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「栞の……いえ、娘の命の恩人だというのに失礼しました。私はこの子の母親で斎藤美佐子と言います。あの、それで、まずはあなたのお名前を教えて頂いても?それと、何かお礼がしたいんですが……」
「いえいえ、お礼は結構ですよ」
「そんな……!でも、それじゃあ私の気が……」
「僕らはそもそもそんな名乗るほどの者じゃあないんです。ただの通りすがり。見たままのしがないサラリーマンですから」
「しがないサラリーマン……そんな風にはとても見えませんが……。そうですか……」
少し困ったような美佐子の顔を街灯の明かりがぼんやりと照らしている。その彼女の顔を見ていると、宮瀬は不思議な気持ちになった。
この困った顔、どこか見覚えがあるような……と、宮瀬が考えていると美佐子が急に「あっ!」と声を上げた。
「そうだ!なら私の店に来てください!私の主人がこの近くでイタリアンレストランを営んでいるんです。そこでうちのフルコースをご馳走させてください!それがお礼の代わりという事で!」
そう言って今度は向日葵が咲いたようにぱっと明るく笑う。そんな美佐子の笑顔に宮瀬は彼女に良く似た女性を頭に思い浮かべた。
「嫌とは言わせませんよ?これでもうちは隠れた人気店なんです!雑誌にも載った事だってあるんですから。遠方から来てくれるお客さんも多いし、休日のランチはそれりゃあもう大忙しで。それに――」
大きな黒い瞳、この眩しいぐらいの笑顔……。そして、“美佐子”という彼女の名前”……。
胸の中に懐かしさがこみ上げる。一度捨てた里――もう戻る事はないと決心して彼は飛び出した。そこで共に暮らした家族も彼は捨てた。しかし、独りになれども血の繋がった家族を思わなかった日は無い。
そうだ、間違いない……!
宮瀬は細めていた翡翠色の目をはっと見開いた。
その時、彼の瞳を見た途端に美佐子の明るい声が急に止んだ。さっきまで向日葵のようだった笑顔は凍り付いている。
彼女は両手で口を覆いながら淡く光を帯びた翡翠色の瞳を怯えた表情で見つめながら彼に尋ねた。
「…………その瞳……どうしてあなたが……?」
そう言って狼狽えたようにジリジリと後ずさる美佐子に宮瀬は答えた。
「………僕は、あなたと同じ宮瀬家の人間です。でも、それはもう過去の話で、僕は随分前に里を捨てました。それまで面倒を見てくれた父と母、それに優しかった2人の姉も裏切って……。僕は、そこから逃げ出したんです……」
「…………あなた……まさか……」
もう肉親には会えないと思った。もう“二度と会わない”と誓った。
その決別を胸に、彼は里を去り独りで生きて行くことを決めたのだ。
「……お久しぶりです……“美佐子姉さん”……」
「……千弘……?」
それは、何年振りかの家族の再会。しかし、里に残された側にもそれなりの言い分はある。
――――バチンッ!
乾いた音が辺りに響いた。
「はぁ……はぁ……はぁ……あんたのせいで、あんたのせいで父さんと母さんは……!!」
美佐子は忌まわしそうに顔を顰めて宮瀬を睨んだ。
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