っている。証拠は全部、警察が抑えているだろう。それに、私達がこの福島から出て行って、解決でもしたら、警察のメンツ丸つぶれだ。警察も面白くないだろうしね・・・」
その通り。でも、森川さんは、大木局長が頼めば「いや」とは言わず、捜査に向かう。そんな優しい人間だ。でも、警察からも嫌がられていない。この数ヶ月、一緒に働いて、そう感じた。やはり彼の人間性か・・・。
「井上くん。資料は机に上においたから、読んでおいてくれ。大木先生からのお願いだ。行く事になるだろう・・・。
一度、宿泊の準備をして、午後集合。13時16分の新幹線に乗れば、午後3時前に東京駅に着ける。一応、2泊の予定で・・・」
「わかりました」
「それに、片平先生と先崎先生は、これから第2課の手伝いに行くから、これは私と井上くん、2人で対処に行くからね」
「えっ・・・」
森川さんと2人の仕事は初めてだった。緊張してしまう。片平さんと先崎さんは、既に第2課から手伝いされている事を知っているようで、俺に手を振った。それにしても、森川さんは既に上りの新幹線の時刻まで決めていた。さすが、行動が早い。俺の上をいっている。
「新幹線のチケット、とっておきます」
菅野梢さんが微笑みながら、305号室を出て行った。
東京駅から新宿。そして、東中野駅まで。俺は東京に疎いので、森川さんを見失わないようについていった。東京の人の多さは、宮城や福島の比にならない。地下鉄もそうだ。毎回毎回、数分の違いで電車が来る。それに、多くの人間が乗っている。どこからこんなに人間が湧いてくるのか。この俺は東京には住めない。
東中野駅のコインロッカーに持ってきた宿泊用の荷物を入れる。これが森川流。仕事先に余計な荷物を持っていかない。足下を見られるそうだ。それに、色々と・・・。
東中野駅の東口を出る。近代的な都市だと思った。高い建物は俺が想像したより少ない。目の前の横断歩道を渡る。
「この下を高速道路が走っている」
東京は高速が地下を走るんだ。驚きだ。
6月の暑い日差しが横断歩道を歩く人を直射していた。来年に延期されたオリンピックを夏にここ東京で開催するなんて、海外から来る選手も大変だ。住んでいる日本人が言うのだから、海外から来る人間はもっと大変だろう。
横断歩道を渡ると、目の前の6階建てのビルに「柿崎商事 海外貿易支部」と書いてあった。という事は、柿崎商事の本社はもっと大きいという事。
1階の自動ドアを入る。冷房が気持ちいい。
「柿崎会長と会う約束をしています。福島から来ました。森川と井上です」
森川さんは名刺を出さない。名刺が邪魔になる時もある。そんな時は関係のない相手には出さない。余計は詮索を他の人間にされてしまうからだ。特に約束をしている時は、名刺を出さない時が多いと森川さんが話していた。
マスクをした受付の女の人は、胸に「村山」と書いてあった。
「どうぞ、5階の応接室です」
エレベータを指さした。
俺は森川さんの後をついていく。受付の村山さんに笑顔を送る。
「会社の中の様子を観察する事も大切。その会社の雰囲気がわかる」
森川さんはよくそんな話をしていた。そして、森川さんは、エレベータに乗り、2階で降り、トイレに行く。そしてまたエレベータで6階のボタンを押す。これも森川流。
会社の雰囲気が分かるのは、1つに社員用出入り口。2つに社員用喫茶室、給湯室。そして3つ目が一番奥のトイレ。だから森川さんは会社の案内のいない時は、指定された階の1つ上の階にいつも行く。そして、その階の一番奥のトイレに入る。別に用はしない。個室を見て、手洗い場のゴミ箱を覗く。そして出てくる。それから1階下に階段で向かう。
「階段も雰囲気がわかるけどね。でも、最近は、階段から中に入れない建物が多くなってね」
森川先生が名探偵と言われる所以だ。苦労なしに名声はついてこない。
「相手に気づかれたら、降りる階を間違えたとか、急にトイレに行きたくなったとか言えばいい。初対面だから、仕方がないと相手も思う。先に色々と知っておくのが戦術的に優位・・・」
最近になって森川さんのやり方がわかってきた。
今日も2階と6階のトイレに行った。
「で、どうでした?」
「まあ、中より上の会社。
玄関にはきちんとフロアマットが敷いてあった。受付の村山さんは、私達が来ても、動揺する事がなく、来る事を知っていたので、すぐ案内できた。きちんとしている。1階や6階にあった社内掲示物も、四隅がしっかり留められていて、きっちりしていた。トイレのゴミ箱の清掃も行き届いている。清掃用具置き場もきちんとしている。上の者がしっかりしている証拠さ」
なるほどね・・・。そう見るのか。勉強になりました。
階段は冷房が効いていないので、暑い。階段を下るのも大変。俺にネクタイは似合わない。森川さんもあまりこの仕事でネクタイはしない。しかし、大木会長の依頼の時は、ネクタイをする事が多い。
「外見が大事な仕事もある」
森川さんは、そんな仕事は嫌がる。
5階に着いた。廊下に出ると、目の前に応接室があった。森川さんがノックする。中から重々しい声がした。
「どうぞ」
中は会議室のようだった。そこに年をとった男が1人、座っていた。すると、机の上にあったマスクをした。
「わざわざ、すみません」
男が立って、挨拶をする。
「福島から来た森川と井上です」
「柿崎です」
促され椅子に座る。簡単な挨拶が手短に終わらせ、仕事の内容に入る。
「うちの大沢が亡くなった事件ですが、今、警察も手詰まりらしい。警察の上層部からの話でも、行き詰まっているという連絡が今朝入った」
さすが、柿崎会長。警察のパイプも太い。
「彼がいる東南アジアの課には10名ほどが働いています。海外の者も含めると、それ以上です。今回の事で警察が介入し、東南アジア部門の機能が止まっています。事情聴取で全員が2回以上警察に呼ばれていますからね」
「武蔵野警察署ですか?」
「そうです。近くの中野警察署ではなく・・・」
「まあ、事件現場の警察署が受け持つから仕方がないですね」
「でも、そのたび、人間がいなくなる。海外為替は待ってはくれませんからね」
どうやら、柿崎会長は、殺人事件より仕事の機能が滞っている事の方に関心があるらしい。
「大沢は東南アジアの担当でした。そちらの多くの関係者と知り合いが多い。その方面にも多大な迷惑をかけている。まあ、後から私が今回の件でお詫びに行くのは仕方がない。
大沢という男は、他にはない目を持っていた。時代の先を読める男だった。もったいない。現地に行って取引先と交渉し、人間を見て、責任者を決めるのが得意だった。いや、得意というより彼が目をつけた人間や商品に間違いはなかった。それだけ、私は彼を買っていた。
この柿崎商事が東南アジアでこれだけ力を付け、支店を多く持ち、これだけ成長しているのは彼の存在があったからだ。京都支店にいた時に、私がここに引き抜いた」
俺もこんな風に言われてみたい。殺されるのは嫌だけど・・・。
「8月にはシンガポールにある東南アジア支店の支店長に抜擢していた。そして、日本に帰ってきたら、海外部門の部長の席を準備する予定だった。そんな矢先・・・」
柿崎会長を目を赤らめていた。大沢さんが亡くなった事が大変なのか、彼がいなくなって会社が大変なのが・・・。
「警察の方は、大沢が異例の出世をするので、それを妬んでの犯行と絞って、我が社の捜索を徹底しています。我が社の名簿を持っていきました。それで、この海外部門の社員が何回も事情聴取に呼ばれています」
「では、その名簿も私達に頂けるとうれしいです」
「もう準備してある」
柿崎会長も仕事が早い。
応接室をノックする音が聞こえ、お茶を持った女の人が入ってきた。彼女もマスクをしている。俺は癖で胸の名札を見る。「中島」さんだ。中島さんが部屋にいる時だけ、応接室が静かになる。俺はこの沈黙が嫌いだ。森川さんはその間、柿崎会長からもらった封筒を開け、中の名簿を確かめていた。
「多くの方が働いていますね」
3人だけになった応接室に森川さんの声が響く。
「1000人は越える。見やすいように、部ごとに名簿を分けておいた」
初夏なのに、お茶が熱い。
「柿崎会長は何が望みですか?」
森川流だ。面倒くさいのが嫌い。質問も直球。
「これだけ科学捜査が発展している現代社会です。防犯カメラはそこら中にある。細かなDNAも分析できる。社員のアリバイ確認も警察の力で何とかなる。電話の記録もわかる。警察が一番先に犯人を見つけると思いますが・・・」
「私もそう思っている。しかし、科学捜査は、人間の心の中まで見抜く事は出来ない。この事件が我が社の内部の人間関係が原因となれば、計画を練って犯行に及んだはず。その封筒の中の人物の半数以上は、常に上に行こうという上昇意識が高い人間だ。人間1人を殺せば、警察がどう動くかも知っている。下手な証拠を残すような人材は、最初から我が社には入っていない」
強気の会長だ。
「でも、それは警察でも私達も同じでは?」
「大木泰蔵くんとは昔からの知り合いだ。若い頃はよくケンカもしたが、酒も飲んだ。彼を我が社にも誘った。その大木泰蔵くんが、勧める男が君、森川優くんだ。彼が勧める人間はそう多くはいない。その彼が勧めるんだ。間違いはあるまい。それに、第1印象で、私は君たちを気に入った」
「そう申されましても・・・」
「君は、このビルに入って、すぐこの応接室に来なかった。6階まで行って、この柿崎商事を観察した。そこが気に入った」
バレてた。
「これは、このビルだけでなく、本社を含めてすべての会社のドアを開けることができるパスだ」
柿崎会長は2枚のカードを俺たちの前に提示する。
「私達がこのビルや本社でウロウロすれば、犯人も警戒するでしょう」
「逆に、犯人が焦り、シッポを出すと思わないかい」
柿崎会長が上手か?
