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10分後。
葵は裕一から連絡を貰って、店の近くのコンビニに向かうと彼はいた。
「ごめん」
「いいえ」
「じゃあ、行くか」
葵は隣にいる裕一の機嫌を確かめるようにチラチラと視線を送っていると、裕一が訝しげに尋ねて来た。
「どうかした?」
「いや…なにも」
葵は慌てて否定した。すると、裕一が歩きながら笑顔で尋ねて来た。
「市ノ瀬、営業は初めてなの?」
「はい」
「ツアーの企画とか、添乗もやったことあるんだっけ?」
「企画がメインで販売を少しだけ。添乗というか海外勤務はここに入社する前に少しだけ」
「新卒じゃないの?」
裕一は驚いた様子で聞き返して来た。
「2年ほど輸入貿易の会社に勤めていて、東南アジア中心に営業だったり、現地の人達とイベント企画したりしてました」
「へぇー。現地に住んでたんだ。それは強いな」
「はい、インドネシア数ヵ月とフィリピンに1年ちょっと。セブ島やリゾートで有名な島にも何度か行きました」
「ふーん。なんで旅行会社に転職したの?」
「元々世界の文化や郷土料理に興味があって、大学時代アルバイトで海外勤務の求人探したら、たまたまヒットした会社があったんです。それが東南アジア産のフルーツとか農作物輸入してる小さな会社で営業のアシスタントとして現地に行けるバイトスタッフ募集してたんですよね。それで大学を1年留年して、4年の時に向こうに渡りました」
「不安じゃなかったの?留年するのとか…」
「実は一度就活したんですよね。でも、しっくり来なくて、大企業行きたいとかもなかったし、やりたいことも明確にない。なんかだんだんエントリーシート出すのも億劫になってしまって一度辞めちゃいました。それに、大学生のうちって割と人生に融通効きますよね。社会人になってからの方が正社員で勤めてしまうと自由もないし、学生の間にやりたいことやり終えないと逆にその後の人生後悔しそうかなって、そんなこと考えててぼんやり海外で働いてみようかなって考えたのがきっかけでした」
裕一は淡々と葵がそう答える隣で不思議そうに顔を顰めていた。
そりゃ、葵のような考えは一般的ではないのかも知れない。
「すげーな、お前。それでどうだったの?」
「バイトですか?楽しかったですよ。日本と気候も文化も違うし、なんか時間のペースも全く合わなくてまるでゲームの世界に放り込まれたような感覚はありましたよ」
「へぇ。帰って来てからはそこに就職したってこと?」
「えぇ、まあ就活するのも面倒でしたし、ギリギリ一人暮らし出来そうな給料だったしそこにしました」
「ふーん。そうか」
裕一は感慨深そうに頷いた。彼は今葵の話に興味深そうに耳を傾けてくれていた。葵が自身の経歴を話すのは実は少し勇気がいった。
社会には色々な背景を持つ人がいるとはいえ、大体の人間は社会人になると会社に勤めて生きることを正しいあり方と捉え、その道を外れた人間に対してどこか冷ややかな視線を投げかける。
だが、そうして社会で正しいとされる人物像に順応したとして、何かのタイミングでふと自分の人生の方向性を見つめ直す人間がいるのも事実だ。
葵とて正社員というステータスに安心感を覚えているのもあるし、でも完璧に会社のために人生を捧げるほどの覚悟があるわけでもない。
そういう矛盾を抱えながら葵は働いていた。でもそれは裕一も同じなのかも知れない。
裕一がどんな人間なのか?
葵にはそれはまだ分からない。
でも、今の会話で少しだけ仕事に対するモチベーションが上がったのも事実だった。
葵はそんなことを考えながら、足早に訪問先に向かっていた。すると、裕一が急にビルの物陰に隠れて、そこにあったガラスを見ながら、身だしなみを整え始めた。
「市ノ瀬」
「はい」
「今から行く企業の担当者、一見愛想良さげで饒舌なんだけど、かなり疑り深い人なんだ」
「はい」
葵はさっきまでとは違って目付きが戦闘モードの裕一を前に背筋が伸びた。
「挨拶終わっても、最後まで気抜くなよ。行くぞ」
葵は首をしっかり頷かせると、自分のネクタイを締め直して、裕一の後に続いた。
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