悪夢の金曜日

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弥生は子供の喧嘩の話を振ってどんな返事を期待していたんだろう? それがまるで分からない 大体もう会話があまりない。 この夫婦において、いや日本の夫婦の大半が抱えているかも知れない悩みの一つがこれだろう。 彼らの間に子供が2人いて、名はそれぞれ優衣と隼斗という。しかし、今や信は子供には最低限の関心しかなかったし、なんなら妻も夫には無関心そうだった。 家族は共同体という最小限のコミュニティーにも関わらず、あまり関わりの薄い関係性しか築けないのは、現代においての家族の特徴とも言えた。 そして所謂二人は仮面夫婦と呼ばれる部類の人達だった。 ところで、そんな夫婦にとって最近頭を悩ませている問題が2つある。 それが経済問題と原発問題。 夫の信が経済問題に頭を悩ませる中、妻の弥生は原発始め、環境問題にばかり関心が高かった。 関心ごとが違うのは、それは普段生活する場所が違う以上仕方がないのかも知れない。 でも、これじゃあ家庭は崩壊しかねない。 そのはずなのに、もうこの状態に慣れた二人は家に居てもただの他人となりつつあった。 信は寝る準備をして先に寝室に戻ると、スマホ片手に経済ニュースやら時事関連のニュースに目を通していた。 別に特別関心の高いニュースなんてあるわけじゃないけれど、明日の朝までにとりあえずチェックしておくのが習慣だった。 明日は金曜日。 信にとっては、あまりこの時期の金曜日は嬉しいものではなかった。 それが、彼の頭痛を悪化させた一因でもあるからだ。 信の頭痛の一番の要因。それは会社が行っているリストラ政策だった。 どんなリストラ政策か。 有望な若手社員の力量を測る目的で絶望的なノルマを与え、実力を試す。 何でこんな政策やり始めたのか、信には当初分からなかった。 だが、少しだけリストラを行う上で気付いたことがあった。 これは、特定の人間をリストラしたいのではなく社員全体の士気を高める、いや圧力をかける方が目的なんじゃないかと信は思うようになった。 有望な若手が切られていく様は、見てて不安になる限りだろう。しかし、それで本当にみんなが仕事への意識が高まるのかなんて、極論謎だった。 ただ、中間管理職の信にとって、その目的はともかく仕事は仕事と割り切っていた。 あの日まではーーーーー 「なぁ平崎さん、あんたは俺を前に今どんな気分な理由?」 「・・・どんな気分って、何が聞きたい?」 「別に。ただ、俺が苦しんでたのはあんたも耳にはしただろうからさ」 「苦しめたかったわけじゃ・・・」 「ふんっ。あんたは良い人ぶってるだけで、なかなか薄情だよな。大体いくら、自分がリストラ決めてないとは言え、それを淡々と告げられるなんて、図太くないんじゃ出来ねーよ」 広瀬は最後の日、新橋の駅で隣を歩きながら、あっけらかんとして信に毒を吐き続けていた。 「広瀬、悪かった。なんの力にもなってやれなくて」 「あ?期待なんかしてねーよ。あんなノルマ達成出来るわけないんだし、あの日に俺の運命は決まってたんだよ。無駄に3か月も働かされて、本当に損した気分だわ」 「広瀬、お前はよく頑張ってたよ。俺が偉そうなことは言えないが、その経験は無駄じゃないはずだ」 信が広瀬を宥めれば、広瀬は怪訝にこちらを見つめ、嘲笑した。 「ま、確かにあの地獄が現実だとは知れて良かったよ。毎日、罵声浴びせられるし、ちょっとのミスも許されなくて、次から次へと仕事舞い込んで来て、休む暇なんてあったもんじゃない。 これならクビの方が、いや死んだ方がマシって何回思ったか。普通じゃないよ、あんなとこで働けるなんて」 信は広瀬のその言葉に彼自身も否定されたような気持ちになりながら、 彼にどうしても言ってやりたかった言葉を口にした。 「なぁ、広瀬。地獄でも天国でも、そこがなんであれ、一生懸命に向き合うことは、無駄なんかじゃないぞ」 広瀬は信の言葉に、立ち止まるとその言葉を馬鹿にしたように鼻で笑った。 「はっ。その言葉って結局はそういい聞かせて、自分を肯定したいだけだよね。足掻いたところで何にも変わらない状況で、思うように結果の出せない現状を受け止められずに自分を鼓舞したいだけだよね。 