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第1話 モノトーンの世界
「やっと終わったな……」
姫宮家の大黒柱、四十二歳。会社員の姫宮道隆は、喪服のままリビングの片隅、窓際の日の当たる絶好の位置に置いてあるマッサージチェアに座ると、目をつぶり、誰に言うでもなくつぶやいた。
色々機能が付いているほぼほぼ最新型のこの黒いマッサージチェアは、約二年ほど前に、祖父・姫宮道幸の専用席として買ったものだ。
ここに座ってマッサージを受けながら、日向ぼっこをしつつ日がな一日テレビを見るのが道幸の日課だった。
だが、使ったのはたった一年。
買って一年で道幸は他界した。
道隆は右手で液晶のコントロールパネルを触った。
パネルはさすが最新型だけあってタッチパネル方式な上に、ちょっとしたタブレット並みの大きさがある。
だが、たった一年では使い込むところまで行かなかったのか、買ったときから貼ってあった薄手の液晶保護シートは貼られたままだ。
――高い買い物だったからついつい購入決心に時間が掛かってしまったけど、こんなことならもうちょっと早く買ってやれば良かったな。お袋もそうだ。親孝行なんて全くしてやれなかった。俺はいつも遅い。いつだって、そうして取り返しがつかなくなってから後悔するんだ。
道隆は一年前に亡くなった父に、そしてそれを追うようにして亡くなったばかりの母に、思ったほど親孝行をしてやれなかったと、深い後悔を抱いていた。
「疲れましたね」
喪服のままお茶を淹れた道隆の妻、姫宮和美・四十歳は、ふと湯飲みが一つ多いことに気付き、疲れた顔で苦笑いを浮かべた。
もう湯飲みは三個でいいのに、亡くなった義母愛用の湯飲みまで出してしまった。
祖母・姫宮杏樹が亡くなって一週間。
怒涛のような一週間があっという間に過ぎ、今日、葬儀告別式を終えた。
もう義母・杏樹はいない。
にも関わらず、身に染みついた習慣というやつで、杏樹の分も湯飲みを出してしまった。
和美は目をつむり、凝りのせいで痛むこめかみを押さえながら、一週間前の朝、杏樹の亡骸を見つけたときのことを思い出した。
朝、なかなか起きて来ない杏樹を起こしに行って、亡くなっていることに気付いたのだ。
元々重度の無呼吸症を患っていたのだが、補助具を着けると違和感でかえって眠れなくなるそうで、杏樹は機械の使用を断固拒否していた。
そして、睡眠中のこの呼吸器不全が原因で、杏樹は一週間前、突如帰らぬ人となった。
――呼吸保護具の件、もっと強く勧めておけば、義母はこんな早く亡くなることもなかったかもしれない。そのせいで亡くなった瞬間を看取ってやることさえできなかった。自分は姫宮家の嫁として、どうしてそこまで見てやれなかったのか。
和美は密かに自分の至らなさを気に病んでいた。
「お家、ガランとしちゃったね……」
喪服のままソファに寝転がった十二歳の小学六年生・姫宮歌音は、こうやってソファに寝転がっては、だらしないと祖母にいつも怒られていた。
祖母は厳格で、優しい人だった。
孫だからといって無条件に甘やかすのではなく、悪いことをすればキチンと叱る人だった。
だがそこには愛があった。
祖父は甘やかし、祖母が締める。
二人して役割を演じていたのだろう。
――勉強もできない。運動神経も悪い。お世辞にもお淑やかとは言えないガサツなわたしは、お祖父ちゃんにもお祖母ちゃんにも呆れられてたんだろうなぁ。
歌音はソファに突っ伏しながら、優しかった祖父母を思い出し、小さく泣いた。
◇◆◇◆◇
そんな訳で、ここ数日姫宮家では嵐のように家の中がバタバタしていた。
原因はもちろん、一週間前に亡くなった祖母だ。
一年前、祖父が亡くなってからめっきり老け込んでしまった祖母は、生前から『もう充分生きた』とか『お祖父ちゃんに会いたい』とか口癖のように言っていたから、祖父の死からちょうど一年遅れで亡くなるというこの人生の幕の引き方は、まずまず望み通りだったんじゃないかと思う。
ともあれ、亡くなった当人はいざ知らず、残された家族には悲しみより忙しさが先に、怒涛のように押し寄せるものだ。
朝起きて来ない祖母の様子を見に行った母の悲鳴を皮切りに、警察と医者がドヤドヤと押し寄せ、検視と検死が行われた。
当然、父は会社を休んだし、歌音も学校を休んだ。
初日こそ、突如訪れた非日常に興奮した歌音だったが、祖母がもういないという現実に打ちのめされて、近所の葬儀会場に祖母が運ばれるまで、和室に置かれた祖母の亡骸の横でずっと塞ぎ込んでいた。
そしてお通夜、葬儀告別式、納骨式、初七日、四十九日と、遠方からでなかなか来れない弔問客のことも考え、やるべき行事をフルセット、濃縮してやり切って、つい先程、姫宮家の面々はようやく自宅に帰って来た。
この一週間、とても長かったが、これでようやく一区切りがついたのだ。
◇◆◇◆◇
「パパ? ママ? お昼寝するならせめて喪服脱ごうよ」
疲れのせいか、いつの間にか眠ってしまっていたらしい歌音は、起き上がって伸びをすると、両親に話し掛けた。
だが、父はマッサージチェアに座って目をつぶったままだし、母は母で、テーブルに突っ伏したままだ。
一週間分の疲れがドっと出たのか、二人ともピクリとも動かない。
「二人ともしょうがないなぁ。……ちょっとパパ? ママ? 喪服がシワになっちゃうよ? ……なにこれ?」
父と母を揺り動かした歌音は、両親の異変に気が付いた。
両親の身体が灰色で、硬い。
まるで石にでもなったかのようにびくともしない。
「パパ! ママ! 起きて! パパ! ママ!」
返事が無い。
両親の身体は、まるでお地蔵さんのように完全に石化している。
歌音は、顔を真っ青にして立ち上がった。
歌音がよろけながら周囲を見回すと……色が無かった。
白と黒と灰色。世界からそれ以外の色が消えている。
歌音の視界に移る全てのものが、モノクロ映画のように色を失っていた。
目をこする。
歌音は、強いストレスが原因で喋れなくなったり歩けなくなったりするという話を聞いたことがあった。
それと似たような症状が現れたのかと思ったのだ。
だが、視界のモノトーンに関してはそうであったとしても、両親が石に変わっている状況は説明できない。
歌音は慌てて家の中を走り回った。
壁も、床も、階段も、机も椅子もテレビも冷蔵庫も。
家の中の全てものから色が消え失せていた。
歌音は半狂乱で家の外に出た。
自転車に乗って走ったが、どこまで行っても世界はモノトーンだった。
空も、地面も、近所の家々も、全てがモノトーンで、公園に行っても商店街に行っても人っ子一人いなかった。
駅にも、派出所にも、コンビニエンスストアでさえ人の姿は無かった。
町で人を一人も見つけることができなくて、絶望感に包まれつつ自転車でトボトボ自宅近くまで戻って来た歌音は、何気なく家の裏の神社を見た。
そこに、モノトーンの世界になって初めて歌音は、人影を見つけたのであった。
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