恋と鬱

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恋と鬱

2015年  6月初旬 雨の降る夜だった。 夕方に激しい夕立が降ってから、雲は不気味に発達し上空からの湿った空気で、地上にも重たい空気が積み重なっていた。 信は度々やってくる頭痛と闘いながら、重い頭を抱えてようやく仕事を終えると帰路についたのは午後10時を回っていた。 人はそれなりにはいたが、混雑しているというほどではなかった。 新橋の駅の改札に向かう途中、雨は小降りになっていたが傘を忘れたために早歩きで家路へと急いでいた。 すると、突然、雷鳴にでも打たれたかのような激しい頭痛に見舞われた。 金属音の嫌なキーンという音が脳内に響くと共に、信は頭の側面をぎゅうぎゅうっと締め付けられるような痛みで、思わずその場にしゃがみ込んだ。 夜の誰もが家路を急ぐ駅前で、誰かが足を止めてくれる気配もなく、彼は跪き頭を両手で抱えた。 しばらくすると、徐々に痛みの波は引いてはいたが、まだ立ち上がる気力も持てずにいると、上から優しい声が降ってきた。 「あの、大丈夫ですか?」 女性の声だった。 信は俯いたまま頷いた。 上手く返事出来ずにいると、今度は視界の端に赤いエナメルのパンプスが見えた。 やっぱり女性なんだなと思いながら、上を見上げた。すると、しっかりめにメイクをした美しい女性の顔があった。 彼女は中腰になると、再び尋ねてきた。 「大丈夫ですか?」 「はい、ありがとうございます」 「立てそうですか?」 「はい」 信が返事をすると、彼女は彼の右腕をスッと手に取り、人気のない場所へと引っ張ってくれた。 それから、持っていた鞄の中から、あるものを探して取り出すと、信にその小さな箱を手渡してきた。 「これ、良かったらどうぞ」 信がそれを受け取ると、それは痛み止めだった。 「ちょっと待ってて下さい」 彼女はそう言うと、小走りでどこかへ行ってしまった。 信は手渡された箱に書かれている説明書きを見た。 市販のよく見る痛み止めのようだった。 そうして、1〜2分程度たった頃、彼女は透明のペットボトルを片手に信の元へ戻って来た。 「これ、どうぞ」 信はその時彼女を初めて真正面から見た。 目が覚めるような美人だった。 185近くはある信から見ても背は高そうに見えた。ハイヒールを履いてるのもあって170は優にありそうだった。 髪は艶やかな黒髪のセミロングで、肌は白く透明感があった。大きめの目は少し目尻の下がったアーモンドアイ。鼻筋はしっかりと通っていて、キュッと結ばれた口角と、唇には靴と同じような発色の良い紅いルージュが引かれていた。 服装はのリブ編みの赤いニットに、同系色や紫の花柄がプリントされているどこかのブランドのものと思われるスカートを履いていた。 おまけに羽織っていたトレンチは、仕立てが良さそうでシワもほとんどついてなかった。 信はそんな女性の登場に若干戸惑いながらも返事を返した。 「あ、わざわざすみません、ありがとうございます」 信は彼女から手渡された水を受け取ると、彼女は信が持っていた痛み止めの箱を手渡すように要求してきた。 「それ、貸して下さい」 「あぁ」 信は彼女から貰った痛み止めの箱を彼女に返した。 「頭痛ですか?」 「はい…雨の日はたまにひどく疼くんです」 「お辛いですよね。薬持ってますか?」 「持ってないんです」 彼女はそう言うと、箱から錠剤のシートを一枚取り出して二錠分を切り離した。 「飲みますか?ちょっとは楽になるかもしれません」 彼女はそう言うと、笑顔で信の右手を掴むと、その中に錠剤が2つ入ったシートを握らせた。 信は突然握られた右手に胸が高鳴るのを感じならも、それを受け取った。 「ありがとうございます」 いきなり大胆な人だなと思いながらも、貰ったシートから錠剤を取り出して、口に含んで水で流し込んだ。 「あまりに酷いと何かあるかもしれないので、病院行かれた方がいいですよ」 「すみません、本当に助かりました。そうします」 信がそう答えて頭を下げると、髪から水滴が落ちてきた。 「これ、良かったら拭いて下さい。さっき濡れてしまわれたみたいなので」 彼女はクスリと笑うと信にハンカチを差し出した。 信は若干気恥ずかしくなって来たが、それを受け取ると、濡れてしまった肩と髪を拭いた。 「いや、本当に何から何まですみません。今度お詫びに何かお礼させて下さい」 そう口から不意に出たのは、真心か、下心か彼にもそれは分からなかった。 しかし、彼女は首を小さく横に振ると軽く頭を下げて、走り去って行った。 突然のことに、信が呆然としていると、うっかり右手に持っていたハンカチを返しそびれた。 我に返って、信は慌てて彼女の背後に投げかけた。 「ハンカチ!」 彼女はちょっとだけ立ち止まって、振り向くと、微笑してあげますと答えてくれた。そして、その後は振り変えることもなく去って行った。 6月の雨降る夜。 JR新橋の駅前に取り残された信は、ちょっと湿った彼女から貰ったハンカチを片手に握りしめて、あることに気付いた。 自身の心と身体が渇ききっていたことにーーー
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