「柿崎会長はあくまでの社内に犯人がいると?」
「わからん。ライバル会社の線もあると、今朝、警察幹部が話してくれた。しかし、ライバル会社は沢山ある。調べるには警察も人数が足りないと漏らしていた。それに、これから東南アジア進出を考えている会社まで含めると、大変な数になる。大沢を引き抜こうとしていた会社があることも確かだ」
「彼が8月からシンガポールに行く事を知っていた人物は?」
「彼が海外に転勤だという事は、海外部門のほとんが知っていた。しかし、シンガポールで支店長になるという事を知っていたのは、上層部の中でも、ほんの僅かだ。
でも、1人が他の人間に話せば・・・」
「100人に知られている可能性もあると・・・」
「そういう事だ。森川さんも厳しい」
「でも、それは当たり前です。
で、この封筒の中で大沢竜郎さんを殺したいと思った人物に心あたりは?」
ここで、柿崎会長は少し考えた。そして、お茶を飲む。
「ほとんど、全員かもしれないな。人の心の中はよくわからん。
同じ事をされても何も思わない奴もいる。ちょっとした事でも、一生の恨みにする奴もいる」
「そして、殺したいと思う人間も出てくる」
「特に、最近はちょっとした事で、人を殺す奴が増えてきている」
「大変な時代に生まれましてね」
「時代が悪いんじゃない。人間さ」
「ごもっとも」
森川さんが同意する。
「そうだ、カフェオレを準備させよう」
柿崎会長は近くのインターホンを押す。すると、中島さんが今度は、カフェオレと普通のコーヒーを持ってきた。
「森川くんにはカフェオレ。そちらの若いのには普通のコーヒーを・・・」
俺の名前は、まだ覚えてくれていなかった。まあ、俺はここに来て、まだ一言も話していないから・・・。
「ところで、大沢さんの家族について知りたいのですが?」
「先程の封筒に入っているくらいしか私も知らないのだよ」
森川さんは、先程もらった封筒の中から1枚の紙を取り出す。
「大沢くんは仕事が第1のような人間で、休日でもこのビルに来て仕事をしていたらしい」
森川さんは封筒から目を離す。
「彼の自宅にも行くんだろう」
「はい」
「1歳年下の奥さんがいる。花奈さんと言うらしい。子供はいなかった。2人は大学からの付き合いで、結婚して3、4年目になるそうだ。奥さんは結婚前までデザインの仕事をしていたらしいが、結婚と同時に仕事を辞めたらしい。今時珍しい、専業主婦というやつだ。殺された大沢がその専業主婦を望んだらしい。
殺された大沢の上司で、海外部門の部長、鈴木信司という人間に聞くといい。今日、ここに呼んでいる。良く働く男だ。52歳なので、役員にしようと思っている。今、呼んだから、ここで話を聞くといい」
「わかりました」
すると、柿崎会長は立ち上がった。
「これを使ってくれ」
2枚のチケットを出す。
「うちの会社が使用している都内のホテルの宿泊券だ。夕食と朝食もついている。何日泊まっても我が社の支払いだ。まあ、早く解決するに・・・」
「ありがとうございます。早めに解決したいと思います」
すると、ドアをノックする音が聞こえた。そこには、体格のいい少し色焼けた男の人が立っていた。
「今、話をした鈴木くんだ」
私達は自己紹介をした。柿崎会長は応接室を出て行った。その席にマスクをした鈴木部長が座った。
鈴木部長は目が鋭かった。「部長にしておくのがもったいない」という柿崎会長の意味が少しわかった。年齢が52歳というが、40台後半に見える。ジムにでも通っている体だ。言葉遣いもハキハキしている。体育会系だろう。身長は170センチの俺より随分高い。180は越えている。
「柿崎会長は何と?」
「一番信用している部下だと」
そんな事は話していない。鈴木さんが照れる。
「大沢さんについて教えて下さい」
「そう言われても・・・。大沢の仲人をしました。今時、仲人を立てる若者が少なく中、珍しいなと思いましたが・・・。大沢が私の直接の部下でしたので、彼の将来性も考えて、仲人をしました。他の人も勧めたのですが・・・。彼が京都支店に行く前でした」
「大沢さんの家庭については?」
「大沢の仲人になるまで、彼の奥さんのついては全く知りませんでした。仲人の挨拶で私の家に2人で来た時に、初めて奥さんに会いました。仲人の仕事として、2人の生い立ちや出会いなどを知りました」
「奥さんの生い立ちは?」
「奥さんの花奈さんは、東京下町生まれ。ずっとこの東京で育ち、大学のサークルで知り合ったそうです」
「サークル?」
「何でもペンパルクラブとか・・・・?」
「ペンパル?」
初めて聞く言葉だった。
「今で言うメル友のことさ、井上くん。ペンは鉛筆とかペン。パルはジプシー語で兄弟のこと。ペンフレンドとも言って、国内や国外の人と文通をする事さ」
「大学といっても、10年前ですよね」
「ペンパルという言葉がはやったのが20年から30年前。そのあたりに創部して、現在まで続いたのだろうね」
「大沢もそんな話を結婚式の時にしていました。2人とも2、3人と文通をしていたようです」
「そんなクラブが大学にあるんだ・・・」
俺は時代錯誤に陥った。
「そして、大学卒業と同時に大沢はこの柿崎商事に入社。その入社理由が、文通していた方の国に行ってみたいという事だったから、面接官が笑ったと本人が話していた。次の年に奥さんが大学を卒業。三鷹にある熊田デザインという会社に勤務した。そして、結婚。奥さんの花奈さんは、結婚を機に会社を辞め、専業主婦になった。これは大沢の希望だった。結婚した毎年、正月には2人で俺の家に挨拶には来ていた。子供の近くに母親がいるのが一番いい環境だからと」
「でも、子供がいなかったと聞いています」
「そう、それが彼の悩みだった。しかし、今回、海外転勤が決まり、子供がいたら悩んでいたから、子供がいなくて良かったかもと話していました」
「会社ので仕事は?」
「警察にもそこを一番、聞かれました。
他の人より早く会社に来て仕事を始め、その日の仕事が終わらないと残業してまで仕事をしていましたね。他の人間より出世が早かったのも、彼の仕事熱心さがあったからです。まあ、今の日本じゃこういう人間は遠慮されやすくなってきましたけどね」
「部の中でも彼を妬んでいる人も多かった?」
「警察にも聞かれましたよ。会社は実績が物を言う場所です。特にうちみたいな柿崎商事はね。先輩の実績を追い抜いて、課で一番の仕事をしていましたからね。どうしても早く帰らないといけない人や、朝、子供を送ったりして早く来られない人にとっては、疎ましかったでしょうね」
「8月からシンガポールで支店長になると聞いていましたが・・・」
「私が推薦しました」
「彼が亡くなると、代わりに誰が行くのでしょうか?」
「それも、警察に聞かれましたが、大沢が亡くなってからまだ4日です。他の候補はまだいません。その代わりの候補を出せと言われても、今のところ誰もいません。私が一番、困っています。このままじゃ、私が責任をとってシンガポールに行くはめに・・・」
