00. 序章

1/1
1286人が本棚に入れています
本棚に追加
/241ページ

00. 序章

沙耶(さや)ちゃんにはたくさん迷惑かけてごめんね。沙耶ちゃんは強いから1人でも生きて行けるとは思うけど、もし誰かと一緒に生きていきたいって思った時は、相手のこと、ちゃんと見極めてね。お母さんみたいなことにはならないようにするのよ」  それがお母さんが私に残した最後の言葉だった。お母さんは、好きになった人を一途に想う人だった。だけど相手が悪かったと思っている。その結果母娘でつらい思いをすることも多かったし、私は父のことを憎んでいる。  それが原因なのか、恋愛を、人を恋愛対象として見ることに恐怖心を抱くようになってしまった。一定の距離を超えて近づいてくると手の震えがおこったり寒気がしたりするので、恋愛対象になるかどうかを考える前に、パーソナルスペースに入り込んできそうな人については少しずつ距離を置くようにしている。だから結婚どころか恋愛にだって興味を持つことは無いまま、気がつけば20代も後半に差し掛かろうとしていた。なのに、今私の目の前には離婚届が置いてある。妻の欄には私の名前の記載を終えている。  だけど、これはすぐには使えない。人生を共に歩みたいから結婚したのならもう一緒にいられないとなった時点で離婚に至るけど、私たちは最初から人生を共に歩むつもりはなくて、お互いの目的のために一緒にいる。目的が達成できていないのに一緒にいたくないから離婚だなんて単なる我儘でしかない。  左手におさめられている銀色に輝く指輪は、少し隙間ができていて一見すぐに落ちてしまいそうなのに、薬指の第2関節が確実にそれを阻んでいる。今の私の状況を表しているようだった。  私はため息をひとつついてからクローゼットの中を見渡した。明日からは新しい現場なので、事務作業ではなく立ち仕事が多くなる。動きやすい服を見繕って、椅子の上に置いておく。きっと今日も彼は遅くなるはず。さっさと寝てしまおうとベッドに入った。
/241ページ

最初のコメントを投稿しよう!