仕事しろ!

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仕事しろ!

“今までの生活を変えない”約束をした ふたりは、同じマンションの上下に住んでいても、それぞれの勉強に集中して、 静夫が日本に居る時と変わらない毎日を送っていた。 大学への登下校や買い物などの外出には静夫が必ず同行することだけが、 以前と違っていたが。 ある日、潤子から “今朝言い忘れたんだけど、 月一でチューターに会うことになっていて、明日がその日なの。 どうしたらいい?” とlineが来た。 “僕が代わりに行くから、時間と場所を教えて。 相談したいことは特にないんだろ?” “うん。 学生棟の1FのK大学トロント事務所で17時” “了解” 翌日、講義が終わると、静夫は K大学トロント事務所に向かった。 コンコン 「失礼します。 私、交換留学生の波木潤子の夫で波木静夫と申します。 今日、潤子がチューターの榊原さんとの 面談の日と聞いたので、彼女の代わりに参りました。 お話ししたいことがあるので、よろしければ所長さんも同席していただきたいのですが。」 「波木さんのご主人? そうですか。 一応、身分証明書を確認させていたいだいてもよろしいですか?」 「日本の運転免許証でいいですか?」 「結構です。」 パソコンの波木潤子の情報と照らし合わせて、 「ありがとうございます。 では、面談室に、どうぞ。 榊原は、中に居りますので。 私も、直ぐに参ります。」 コンコン、ノックしてドアを開けると部屋から声がした。 「潤子さん、お待ちしてました。 lineに既読も付かないし返信もないので、心配してましたよ…どちら様?」 「初めまして。 波木潤子の夫の波木静夫と申します。 少し前に私もこの大学のビジネス英語研修コースに留学しまして、今回から面談は潤子に代わって私が参りますので、よろしくお願いします。」 と、挨拶しながら名刺を出した。 「よろしければ、榊原さんのお名刺をいただきたいのですが。」 「あ、失礼しました。 チューターの榊原と申します。 潤子さん、いや波木さんが結婚されてたとは…」 「留学生の世話をするチューターが、 留学生の家族を把握してないんですか? 何百人も居るわけでもないのに。」 皮肉られて、榊原はばつの悪そうな顔をした。 「面談は、本人でないと、困りごとの中身が又聞きでは把握しづらくなるんですけどね。 他の人がいると本音を言えなかったりもしますから、1対1で面談してるわけですし…困ったなぁ。大学に報告書を出さなきゃいけないんですよね。 波木さんは、交換留学生で奨学金も出てるので。」 と、そんなことを言いながら、何とか潤子とふたりで会う口実を作ろうとしている様子が見て取れた。 と、その時、所長がコーヒーを持って部屋に入ってきた。 「お待たせしました。 インスタントでスミマセンが、どうぞ。」 「ありがとうございます。 今、榊原さんから本人でないと面談の報告書が書けないと言われたのですが、 そうなんですか、所長さん?」 「まぁ、波木さんのような家族と一緒の留学は、大学生の場合は稀ですから、 基本本人と面談することになってはいます。 ですが、本人でなければダメという訳ではありません。」 「それでは、これからは面談は基本的に私が参りますのでご承知置き下さい。 特に、今日ご相談したいことは、本人からは言いにくい内容なので、予めお伝えしないで私が参りました。 それと、言った言わないと水掛け論になっても困るので、話の内容を録音させていただきますので、よろしいですね。」 と言って、テーブルの上に録音機を出してスイッチを入れた。 「なぜ、録音を?」 「これからの波木潤子の留学生活において、大事な相談をするので、先ほども言ったとおり、言った言わないという事にならないための証拠として必要だからです。 それとも、録音されたら不味いことでもおありですか?」 「プライベートの相談が外に漏れるのは…」 「私は、恋人ではなく潤子の夫ですが…。妻の相談事を、夫が外に不必要に漏らしませんよ。 必要があれば、証拠として相応の所に提出する事はあるかもしれませんが。」 「確かに、波木さんの仰る通りです。 それで、相談されたい事は、何でしょう?」と所長が言った。 「これを御覧下さい。 妻の携帯の通話記録とlineの履歴です。」 「失礼して、拝見します。 これは…榊原君、どういうことかな…?」 「…」 「所長さん、これは、ストーキング行為、 セクハラ行為の証拠と私は考えますが、 いかがですか?」 「いや、監督不行き届きでお詫びいたします。 ですが、榊原は面倒見が良いと留学生から感謝されることも多く、決して ストーキング行為ではなく、親切心が過ぎただけとご理解いただけないでしょうか。」 「それは、無理でしょう。 潤子は、相談したくても言い出せない内気な人間ではありません。 lineにもあるように、プライベートの買い物などは自分でできるので同行不要と書いてます。 困った時は、自分から相談するので、電話をしないでくださいとも書いてます。 それなのに、何度も電話をなさるので、 着信拒否に設定したのです。 私がこちらに来てからは、lineもブロックしています。 私が来た時、彼女は不安で勉強が手につかない状態でした。 彼女の出席状況を把握されてますか? 榊原さん? チューターなら、大学に確認出来るはずですし、ほんとうに面倒見が良いのであれば、講義に出ているか、勉強は問題なく進んでいるのか、それを把握し、問題があれば解決に動くことがチューターとして第一の仕事と考えますが、いかがですか?」 「スミマセン。欠席が続けば連絡が来るので、出席されていると思ってました。」 「それでは、何のために度々潤子に電話をしたりlineをしたのですか? チューターとして一番肝心な、学習の サポートをしないで、何をしようとされたのか説明していただけますか?」 