「鈴木さんがダメなのですか?」
「私はこの春、インドのムンバイから帰ったばかりです。受験生の子が2人いるので、会長にお願いして、帰国する時期を早めてもらったばかりですから・・・。半年でまた海外に出ると、反抗期の子どもたち2人がどうなるか心配です」
「大変ですね。でも、東南アジアの課の人は誰でも行きたがる?」
「勿論そうでしょう。皆30代の若者です。支店長となれば、破格の出世です。次へのステップもある程度、約束されますからね」
「もし、鈴木部長が行くような事になったら?」
「退職しますね。この年齢ですしね」
森川さんはカフェオレを飲む。
「このカフェオレ、美味しいね」
俺の顔を見る。
「ところで、仕事熱心の大沢さんが、なぜ、自宅と会社の間にある井の頭公園に行ったのでしょうか?心当たりはありますか?」
「それも、警察に聞かれましたが、全く、私にはわかりません」
「大沢さんに他の女の人がいた可能性は?」
「それも、警察に聞かれましたが、他の女と会っている時間があったら、家に帰る時間が彼にはなかったと思いますね」
「彼は一人で残業をすることが多かったですか?それとも、大勢で残業をする事が多かったですか?」
「私はほとんど、彼らより先に帰るので、わかりませんが、シンガポール転勤の内示が出てからは、一人で残業することが多かったと聞いています。『飛ぶ鳥、跡を濁さず』ですね。まあ、オフィスの鍵を閉めていたのは、ほとんど大沢のようです。彼のオフィスは2階です」
「大沢さんのデスクは、どうでしたか?」
「どうでしたかと聞かれても、警察が全て、持っていきました。彼の使用していたコンピュータを含めて。ですから、今、彼のいた場所に残っているのは空の机だけです」
「そうですか」
「ですから、業務に支障が出て、私も事件のあった次の日から、家に帰っていないのです」
「大変で・・・」
「早く犯人を見つけてもらって、警察から資料を返してもらわないと、お得意様と連絡も取れないし、私の家庭も崩壊しそうです」
「それはそれは・・・」
「森川先生、早く犯人を捕まえてください」
鈴木部長は立ち上がり、森川さんの手を握った。彼の目はとても怖かった。
「出来るだけ、手を尽くします」
「課の人間と話したい時は、私が1人1人対応するように会長に言われていますので・・・」
「今日は、その予定はないです。
ライバル会社については?」
「そうですね、挙げたら切りがないです」
「大沢さんを引き抜こうとしてた会社があると・・・」
「噂です。大沢からは何も・・・」
「その引き抜きを断って、殺されたとか・・・」
「その可能性はあります。現に昨年、大阪でありました」
「そうですか。怖い社会ですね」
「で、今日は?」
「鈴木部長は久しぶりに家に帰って下さい」
「いいのですか?今日は徹夜で森川先生の手伝いだと覚悟していましたのに・・・」
「暗くなる前に事件現場を見ておきたいのです」
俺たちはビルの前まで見送りに来た鈴木部長に感謝されながら、電車の乗った。
空は既に紫色に変わろうとしていた。吉祥寺駅で電車を降り、そのまま井の頭公園に向かった。井の頭池にかかる七井橋を通り、森の中を歩いた。自転車で通る人もいた。ベンチに座っている高校生もいる。途中、自転車置き場らしい場所もある。そして、吉祥寺通りを渡る。すると少し薄暗い森になった。
そこに1人の男が立っていた。俺たちの姿を見つけると、ホッとした様子で近づいてきた。
「いつも約束通りですね、森川先生。お話は伺っております」
「いつもすみません。吉原純也警部。こちらからお願いして、遅刻してしまって・・・」
この人も警察。森川さんは一体何人の警察官と知り合いなんだ。マスクをしていて話しずらそうだ。
「森川先生の事ですから、あの柿崎商事で足止めでもくらったのでしょう」
「こちら、4月から『ふくしま探偵局』に入った井上浩くん」
俺は、敬礼しそうになった。
「こちら警視庁の吉原純也警部」
警視庁・・・。俺は少し笑って握手した。
「ここは、私の管轄外なので。今日はオフレコです。所轄の警察署は皆、プライドを持って捜査しています。私も昔、そうでした。ですから、皆、自分の管轄の事件に警視庁が介入してくるのを嫌がるんですよ」
「わかります」
吉原警部は、事件現場に向かって歩き始めた。すぐそこにまだ黄色いテープが貼ってあった。公園の中にはきちんと道があるが、そんな道を気にせず、近道している人間が多かった。俺たちのそばを堂々と歩いていく人間もいた。外灯もつき始め、事件現場が少しくらい場所にあることがわかった。
「ここから暗くなります」
吉原警部の言う通り、外灯が届いていなかった。先程までの人の気配がなくなった。これが夜中だったら、全く周囲のわからないだろう。
「ここです」
テープの前にいた。そこは鬱蒼としていた。
「亡くなったのが午後9時前。発見は午後10時。第1発見者は、ここをたまたま通りかかった大学生男女2人組。大学生9時まで近くの大学にいて、犯行は不可能。約1時間、大沢竜郎さんはここで横たわっていたようです。周囲の状況から、ここで亡くなったことは確か。動かされた様子はありません。近くに大沢竜郎さんを殴ったと見られる大きな石が落ちていました。少し争った様子があります。その石と頭部陥没の痕が一致していますが、指紋などの証拠は出ていません」
吉原警部は淡々と話す。
「森川先生も熱心ですね」
「仕事ですから・・・」
「わざわざ、福島から東京までお越しになる事件ですから、私もしっかり下調べをしました」
「でも、本当にこの場所、1時間も誰も通らなかったのでしょうか?」
既に森川さんは腰を下ろして、現場の痕を見ている。
「それは、わかりません。聞き込みの数も増やしているようですが、男が倒れていても、事件に関与したくなくて、見ないふりをする人間が多くなった時代ですからね・・・」
森川さんは、15分くらい辺りを調べた。俺と吉原警部はその様子をずっと見ていた。近くを歩いている人間は確かに多くいる。
「森川さん、知り合いがオフレコで事件資料を準備してくれるそうですから、行きましょうか」
吉原警部は、半分無理矢理、森川さんを立たせ、吉祥寺通りを渡り、駐車場に向かった。
「乗って下さい」
吉原警部に促されるまま、車の後部座席に乗った。
三鷹駅を通り、近くのパーキングの駐めた。
「歩きます。すぐそこです」
パーキングの隣のビルに入った。2階に喫茶店がある。「メビウス」。不思議な名前の店だ。
「オフレコですからね」
どうやら吉原警部は「オフレコ」という言葉が好きならしい。
吉原警部はその「メビウス」という喫茶店に入ると、一番奥にいる女の人の隣に座った。俺と森川さんはその向いの席に座る。
その女性はまだ若かった。そして、可愛い。マスクをしていてもわかる。
「こちら武蔵野警察署の熊田忍警部だ」
吉村警部の声が小さくなった。で、この若さで部長!