この社会じゃ過程なんて評価されない。結果。それが出せなきゃ意味ないんですよ」 信は広瀬が吐いた正論に何も言い返せなかった。 そうだ。社会人になると気付くが、過程が評価されることは、結果が伴った時だけ。 学生時代、あれほど頑張ることは大事だとか、過程を大切になんて言われたが 結局なんの成果も出ないのでは、過程だけを評価されるなんてことは ほぼ皆無に等しい。 信は月並み以上の言葉を掛けてやれない自分を情けなく思うと同時に、そんな当たり前のことを今更彼に諭そうとした自身を恥ずかしく感じた。 「なぁ、俺は生きてる以上あんたを恨み続けると思う」 広瀬は階段を上りながら、信に振り向くと言った。 「恨めばいい。それを糧に生きられるなら。好きなだけ恨めよ」 信はそんな広瀬に対して宥めるよう答えた。 すると、広瀬は立ち止まり、心底呆れたように信を見下ろした。 「つくづくお人好しだな。あんた見てると吐き気がするよ」 お人好し? 馬鹿言っちゃいけない 家族だなんだ理由をつけて 結局は自分の立場を捨てられない 俺はそんな弱い人間なんだよ じゃなきゃ こんな仕事引き受けるわけないだろう 信は広瀬の顔を見ながら、彼に対して何もしてやれないのに、今こうやって隣にいる自分の図太さに胸を痛めていた。 時は戻せない。 それでもたまに考えてしまう。時間が戻せるなら、もう一度その時に戻り、違う道を模索出来ないかと 人間とは実に愚かしい。 自分の判断や行動に絶対的な自信など誰も持てないことは承知で、同じことで度々悩んでしまう。 広瀬、ごめん・・・ 信は声には出さなかったが、申し訳なさそうに頭を下げてから、顔を上げ再び彼を見つめた。 そう、その目線に謝罪の意を込めて。 すると、広瀬は3段上にいた階段を2段降りて来て、信に顔を近付け食い入るように見つめ、質問してきた。 「なぁ、人って何のために生きてると思う?」 信は唐突な広瀬の質問に、驚いてしまったが、目線を下げると思考を巡らせた。 帰宅ラッシュの時間はとっくに過ぎてはいた。だが、まだまだ人の絶えない駅のホームに続く階段で、利用客達は二人の存在を無視するように、せわしなく行き交っていた。 しかし、それにも関わらず、二人がいたその空間だけは、まるで時を止めた異次元のように静かに感じられた。 信は頭を絞って考えてみた。 生きるために働くことには納得は出来るが、働くために生きているというのは、ちょっと違う気もする。 そう思ったため、信は考えたことなかったなと、今その答えを見つけることは出来そうになくありのままを広瀬に答えた。 広瀬は信のその答えを聞けば、つまらなさそうに顔を背けた。そして、自分の人生論を語り始めた。 「俺は幸せになるために生きてると思う。せっかく生きてるのにさ、幸せが感じられないなんて、何のために生きてるか分からないよ。生きるなら、楽しんで笑って、どうせなら謳歌したい。 だから、俺は人生楽しく生きられるように、あることを心掛けていたんだ」 「あること?」 信が広瀬に聞き返せば 広瀬は口許を少し緩め、こう答えた。 「うん、俺は人に恨まれるのも、自分が誰かを恨むこともしたくない。さっきあんたは、恨むことを糧に生きればいいって俺に言ったけど、 誰かを恨んで生きるなんて人生楽しんでるとは言えないと思う」 信は広瀬のその人生論に一理あるなと思っていると 、広瀬は意味ありげに笑いながら、信に向かって再び質問した。 「さて、ここで問題です。俺はこの件に関して、あんたを恨まずには生きられないと思います。では、これから先俺はどうすればいいでしょう?」 二人は既に階段を上り終え、ホームにいた。 時刻は午後8時38分。 ホームの4番線の電光掲示板にはちょうど、8時40分発の品川/渋谷方面の次発の案内が流れていた。 信は立ち止まり考えていると、カメラのシャッター音と共にフラッシュが光った。 「いいね。その悩んだ顔。 これ、冥土の土産に貰ってくよ」 広瀬はそれだけ言うと、人混みを掻き分け、ホームの前方へ走り出した。
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