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彼女はウェイターが去るのを見送ると、小さくため息をついた。
「ところで今月分、まだ頂いてないけど」
「あぁ」
男は頷くと足元に置いてあった鞄から封筒を取り出した。
「いや、君のおかげで先月もよく稼げたよ。ありがとう」
男は満面の笑みで彼女を労うように伝えた。
彼女はそんな彼を一瞥した後、スッとその封筒に右手を伸ばすと中身を確認した。
そして一枚メモを取り出すと、中身を確認した。
「今気になってるのがその数社かな。あんまり詳しくは話せないけど、今月もノルマ達成するには、ちょっと厳しくて俺も立場上部下には負けてられないから」
彼女は彼を見ると、仕方なさそうに微笑み返した。
「しかし、今週もやっと週末かと思うとホッとするよ」
男はそう言うと、やれやれと言った様子で運ばれて来たメニューを開き始めた。
「そんなに毎日大変?」
「大変なんてもんじゃないよ。もういつまで続けるんだろうかって感じだよ」
「ふーん」
「君って前はシンクタンクかどっか勤めてたんだっけ?」
彼女は首を横に振った。
男を牽制するかのように睨み上げてから、前髪をスッと掻き上げると耳元にかけた。
すると、男はそんな彼女の耳元に人指し指をそっとあてると、親指で耳たぶを撫でた。
「ピアスしないの?なんか買ってあげようか?マリンブルーのワンピースだし、真珠とか貝殻のデザイン似合うんじゃないかな?」
「大丈夫、ありがとう」
男は彼女が遠慮がちに断るのを、少し残念そうに眺めてから、またメニューへと視線を戻した。
「何食べたい?ワイン飲む?」
「じゃあ、白ワイン」
「好きだよね、白ワイン」
「うん」
彼女はちょっとつまらなさそうに、そんなやり取りを続けると自分の人指し指のネイルが剥げているのを見つけてしまったようだった。
更に不機嫌になる彼女を前に、隣にいた男はその様子を伺う素振りを見せたが、彼女はそれさえ鬱陶しそうだった。
メニューを適当に選び、注文して料理が運ばれてくるまでの時間、相変わらず彼女は素っ気なかった。
男は手持ち無沙汰にスマホを取り出すと、アプリを開いて画面に何かを打ち込んだ。
それから、彼女の右肩をポンポンと叩くと、ちょっと申し訳なさそうにこう尋ねた。
彼女は振り向くと、小さく首を傾げた。
男は愛しそうに手を握ると、男は躊躇いがちに彼女に告げる。
「今日、妻残業みたいだ。いつもより時間あるけど、もう一件くらい行く?」
彼女は笑って誤魔化しておいた。
男は拒絶されてるわけじゃないと知れば、目を輝かせて再びこう持ちかけて来た。
「久しぶりにちょっとだけ付き合ってよ。いくらか払うよ」
「お金はいいよ。そこまでしなくていい」
彼女は男の申し出を断ると、男の手を握り返した。
場所を変えてからが本番。
そう大概の男が自分に望むものに、彼女はもう気付いていた。
有益な情報と体感できる悦び。
そのためになら、不倫、いや犯罪にだって手を染めてしまう生物なんだから、これほど始末が悪いものはない。
でも、そんな一方でどうにもなく愛しそうに見つめたり、髪を撫でたり、首元に顔を埋めて抱きしめられると、嫌いになれないのも事実だった。
行為の際に耳元で囁かれる名前もそうだ。
それが偽名でしかなくてもーーー
だから、また彼女は今晩も男の誘いに応じてしまっていた。
彼女に恋人はいない。
家族と呼べる存在がいるにはいる。だが、愛や絆とは無縁の存在だ。
毎月、何不自由なくお金だけを振り込んでくれて、たまに姿を見せたところで、名前を呼ぶことすらしない。
誰かに愛されたくて、誰かに求められたくて、ふらっとあの部屋から出ると東京の夜の街を散策しながら、たまにショッピングもする。
自分を必要としてくれる人以上に、自分が必要としたい人がいずれ現れないかと願いながら…
今日もそうならない男の上に跨り、自分の上体を小刻みに揺らし続ける。
単純な生き物だ。
こんな行為一つで満足出来るなら
幸福を味わえるならーーー
人間は簡単な生き物だ。
でも、そうじゃない
行為の後に残るのはちょっとの疲労感と虚無感と、言い現せない渇望だ。
言葉には出来ないけど、また同じことを繰り返してしまう自分自身への憤りと、不安だった。
男が彼女を抱きしめて果てきるまで、ぎゅっと目を瞑って耐える。
そして、彼女は自分の肉体を開放してくれた瞬間、ハッと我に返るのだ。
あぁ、また私は…
彼の身体から降りると、そのままシャワーへ向った。
いつまでこんなことを繰り返して、いつまでこんな生活を続けるのか。
シャワーから放出される温かいお湯が、火照った肉体を優しく濡らす半面、彼女の頬には冷たい涙が伝った。
「随分長い間シャワーに居たね?のぼせてない?」
彼女がシャワーから出て来ると、男は既に着替えていた。
彼女は、気にかけてくれた男の相手もろくすっぽせず、鏡の前に座ると唇に紅いルージュを曳いた。
そして、背後から様子を伺う男を鏡越しに睨み上げると、男に告げた。
「ねぇ、今日で終わりにしない?」
鏡の向こう側に見える男の顔色がみるみる失望に染まって行く。
どうやら、手なづけたと思っていた女が手に入り切ってなかったと思うと、男というのは苛立ちを覚えるらしい。
それもなんとなく彼女は学んだ。
だが、背後からきつく抱き締められたりすると少しだけ情が湧くのも事実だった。
でも、彼女は男が縋るように自身の身体に纏わりつけた腕を解くと告げた。
「俺の何がダメなんだ?」
悲壮感を漂わせて男はその場に項垂れると、頭を抱え込んだ。
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