「お久しぶりです、森川先生」
えっ、森川さんの知り合い・・・。そして、声も可愛い。
「お久しぶりです。熊田忍警部」
「森川先生もお元気そうで何よりです」
「吉村警部もお元気そうで・・・」
「いつもお世話になっています」
「今日は素敵な服装ですね」
「今日、私はお休みですから・・・」
「だそうだ・・・」
「それに、昨年もそうでしたね、熊田警部・・・」
「都合よく出来ていますね」
「20代で部長になったのに、辞めないようにしないとね」
「森川先生の噂はその後も聞いていおります」
「こちら、新人の井上浩くんです」
「井上です。よろしくお願いします」
「忍さん、例の物・・・」
熊田警部は吉原警部に言われて、横に置いてあったカバンから封筒を取り出した。
「これです」
それが先程話していた捜査資料だろう。俺はそっと封筒の中の覗き込んで止めた。一枚の写真が目に焼き付いた。頭が血で染まった男の写真だった。見るんじゃなかった。
森川さんはいつものカフェオレ、俺と吉原警部はブレンドを注文した。
「コピーですから、返却不要です」
「ありがとうございます」
「ここで開封して説明すると、色々と大変なので、言葉で説明します」
「わかりました」
「現場検証の写真が1枚目にあります。大沢竜郎さんは、後からの一発によって死亡したようです。凶器はそばに落ちていた大きめの石。殴られた角度は約55度」
「そのようですね」
「しかし、現金などは盗まれていません」
「大沢さんの身長は?」
「175センチです」
「なるほど。共犯と話していて、後からいきなり殴られたか、何かに夢中になっていて、後に犯人が来るのがわからなかったかですね」
「警察もそう見ています」
「でも、井の頭公園で人を殴るにはあまりにもリスクが高い。あの場所で殴られれば、声ぐらい出すでしょう。犯人も計画的ならその事は考えていたはず。」
「現場は、もう2メートル奥じゃないかと警察は思っています」
「私も現場でそう思いました」
「そうすれば、更に鬱蒼とした樹木が周囲から身を隠してくれます」
「でも、井の頭公園ですよ」
「亡くなった大沢竜郎さんは、幼い頃、この近くに住んでいることがわかりました」
「地の利を得た大沢さんが犯人を呼び出した。または、井の頭公園を知っている者が大沢さんを呼び出した」
「待ち合わせをしていたのではと警察も考えています」
「あの現場を見ました。後から急に殴られています。つまり一撃で亡くなった。でも、争った痕がある。だから、犯人は争ったように偽装した。または、死後、彼の体から何かを探した。現金以外の物を」
「なるほど」
熊井警部が感心する。
「待ち合わせするにも、あの場所は何も目印もありませんね。ある程度、公園に詳しくないとね」
注文していたコーヒーが来た。熊田警部は、手帳を出してメモを始めた。
「奥さんの花奈さんにはお話を聞いたのですよね?」
「はい」
「なぜ、亡くなった夫が帰宅途中にある井の頭公園に行ったか知っていましたか?」
「その件について、全く知らないそうです。毎日、夫が会社から真っ直ぐに帰宅すると思っていたそうです」
「午後10時に遺体発見ですよね」
「はい」
「大沢さんの自宅への報告は何時でしたか?」
「10時45分です」
「奥さんはいましたか?」
「はい。夫の事を話すと、大変驚いていたと」
「という事は、奥さんは夫が10時45分になっても帰らない事を不審に思わなかった」
「夫から遅くなると連絡があったそうです」
「何時頃?」
「午後8時頃に。それに、大沢さんの帰宅は平日10時を過ぎることが多かったようで、あの日もあまり、心配せず、夕飯を先に食べていたとの事でした」
「なぜ、遅くなるか知っていましたか?」
「いつもの事で理由も聞かず、電話を切ったと・・・」
「電話の履歴は?」
「夫の携帯から履歴がありました」
「その他に、亡くなった大沢さんの携帯履歴で気になる事は?」
「気になる事はあまりないです。会社専用の携帯もありました。どちらの履歴もその封筒に入っています」
「大沢さんの個人の携帯にかかってきた登録のない番号は?」
「何件かあります。現在、確認中です」
「たぶん、その中にライバル会社からのお誘いがある」
「警察もそう思って確認しています」
「メールの方は?」
「それも同じです。女の影はありません」
「気になるメールは?」
「会社の携帯のメールが何件が消されているので、科捜研に送って、復元中です。でも時間がかかるそうです」
「ライバル会社からのお誘いメールかもね」
「復元に時間が欲しいそうです」
「吉祥寺駅付近の防犯カメラは?」
「何十台もあり、現在、職員が見ています。何台かのカメラに吉祥寺駅を降りる大沢竜郎本人が映っているのが確認されています」
「彼を追うような人間は?」
「いません。数台のカメラで大沢本人が確認できますが、彼を追う人間はいません。駅から公園を通る人間は多く確認できますが、皆、歩く速度が違っています。大沢が一番、ゆっくりなので、彼を追い越す人間はいても、彼の後を同じ速度で歩く人間は確認できていません」
「そうですか?大変ですね、所轄は・・・」
「大変はどこも同じです」
「彼のその日の足取りは?」
「その日、一日、外回りのようで、裏も取れています。スケジュール帳とも合っています。夕方、会社に帰って来て、事務整理をしたらしいのですが、退社時間は8時28分」
「その後、会社に残っていた人は?」
「彼が最後らしいです。記録では・・・」
「事情聴取では?」
「証言が合っています」
「彼の家族は?」
「大学の時、両親共交通事故で亡くなっています。兄弟姉妹なし。現在、奥さんと2人暮らしだったそうです」
熊田警部、質問に対する答えがテキパキ。
「夫婦仲は、どうでしたか?」
「近所づきあいが多く、皆、ケンカという言葉を聞いたことがないと話しています」
「ライバル会社は?」
「それが大変です。今のところ、外部犯に流れが行っており、引き抜きを嫌がられ、情報が漏れるのを恐れて殺害したのではという方向に向いています。ですから、渋谷から伸びる井の頭線で吉祥寺の前で井の頭公園駅で犯人が降り、待ち伏せた可能性があるのではという事で、井の頭公園駅から防犯カメラを分析しています。ライバル会社も多く大変です」
「会社を限定しても、その会社の引き抜き担当の職員を教えてはくれないからね」
「そうですね。柿崎会長が『ふくしま探偵局』に依頼したのは正解かもしれませんね」
「そんな事ないよ。
で、奥さんはその夫の引き抜きについて何か話していなかったかい?」
「忘れていました。資料には書いてありますが、以前『会社を変わっても大丈夫か?』と言われたことがあるそうです」
「いつ頃のこと?」
「あまり覚えていないそうですが、4月だったと・・・」
「なるほど・・・
今日はこれくらいで・・・」
森川さんは、カフェオレを飲み干した。すると、熊田警部が小さな紙を森川さんに渡した。
「1枚は私の公用の名刺です。もう1枚は私用のスマホの番号が書いてあります。連絡、下さいね。事件の話じゃなくてもいいです」
告白だ。
「解決したら、一番に連絡するよ」
「よろしくお願いします」
熊田警部は「メビウス」の前で笑顔で俺達3人を見送ってくれた。外で吉原警部と一緒の所を同僚に見られたくないとの事。森川さんは熊田警部からもらった紙を俺に見せなかった。たぶん、スマホの電話番号以外、書いていることがあるのだ。これは、『ふくしま探偵局』入局3ヶ月目の俺の直感だ。
結局、吉原警部は、東中野駅のコインロッカー経由で、柿崎会長の準備してくれたホテルまで車で送ってくれた。
「私も人生で一度くらいこんなホテルに泊まりたいですなあ」
吉原警部が今日、最後の残した言葉だ。
ホテルは豪華だった。2人の部屋は別々だった。森川さんの部屋に夕食の誘いのため入った。森川さんは柿崎会長にスマホで連絡中だった。勿論、熊田忍警部の名前は一つも出てこなかった。