「それはですね、慣れない環境にまずなじめるように、大学内や街を案内したり、 気分転換や息抜きも大事じゃないですか。 波木さんは特に真面目で、留学当初から講義が終わっても図書館に籠もっていたり、勉強ばかりされていたので、 街に出て買い物したり現地の人と会話した方が、楽しく英会話も習得できると思いまして…。」 「榊原さんは、潤子の留学目的をご存知ないのですか?」 「えっ?目的?語学研修ですよね。 ですから、会話を…」 「潤子は、日常の英会話程度なら不自由しないはずです。 彼女の留学目的は、英会話の習得ではなく、英語論文の読解力をつけることと英語で論文を書く技術を習得することです。 ですから、大量の英語論文を読んだり、書くことが必要なんです。 講義が終われば、図書館に籠もるのは、当然です。 所長さん、榊原さんが面倒見が良いと仰いましたが、具体的にどんなことが評価されているのですか?」 「それは、先ほど榊原も申した通り、大学や街に馴染めるように案内したり、細々と面倒な手続きを助けたり代わりにしたり、まぁそういうことです。」 「留学当初はある程度そういうサポートも必要でしょうが、会話力を付けるには、返って自分で試行錯誤して苦労した方が良いのではないですか? まさか、コンパとか遊びのセッティングをマメにしてくれるとか、そんな事じゃありませんよね。」 「若者の民間交流と言う意味で、現地の学生と交流することも留学の目的にはかなうと思いますが…」 「そうですね。若者の民間交流は、大事なことです。国同士がいがみ合っていても、草の根の交流があれば、道は拓けますからね。 ですが、私が耳にしたのは、現地の学生とではなく、日本人留学生だけで集まって飲み会やレジャーをしていると。 違いますか?」 「それは、恐らく留学生仲間が連絡を取り合って、自分たちでやっているのかと…」 「そうですか。私が聞いた話では、そういうセッティングを榊原さんに頼むとやってくれるので、楽しかったと。 現地の学生との交流の場を用意してくれたという話はなかったですね。」 「それは、年に何度かは、留学生仲間で楽しむ場を提供するようにはしてます。 頑張ったご褒美とか、これから互いに頑張ろうということです。」 「そうですか。 K大学のチューターは、学習サポートより、仲間作りや遊びのサポートをメインにされているということですね。 それでは、今後、月一の面談は、潤子には必要ないので、連絡は不要です。」 「いや、それは困ります。大学に報告書を出すことになっていますから。」 「学習サポートもしないで、何を報告してるのですか? 私が来る前の二週間は、教授に頼んでオンラインで講義を受けていました。 大学に来ると、榊原さんに待ち伏せされるからです。 今は、私が必ず同行するようにしているので、出席していますが。 所長さん、私は、妻が波木潤子が、ストーカー被害に遭っていると認識しています。 どのように対応していただけるのでしょうか?」 「申し訳ありません。即答はしかねます。大学の学生課とも相談して…」 「正直に申し上げれば、榊原さんが トロントにいる限り、彼女はひとりで買い物にも大学にも行けない状況です。 所長さんが早期に手を打てないのであれば、こちらで警察とK大学に、 直接被害届を出しますが。 榊原さんは大学の理事のご子息とか。身分は職員ですか?それとも大学院生? 留学生を指導できる立場なのですか? とにかく、早急に善処して下さい。 今日中に、一度進捗状況をご連絡下さい。 私のメールアドレスです。 電話ではなく、文書でお願いします。 それと、これはK大学の学生課に送る予定の『要望書』の控えです。 それでは、私はこれで失礼します。」 そう言いおいて、面談室から静夫は出て行った。そして、事務所を出るとそこで立ち止まり中の声に耳を澄ました。 「『要望書』まで用意して。周到だな。 榊原君、だから以前から女子学生に必要以上に構ったり、コンパや遊びの世話などするなと言ったのに… 参ったな…。とにかく、後はなんとかするから、君は日本に帰りなさい。」 「あ、所長。携帯と録音機忘れてますよ。 上に『要望書』を置いたから…。 録音消しますか? 携帯の履歴も消せないのかな…」 「辞めた方が良い。そんなことをしたら、バレるに決まってるだろう。シラを切り通すことなんか無理だろう。」 その時、コンコンとドアを叩く音がして波木静夫が戻ってきた。 「スミセン、潤子の携帯と録音機を置き忘れてました。」 「今気付いてお知らせしようと思っていたところでした。」 「そうでしたか。ありがとうございます。 でも、内緒話は、もっと小声でしないと。 日本語が分かる人がいないとも限りませんしね。良からぬ相談など止めて、 どうぞご自分のお仕事をなさって下さい。 おっと、録音機のスイッチも入ったままでしたね。」 と、ふたりの目の前でスイッチを切り、ポケットにしまった。 「お邪魔しました。」 静夫が立ち去る足音を確かめてから 「榊原君、すぐ日本に帰る準備をしなさい。身の回りの物だけ片付けて、 明日にでもトロントを離れるんだ。 大学に知られたら、不味い。 チューターの後釜はなんとでもなる。」 「何で俺が…。 あの女子学生を帰せば済むことでしょう?」 「忘れたのか、彼女は私費留学じゃなくて、試験に合格してる交換留学生だ。 何の理由もなしに帰せるわけがないじゃないか。」 「じゃあ、あの旦那の方を帰せば良いんじゃないですか?」 「ご主人は、K大学の学生じゃない。直接この大学の語学研修コースに入学してるのに、どうしようもないだろう?」 「分かりました。じゃ、俺は帰ります。後はよろしくお願いします。」 「ネットにデマをながそうとか、くれぐれも、変なことをするなよ。 証拠を握られてることを忘れるなよ。」 「はい。」そう言ったものの、忌々しく、日本に帰ったら、理事である父親に話して、一矢報いてやると思った。 おわり
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