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担当地区の目ぼしい法人や、商工会議所には片っ端から連絡を入れたし、飛び込みも掛けたが、話を聞いて貰えることなんてあるはずもなく、肩を項垂れていた。
就業時間は18時まで。腕時計を確認すれば、既に19時10分。本来なら帰社して請け負った事案の作成や、手配、報告書も作成出来るんだろうが、葵にはそんな仕事もない。
『契約取れないなら帰って来るな』
耳に響いたその言葉には、既に頭痛さえ覚える程。
それでも、まだ諦めるわけにはいかない。せめて、ノルマは達成出来ずリストラされるにしても1件くらいは・・・・。そう思う気持ちは消えなかった。
本来の企画での仕事を思い出すと、やりきれなさと悔しさが喉元まで込み上げて来たが、振り返ってみたところで現状は変わらない。
葵は誰もいない辺りを見回してから、その右手で髪をぎゅっと掻きあげると唇を強く噛み締めた。
「ちっ、くそっ・・・」
何回吐いたか分からないその言葉。葵はそれが口をつく度にひしひしと自身が絶望に染まるのを感じるしかなかった。
だが、そうして落ち込んでばかりもいられないので、一息つくと、公園を出て再び歩き始めた。
歩き始めて10分。総合病院を背に南側に歩き続け、ふと横の路地を見れば、そこには見慣れない下町の風景があった。
葵は特に意図もなかったが、吸い込まれるようにしてその路地に足を踏み入れた。
葵が周囲を見回しながら散策していると、工場や古びた住宅が建ち並んでいた。ここの景色は都内とは言えど、葵が勤めるような大企業のビルが林立するオフィス街とはその様相が全く違う。
東京都、港区白金。この一帯にはあまり知られてはいないが、住宅地に紛れてあちこちに工場がある。
見るからに古い下町の家屋は、工場と住居が兼用になっているものも多く、かつてはこの町が製造業の町として栄えていた歴史があちらこちらに窺える。
しかし、葵自身も今は港区に住んでいるが、実際散策してみないとこんな下町が東京にあることには普段気付きもしない。
勿論、今でも都内では大田区や葛飾区などに、その技術の高さから世界に誇られるような中小の精鋭と呼ばれるような工場もあるにはある。だが、どこも製造業は不況の煽りを受け翳る一方だった。そして、目の前にあるこの手入れされてないトタン屋根の錆びれ具合を見れば、この町の現状は一目瞭然。
ここに住む人々の暮らしぶりは容易に想像出来た。
自分とは縁のない世界だと思っていた。
葵は少ししんみりとした気持ちになりながらも、再び駅に向かうため歩みを進めた。
梅雨時ともあって、そこまで曇ってはいなかったが、あまりの湿気に、一雨降られると厄介だなと思いながら足を少し早めた。
だが、数分歩いたところで、葵は再び足を止めてしまった。
三階建ての小さなビル。一階はショップのようで店頭にはオリジナリティー溢れるヒールやバレエシューズが並んでいる。
店内は明るく、壁には人形や装飾が施されていて、全体的に小洒落た雰囲気があった。
イメージ通りの白金。
そのショップの佇まいは、今の葵のささくれだった気持ちを少し和ませてくれた。
近付いて窓ガラス越しに店内の様子を伺おうとしたところ、そこに貼られていた求人の文字に目が留まった。
内容を確認してみる。
募集しているのは、靴の職人と事務スタッフらしく共に正社員。
職人の方はフランス研修3年間、後正社員登用と書かれていた。
そして、『未経験者歓迎、根性のある方、熱意のある方お待ちしています』と締めくくられていた。
代表責任者は緒方杏子。
葵は職人なんて、今更自分には無理かと思い苦笑いしながら、紙から目を逸らせた。
すると、隣の扉から女性が現れた。
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