「明日、大沢さんの自宅に行こうと思います」
「いいえ、連絡しないで下さい。何か準備されたり、隠蔽されると・・・」
「そうは思いません。住所を知っているので、検索します」
「はい。わかりました。よろしくお願い致します」
そんな感じ。
夕食のバイキングのメニューも豪華だった。
「明日は、午前8時頃の電車で小金井市の大沢さんの自宅に行こう。朝食も、午前7時に一緒に行くか?」
「わかりました」
俺と森川さんは部屋の前で別れた。俺はそのまま部屋に入らず、六本木の夜に向かった。
翌日、6月16日、火曜日。朝、森川さんと朝食会場に向かった。森川さんの上着からは、昨日、会った熊田忍さんの香りがほのかに漂っていた。しかし、何も言わない、探索しないのが、俺のやり方。森川さんに彼女の1人もいてもいいだろう。それが綺麗な婦人警官でも・・・。
「こんな事なら、柿崎会長に車を出してもらえば良かった」
俺達はホテルに荷物を置いて、小金井市のある大沢さんの自宅に向かった。しかし、今日は平日の火曜日。8時過ぎの電車は超満員。これには森川さんもぐだぐだたった。
武蔵小金井駅を降り、北に15分ほど歩いた場所に、大沢さんの自宅があった。2階建て一軒家。車庫に1台軽が停まっていた。すでに自宅前に花輪はなかった。
玄関に出て来た大沢花奈さんは青白く、今回の一件でとても疲れているように見えた。森川さんは、自宅近くになって大沢さんに連絡したようで、彼女は先程まで寝ていたような顔だった。30歳と聞いていたが、疲れからか老けて見えた。
「疲れているのでこんな顔ですみません」
「いいえ、こちらこそいきなりで・・・。葬儀は終わったのですか?」
「こんな時期なので、家族葬で済ませました。会社の方や同じ課の方の列席も、遠慮して頂きました。でも、何人かは出席してくれて・・・」
「大変でしたね」
「人数が少ない分、早めに終わりましたから・・・」
俺達は柿崎会長の依頼の事を告げ、大沢竜郎氏の慰霊に線香をあげ、お茶を頂いた。話は柿崎会長や鈴木部長、そして熊田警部に聞いた通りだった。
「亡くなったご主人の部屋を見せてください」
「警察の方がほとんど持っていきましたが・・・」
「構いません」
2階の階段を上って奥のドアを開けてくれた。畳敷きの部屋だった。机があるだけで、その上には何もなかった。本棚も空。
「全部、警察が持って行ってしまって・・・」
「警察が本気なんですね」
森川さんは、畳に座り、周囲を見回していた。
「奥さんの部屋と寝室は別ですか?」
「私の部屋は階段を上がってすぐの部屋で、寝室は隣にあります」
「奥さんの部屋を見せて頂くことは出来ますか?」
花奈さんは少し戸惑ったようだったが、立ち上がった。
「少し汚くしていますが・・・」
「警察が来た後の掃除は大変だったでしょう」
「そうです」
亡くなった大沢竜郎さんの部屋とは違って、フローリングの綺麗な部屋だった。日当たりも良く、大きな窓から6月の太陽の日差しが入ってきた。本棚の本も綺麗に整理されていた。警察は奥さんの物までは持っていかなかったらしい。
「本を見ていいですか?」
「ご自由に」
「随分、京都の本が多いですね」
「結婚して、2年間、京都に夫と過ごしました。その時、京都をあまり知らず、本を買ってお店に行ったりしましたから・・・」
そう言われると、京都の本が多い。
「雑誌も多いですね」
「専業主婦をしていると、こういう雑誌が多くなるんです」
「警察にも聞かれたと思いますが、ご主人、亡くなった日、なぜ井の頭公園に行ったのか、思い当たる事はありませんか?」
「何度も考えましたが、わからないのです」
「亡くなったご主人は、いつも帰宅時間が遅かったとか・・・」
「はい。仕事熱心は結婚前から変わっていません」
森川さんは本棚の本をあちこち見ながら、質問していた。
「亡くなる前に、ご主人は井の頭公園に行った事はありますか?」
「ないと思います」
「大学の知り合いは連絡は取り合っていますか?」
「はい。結婚式にも来てくれました。でも、住所とかは警察が全て持って行きました」
「奥さんの友人は?」
「連絡先の書いたものは全て、私の分も含めて、警察が・・・」
森川さんは本棚に本や雑誌を戻すと、ベランダを見つめた。
「ブライダルベールですね」
「そうです。昔から植物を育てるのが好きで・・・。
「トイレを貸して下さい。先程飲んだお茶が・・・」
「1階です」
奥さんの部屋を出て、1階に降りた。森川さんはそのまま案内されたトイレに向かった。しかし、これも森川流。自宅を訪ねたら、必ずトイレを借りる事。
俺は奥さんと位牌の前で、たわいもない話をした。
「ありがとうございました。帰る前にお庭を見せて頂けませんか?」
「見せる程、大きな庭ではありませんが・・・」
3人で外に出た。そんなに大木な木はなかった。まあ、外の道から中を見ようと思えば見える程度。庭も大きくない。芝生があり、子供が生まれれば少し遊ぶ程度。水をやる水道が玄関脇にあった。
「庭のお手入れは?」
「亡くなった主人が・・・」
「ブルーベリーの鉢植えですね」
「数年前から夫がブルーベリーを食べたいと話したので、こうして・・・」
「食べました?」
「お陰様で。甘い実がなりました」
「そうですか・・・。大切なお時間をすみませんでした」
俺たちは深々と頭を下げた。
「もし、犯人がわかったら、連教えて下さい」
「もちろんです。このまま失礼します」
俺と森川さんは、そのまま大沢さんの自宅を後にした。2人で何の会話もないまま、武蔵小金井駅まで歩く。これも森川流。自宅訪問の帰宅時、何も話さない事。家から誰かが用事や忘れ物があって追いかけて来ている可能性がある。話し声や、自宅で観察した事が聞かれる可能性もある。駅まで着いて、誰も後から来ない事を確認して、話し合う事。森川さんらしい・・・。
「とてもあっさしていましたね」
「まあ、警察が来て、すっかり空だったし、葬式もあり、関係者が人間があの家を訪れたからね。それに、何かあればあの奥さんの事だ。綺麗に掃除をするさ」
「掃除?夫が亡くなってすぐなのに?」
「変だろう。こんなに早く掃除だなんて・・・」
「森川さん、何か見つけましたね」
「夫の部屋だけど、急いで掃除をした形跡があった。私が電話をした後、すぐに元に戻したのさ」
「えっ?」
「警察が全部、持って行った。しかし、机や本棚までは持って行かない。しかし、それらが先程まで違う場所にあった。埃と机の脚の痕さ。
自宅が事件現場なら、警察も徹底的に捜査する。しかし、今回は証拠の持ち帰り。机を動かしても、今まであった脚の痕の所に戻す。しかし、脚の痕は古いのと少し新しいのがあった。そして、先程、机の脚の痕とは違った場所にあった。つまり、奥さんは何かを夫の部屋で探したのさ。これは、警察が来る前にしか出来なかった。出来るのは奥さんだけさ。
そして、見つけて自宅の庭の水道の場所で燃やした。ゴミ箱に出すと警察に回収されてしまう可能性がある。だから、庭で燃やした。水道に最近の煤があった。お葬式で忙しいのに、普通なら何かを水道の近くで燃やす時間なんてない。だから、燃やせる証拠品だ。
そして、奥さんの部屋も綺麗にしたあった。葬式のすぐ後だ。もっと自宅は大変な状態にあってもいい。しかし、あそこまで綺麗に片付いていると、逆に怪しい。本棚の本の並び具合も変えた。
あの京都の本。あれは、4年前に発行された本が多くあった。つまり、夫が京都赴任が終わってから購入した本。2人で京都にいた時に購入した本はない。
それに、ブライダルベールの鉢植えも、夫が亡くなってから購入した。ブライダルベールの根付きは、植えたばかり。もっと前に購入していれば、根付きはもっといい。
庭のブルーベリーも同じ。現在、日本で流通しているブルーベリーの品種は100種類以上。それらの品種は卵のようにふっくらとした、楕円形の葉ハイブッシュ系とほんの少しギザギザしている幅の狭い葉のラビットアイ系の2つの系統。ラビットアイ系のブルーベリーは、果実が熟す前に、白色の飼いウサギの目のような美しいピンク色に色づくため。
しかし、大沢さんお自宅にあったのは、代表的なラビットアイ系品種の「ホームベル」。ラビットアイ系の品種のブルーベリーは、自分自身の花粉では受粉しにくい傾向にある。そのため同じラビットアイ系で別の品種を一緒に育てる必要がある。でもあの家には、1株しかブルーベリーがなかった。実はならない。1株では実は実らない。
それに、ブルーベリーは酸性の土を好み、phでいうと5.0前後の土がいいとされている。植物では希なケースだ。だからブルーベリー用の土が特別に売られている。あの家にあった土は野菜用の土。あの土ではブルーベリーは枯れる」
「よく知っていますね」
「生物専攻の卒業だからね」
最近の生物専攻ではそういう事も教えるのか・・・・
「つまり、夫婦仲が良かったように印象つけたい工作さ。そして、何かを隠している」
同じ物を見ても、こうも違うとは・・・。俺は森川優に及ばない。
「何を隠していると思います?」
「それは、これから新宿に行って確かめる」
既に、JR中央線の快速に乗っていた。俺は行き先も聞かず、森川さんの買った切符をもらっていた。
新宿駅も人が多かった。コロナ禍の中でも、東京の人間は人混みが好きならしい。新宿駅東口を出て、歩いて10分ほどで目的のビルの前に着いた。
「ここの3階」
森川さんは、エレベータの3階のボタンを押した。3階は「青海出版」と書いてあった。
「いきなりで大丈夫ですか?」
「何とかなるさ。井上くんはいつものように・・・」
「頷いているですね」
森川さんが微笑む。
3階にすぐ止まった。エレベータを出ると、受付。マスクをした女の人が待っていた。
「すみません。柿崎商事、広報部の森川と井上です。ここで出版している『主婦公読』という雑誌の担当の方に、我が社の広告が載せられるか相談があってきました。もちろん、急な話で予約を取っていませんが・・・。担当の方はいますか?」
受付の女の人は困ったようだった。
「ご名刺を頂戴できますか?」
「井上、名刺、出して」
森川さんが怖い顔をしてにらむ。
「森川部長みません。先程、電車にカバンを落としてきて、その中に全部・・・」
「財布もか?」
「はい」
森川さんは、受付の女の人を見た。
「出直してきます。一面広告をと思ったのですが・・・」
突然、受付の女の人の表情が変わった。
「少々、お待ち下さい」
内線電話をかけ始めた。
「奥にどうぞ」
突破できた。劇団「ふくしま探偵局」だ。こういう時にネクタイ姿が役に立つ。
奥の部屋は学校の職員室より混雑していた。机の上にコンピュータを2台おいて仕事をしている人や2台のスマホを操って電話をしている人など。部屋の空気も汚れていた。禁煙が叫ばれている現代なのに・・・。「密」を避けている状況なのに、ここにはそんな余裕はないらしい。俺も森川さんもタバコを吸わない。
40代と思われる人が奥の机から背広を着ながら出てきた。背広のポケットからマスクも出した。
「柿崎商事の方ですか?」
「申し訳ありません。ご予約も入れず・・・」
「広告の件ですね」
「はい。急な会議で・・・。一面広告を・・・」
「こちらへ・・・」
部屋の奥にあるもう一つの部屋へ通された。応接室のようだった。
「青海出版社 第3編集部 主任 足立茂です」
名刺を渡された。
「柿崎商事、広報部の森川と井上です。名刺をこいつが電車でなくしまして・・・すみません」
「いいえ。大丈夫です。名刺が仕事をするわけではないですから。で、広告は?」
「今度、我が社で東南アジアの方から輸入雑貨を販売する事となりました。その対象の一部を主婦層にしようと会議できまりまして、主婦層に良く読まれている『主婦公読』さんに広告を掲載させて頂けないかと・・・」
「そうですか・・・」
「予算もあり、まず、ここにお邪魔しました。これから他も回る予定ですが・・・」
「今までの雑誌を準備させます。三浦さん、昨年1年分の『主婦公読』を準備して」
丁度お茶を持ってきた受付の女の人に、足立さんが命令した。
「私が雑誌は拝見し、会長に推薦する形です。会長命令でして・・・」
「柿崎会長のですか?」
「はい。私は仕事柄、あまりこのような雑誌を拝見した事がなくて・・・すみません」
「まあ、男性にとってはあまり目する事がない雑誌でしょうな。では、3年分、準備させましょう」
「いえいえ、1年分で結構です。他の広告も参考になります。1年分もあれば、他の出版社に行かなくても済みそうですね・・・」
「ですね」
「見積もりは柿崎商事の本社、広報部に送って下さい。まあ、1年間ですね」
「ありがとうございます。勉強させて頂きます。すぐ送ります」
森川さんの口から嘘が出る出る。
「結果は?」
「この広告掲載の話も企業秘密です」
「ですよね」
「本来なら、会議を開いて、他の雑誌も見てと思いましたが、会長がこの『主婦公読』なら間違いがないんじゃないかと話たのもで・・・。他の意見が出ないうちに早々と来てしまいました」
「ありがとうございます」
「それに、こうやって顔を合わせて話した方が、こちらの考えもわかって頂けると思いまして・・・」
「さすが、お若いのに部長になっただけの事があります。森川部長」
丁度、そこに段ボール一杯に雑誌を持った三浦さんがドアを開けた。これを運ぶのは大変だ。どうせ俺の仕事だろう。
「会議が通りましたら、すぐ連絡をします」
「お待ちしております」
「次回、来る時は、連絡をしていから来ます」
「いえいえ、こちらから伺います」
「主婦公読」1年分はとても重かった。エレベータの中で俺の芝居を褒められた。俺は逆に森川さんの芝居を褒めたかった。
近くの喫茶店「サンチャゴ」にその段ボール箱を持って入り、1冊1冊、森川さんが確認をしていた。「主婦公読」は大沢花奈さん本棚にあった雑誌だ。森川さんは早かった。何冊か雑誌を選ぶと、狙ったページを確認し、次の雑誌へと手を伸ばした。
「わかりましたか?」
「後は、証拠だね」
森川さんは、立ち上がると、喫茶店「サンチャゴ」の人と話し込んでいた。
「井上くん、行こうか」
森川さんはいつの間にか、俺の後に来ていた。俺は重い段ボールの箱を持とうとした。
「それはここにおいていく」
「いいんですか?」
「ここの店長にお願いした。この喫茶店でおいてくれるそうだ」
なんていう人間だ。
喫茶店の外に出ると、森川さんはスマホを出した。
「もしもし、森川です」
「そうです。お願いがありまして・・・」
「順調です」
「大沢竜郎さんが京都にいた時、一緒に働いていた方の一覧を準備していただけますか?」
「そうです。2年間です」
「それに亡くなった大沢竜郎さんの1月からの出勤記録を準備出来ませんか?警察持って行かれても、残っていますよね」
「そうです」
「もう1つ。今年度の2階で働いている人物の出勤簿を準備できますか?」
「特に退勤時間がわかるものを・・・」
「ホテルで・・・」
「ありがとうございます」
「それから、新宿にある青海出版社、第3編集部から広告掲載の見積もりが来ると思いますので・・・。適当に・・・」
「いいえ、載せなくても大丈夫です」
「そうですか?お任せします」
森川さんはスマホを切り、俺たちはあの豪華のホテルに向かった。昼食代も柿崎商事持ちだ。
ホテルのフロントには「森川優」宛に柿崎商事名前で封筒が到着していた。封筒は分厚かった。柿崎会長の仕事も早い。俺にはついていけない世界かもしれない。
俺たちはそのままいつもより豪華な昼食を満喫した。森川さんは封筒を開封し、中から1枚の紙を選ぶと、よく見ていた。俺は、森川さんの推理が順調に進んでいる事を確信した。こういう時は森川さんに話しかけてはいけない。それも、俺が「ふくしま探偵局」で3ヶ月、学んだ事だ。彼が納得すれば自然と俺に解説してくれる。彼の思考を俺の発言で止めてはいけない。
するとまた、森川さんはスマホを出した。周囲の席に人がいない事を確認した。
「もしもし、梨本さんの携帯ですか?」
「すみません。いきなりで。私、柿崎商事会長の柿崎直央さんから、今回亡くなられた大沢竜郎さんの事件を調査している『ふくしま探偵局』の森川優と申します」
「そうです。残念な事です」
「今も大沢さんと交流がありましたか?」
「そうですか。葬儀の時・・・」
「すみませんでした」
森川さんはスマホを切ると、紙を見て、またスマホで話し始めた。
「もしもし、志村誠一さんの携帯ですか?」
「すみません。いきなりで。私、柿崎商事会長の柿崎直央さんから、今回亡くなられた大沢竜郎さんの事件を非公式で調査している『ふくしま探偵局』の森川優と申します」
「2月か3月頃から、大沢さんと手紙のやり取りを行っていましたね」
「それは存じております」
「警察とは別に調査しています」
「志村誠一さんが大沢さんを殺害したとは思っていません」
「月に・・・」
「2回くらいですね」
「残っているのは・・・」
「そうですか」
「金曜日ですか・・・」
「最初は・・・?」
「そうですか・・・」
「そろそろ全貌がわかりかけてきています」
「ですね」
「何かありましたら、この電話番号にかけて下さい」
「そんなメールが・・・」
「ありがとうございます」
「知り合いが伺うかもしれません」
「その時は・・・」
「保証します」
「大沢さんを殺した人物も、志村さんの名前はまだ知っていないと思います」
「その前に捕まえます」
「それが今の私の仕事ですから・・・」
「いきなりですみませんでした」
「残っている手紙があれば、そのままに・・・」
「では、失礼します」
森川さんは、スマホを切ると、封筒に入った違う紙を見始めた。そして、何ヶ所かにアンダーラインを付けていた。それが30分くらい続いた。そして森川さんは、目を閉じ静かに考え始めた。どうやら、最終段階にきたようだ。彼の頭の中で、全ての道筋が1本になっていく。これもこの3ヶ月でわかった事。
「井上くん、福島に帰る準備をしようか」
つまり、事件が解決したという事。
俺と森川さんは、また荷物を東中野駅のコインロッカーに入れた。そして、柿崎会長が待つ「柿崎商事 海外貿易支部」に向かった。受付の村山さんは笑顔だった。マスクをしていてもわかった。俺たちはそのまま、エレベータで5階に向かった。もう、6階に行かなくていい。応接室には、昨日会ったばかりの柿崎直央会長と鈴木信司部長が待っていた。
俺たちが部屋に入ると、柿崎会長が立ち上がった。
「何か分かったか?」
森川さんの顔が笑顔に変わった。会長はそれを読み取ったらしい。
「さすが、大木泰蔵が勧める男だ」
柿崎会長がそのまま座った。俺と森川さんも椅子に座る。それと同時にドアが開き、昨日と同じ中島さんが森川さんにカフェオレ、俺にブラックコーヒーを持ってきてくれた。中島さんは、俺たちに微笑んで部屋を出て行く。
「色々と面倒くさい話は後でいい。私は推理小説のような探偵がくどくど話しをするのが苦手なんだ。犯人を教えてくれ。そして、わかりやすく話してくれ」
柿崎会長の性格らしい。
「大沢竜郎さんを殺害したのは、彼と同じ東南アジア課の国見多香雄さん32歳です」
さすが森川さん。
「わかった」
今まで興奮していた柿崎会長が落ち着いた。
「森川くんが話すなら、それが真実なのだろう」
柿崎会長はお茶を飲んで、更に自分を落ち着かせようとしている。
「この結論に到った道筋を話しては頂けませんか?」
隣でまだ少し興奮している鈴木信司部長が森川さんに尋ねる。俺も聞きたい。
「今回の事件は、大沢竜郎さんの出世を妬んだ国見さんの犯行。その解決を難しくしたのは大沢さんの家庭事情です」
森川さんは、事の真相を話し始めた。
「大沢竜郎さんは、仕事熱心だった。それは、上司でもある鈴木部長も認めるところですね」
鈴木部長が首を縦に振る。
「大沢達郎さんと結婚した花奈さんは、熊田デザインを辞め、専業主婦になった。それが4年前。そして、京都で2年間過ごした。その時、奥さんは京都の男性の魅力に惹かれたのかもしれません」
「それって?」
「違います。個人を好きになったわけではなく、京都の風流を好きになったのだと思います。そして、2人はこの東京に戻ってきた。夫の達郎さんはますます忙しくなる。
それで奥さんの花奈さんは、専業主婦の傍ら何か趣味を見つけようと、主婦専用の雑誌『主婦公読』を購読する。それが昨年の5月です。彼女の部屋の本棚に7月号から全部、揃っていました。そして、大学でペンパルクラブに入っていた彼女は、文通を趣味にしようと考える。そこで、その『主婦公読』に文通の相手を求める手紙を出す。その奥さんの出した文通相手を求める掲載ページがこれです」
森川さんは、いつの間にか、あの雑誌の1ページを持っていた。黙って破いたのか!そのページをテーブルの上に置く。
「文通相手募集。京都にお住まいの男性と文通をしたい29歳の主婦です。今年3月まで京都にいました。今時、文通かと思いでしょうが、手紙が好きです」
その後には大沢花奈さんの住所と名前が記載されていた。
「5月号と6月号に掲載されていました。7月号にはありませんでした。という事は、6月号の掲載で相手が見つかったものと思います。
しかし、その相手が自分が思った人物ではなかった。大沢達郎さんは、最近、妻が雑誌を購入して自分の部屋で密かに読んでいる姿でも見たのでしょう。妻のいない間に、部屋に入って、その雑誌を見た。すると、今の内容が掲載されていた。
大沢達郎さんも、大学の時、ペンパルクラブだった事もあり、考えた。そして、仕事で妻を顧みなかった事もふまえ、妙案を思いついた。それは、妻の文通相手に、自分がなる事だった。
大沢達郎さんは、昨年まで京都で一緒に仕事をしていた2つ後輩で、まだ京都支店に勤める志村誠一さんにお願いした。まず、東京の柿崎商事の海外貿易支部で仕事が終わった後、別人になりすまし妻に手紙を書く。それを大きめの封筒に入れ、京都の志村誠一さんに送る。京都の志村誠一さんは、送られてきた大きめの封筒を開封し、中にある東京の大沢花奈さん宛の封筒をそのまま投函する。
大沢花奈さんに夫からの封筒が届く。大沢花奈さんは、京都の志村誠一さんに手紙を送る。京都の志村誠一さんは、それを東京の大沢達郎さん宛で、柿崎商事の海外貿易支部の住所に送る。大沢達郎さんは、封筒を開封し、中に奥さんからの手紙を読む。
会社に支店から手紙が届くから、誰も不思議に思わない。京都の志村誠一さんに確認したところ、東京の海外貿易本部宛に切手の張ってる封筒がまだ自宅にあるそうです。全部、大沢立達郎さんに頼まれたとも話していました」
「なんて、面倒な事を・・・」
「でも、主婦専用に雑誌に、男性からいきなり手紙なんて・・・」
「志村誠一さんには、お嫁に行った3歳年上のお姉さんがいます。最初は、その方から紹介された事にしたらしいです」
柿崎会長が嘆く。
「その文通が始まったのが、昨年の7月。志村誠一さんによると、1ヶ月に2回のペースで文通が行われていたそうです。奥さんの大沢花奈さんが志村誠一さんのSNSを見てもいいように、志村さんは自分の趣味に『文通』をわざわざ入れたとも話していました。
大沢達郎さんの勤務表を拝見すると、毎週、木曜日、残業しています。志村誠一さんによると、大沢さんから手紙が届くのは、いつも金曜日だったそうです。つまり、木曜日の残業は、文通のためだったと思って、間違いないと思います」
「殺されたもの、先週の木曜日だった・・・」
「そうです。いつも木曜日、2階にある事務所で何か書いている大沢達郎さんが気になった人物がいました」
「それが、国見多香雄」
「そうです。彼は大沢達郎さんの1つ上。1年先にこの柿崎商事に入社。しかし、大沢さんに出世を先に越されています。結婚も先を越された。たいぶ嫉妬をしたのでしょう。
そして、大沢さんが毎週木曜日に何をやっているか気になっていた。それで、先々週の木曜日、国見さんは大沢さんの書いてる手紙を見るか何かしたのでしょう。そこには今までの内容と違った事が書いてありました」
皆が森川さんの言葉に集中する。
「文通を辞めたいという内容です」
「えっ?」
「大沢達郎さんが志村誠一さんに『そろそろこんな茶番を辞めようと思う。妻に会って謝罪する。何かいいプレゼントはないかな』というようなメールを最後に送ったそうです。
つまり、大沢達郎さんは最後の文通で、『東京に行くから、井の頭公園のあの場所で会おう』とかいう内容の手紙を奥さんに送ったのでしょう。その会う日付が6月11日、金曜日。それを、国見多香雄さんが見た。
国見多香雄さんは、大沢達郎さんが、妻に偽名を使って文通しているとは夢にも思わなかったから、その手紙を見て、大沢さんが浮気をして、井の頭公園で密会すると勘違いした。それで、6月11日、木曜日。大沢さんが退社する前にこの事務所を出て、先に井の頭公園で待ち伏せた。浮気現場の写真でも撮影し、脅迫でもするつもりだったのだと思います」
「だから、警察が大沢の後をつけている人間を防犯カメラで捜しても、見つからないのか」
「井の頭公園で待っていた国見多香雄さんの前に何も知らない大沢達郎さんが来る。そこで何があったのかは、知りません。もしかすると、待ちきれず、国見さんが声を掛けたのかもしれません。大沢さんが隠れている国見さんを見つけたのかもしれません。そこで、国見さんは、近くにあった石を取り上げ、一撃で大沢さんを殴った。怖くなった国見さんは、大沢さんの持っていたプレゼントを取って、そのまま逃走した。彼の家は富士見ヶ丘です。京王井の頭線の三鷹台駅辺りの防犯カメラを調べれば、事件後、国見さんが電車に乗る姿が映っているでしょう。それに、事件前はここからですと吉祥寺駅ですね」
「警察には?」
「先ほど、知り合いの方にメールしました。今回、お世話になりましたから・・・」
「そうか・・・」
柿崎会長は仕方がないという感じで頷く。
「その直後、大沢花奈さんが事件現場に現れた。彼女は軽自動車を持っています。近くの駐車場に車で来たのでしょう。だから、駅の防犯カメラにも写らなかった。そして、亡くなっている夫を見つける。花奈さんは同様したはずです。文通相手と待ち合わせをしたはずなのに、そこで夫が亡くなっている。夫は文通相手を自分の浮気相手と勘違いし、追ってきたのではないだろうかと。そこで、文通相手の志村誠一さんが夫を殺したのではないかと。2人が顔見知りであることはSNSで調べれば分かること。怖くなった花奈さんは、志村誠一さんがここにいた証拠を探します。凶器の石の指紋を拭き取る。
そして、自宅に帰ると、まだ仕事は残っていた。井の頭公園の殺人です。夫の身柄はすぐ判明するはず。警察が自宅に来るまでには時間がない。自分が文通していた証拠を隠滅しなくてはいけない。
そこで、自分が書いた手紙、文通希望を載せた雑誌を自宅の庭先で燃やします。部屋を片付ける。近くの大型モールに行って、夫と仲が良かったように見せかけるため、ブルーベリーやブライダルベールを購入、ベランダや庭に置きます。植物なら何でも良かったのでしょう。2人で育てているとか言うことが言えれば・・・。綺麗好きと見せたかったのでしょう。
次に夫の部屋を捜索。文通している証拠を探します。大沢達郎さんは文通のそのほとんどがこの会社で行っていたので、あまり自宅に証拠を残さなかったはずです。ですから、夫の部屋の捜査は時間がかからなかったでしょう。
そして、警察から夫の身元確認の連絡が入る」
「それだけで、国見多香雄が犯人だと・・・」
「いいえ、最初から彼に目をつけていました」
まず俺が驚いた。
「175センチの大友竜郎さんの頭、右後方が石で殴られていました。これは、彼より身長の小さい人間が出来る仕業ではありません。大沢さんが座っていたような形跡もあの事件現場にはありませんでした。ですから、犯人はより大きく、右利き。最初にこの会社の2階を見に行った時、大きい人物は2人しかいませんでした。1人が今、目の前にいる鈴木部長と、犯人の国見さんです」
俺は何も感じていなかった。
「そして、決定的だったのが、勤務表です。先々週の木曜日、残業していたのは、殺された大沢達郎さんと国見多香雄さんだけ。1月からの勤務表を見ると、2人の残業の重なりが木曜日に多いのです。まあ、偶然だと思いますが、その重なりが国見さんに疑惑を与えた。
駅の防犯カメラで国見さんを確認し、一人暮らしの彼の家のゴミ箱で返り血のついた背広を発見すれば、証拠だけで逮捕出来ます」
「さすがです。東京で何か困った事があれば、この柿崎直央に言って下さい。全力でサポートします」
「詳しい報告書は、福島に帰ってから作成して送ります」
「今の説明で十分です」
「いいえ、これも仕事ですから・・・」
俺と森川さんは深々と頭を下げると、部屋を退出した。車で東京駅まで送るという柿崎会長の申し出は、森川さんが丁寧に断った。
「これから、大沢花奈さんの自宅に行くので・・・」
1階の受付で、俺は受付の村上さんと言葉を交わす事が出来た。
「上手になってきたね」
森川さんが笑う。何が上手になったというのだ。
武蔵小金井駅に着くまで間、森川さんのスマホが震える。
「熊田忍警部からだ。国見多香雄に任意同行をかけたら逃走したそうだ。捕まえたらしいがね。彼の自宅にあった靴とゴミ箱にあったワイシャツからルミノール反応が出たらしい。その事を国見に問い詰めたら、すんなり自白したと報告が入ったよ」
森川さんの推理に間違いはない。
「森川さん、大沢花奈さんに何を話すの?」
「犯人が捕まった事さ」
武蔵小金井駅からの道筋、森川さんは浪々をしていた。
少しやつれた大沢花奈さんは、玄関を開けた。
「中にどうぞ」
森川さんは辞退した。
「大沢竜郎さんを殺した犯人が捕まりました。そのうち武蔵野警察署から連絡が入るでしょう」
花奈さんの目から涙がこぼれた。
「あなたと文通した最後の手紙を密かに読んで、竜郎さんの浮気と勘違いし、井の頭公園で待ち伏せして殴ったようです。会社の1つ上の先輩が、彼をうらやましく思っての殺害です」
「結婚なんて何がうらやましいんだか・・・。森川さんには全て、分かってしまったのですね」
「そうでもないです」
「何が決め手でした?」
「奥さんの部屋の雑誌です」
「全て燃やせば良かった」
「私は罪に問われるでしょうか?」
「亡くなった夫をそのままにして・・・凶器の指紋を拭いて・・・」
「私にはわかりません。そのうち警察が来るでしょうから、正直に話してみてはどうですか?警察もわかってくれますよ」
「なぜ、主人はいきなり会う事を決意したのだと思います?」
「今まで家庭を顧みなかった事を謝ろうとしたのでしょう」
すると、花奈さんはその場に崩れ落ちた。
俺達は中央本線に乗った。
「国見さんの部屋から、箱に入った銀の指輪が見つかったそうだ。大沢さんが奥さんへの謝罪の気持ちのプレゼントとして準備した物だろう。今、熊田警部からメールが来た」
「銀の指輪ですか・・・」
そんな事で世の中の奥さんは納得するのか。
「それに、大友花奈さんが井の頭公園に行った事は、報道には公表しない方針だそうだ」
俺は思いきって、森川さんに提案した。
「すぐ帰りますか?森川さん」
「東京で遊びたいのか?」
「いいや、そこまでは・・・。最終ぐらいで帰りませんか?」
「いいよ。じゃ東京駅に9時に。それからお土産でも買おうか」
俺はすぐスマホで残りの時間どうするか計画を立てた。森川さんも1人で東京をゆったりするのはまんざら、嫌でもないらしい。それとも、昨晩の続きなのか・・・。俺は、昨晩、ホテルの部屋に戻ってきた時、森川さんが部屋にいなかったことを知っている。
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