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「あの……白井君は何でここに?」
「何となく嫌な予感がして、小咲さんに訊いてここへ来た」
「来た時、女性がいなかった?」
「いたよ。でも帰った」
この部屋へ到着した時、史佳が茜の首を絞め上げていたのだと白井は言った。白井が来たことにより史佳は急いで逃げ帰ったので、彼女の行方はわからないとも。
こめかみに鋭い爪の食い込む記憶が薄っすらとあったものの、実際には首を絞められていたらしい。どちらにしろ、史佳に襲われたのは事実のようだ。
(何でそんなことをしたのかって……それはやっぱり、忌一のことが好きで私が邪魔だったから?)
襲われたという自覚はあるものの、その時の状況や会話は殆ど覚えておらず、何が原因で襲われたのかは全くわからなかった。心当たりがあるとすれば、忌一への恋慕くらいだ。釈然とはしないが、それを確かめる術はもうない。
「警察に届け出る?」
「いや、それはいいよ。一応相手は取引先の人だし。それにしても、助けに来てくれてありがとう。白井君は命の恩人だね」
「……」
力なく茜が微笑むのを見て、白井は思わず「それは君の方だよ」と口にしそうなのを、必死に拳を握り締めて堪えた。
白井にとっては茜こそが命の恩人だ。昔、白蛇の姿で神社を抜け出した白井が、無邪気な子供たちに石を投げられていたところを、当時幼児だった茜に助けられたことがある。
そんなことなど露ほども知らない茜は、史佳の所業に釈然とはしていないものの、身体は酷く疲れていて早く家に帰りたかった。
「契約前から嫌な予感はしてたけど、やっぱりこの部屋は契約破棄になるんだろうなぁ……」
そう言って重い腰を上げ、茜は自身のスカートをパンパンと祓った。荷物の入ったトートバックを肩にかけ、玄関へと向かい始める。
「僕がこの部屋を借りたらダメかな?」
突然後ろからそう言われ、茜は耳を疑った。足を止め、ゆっくりと白井を振り返る。
「でもこの部屋、単身用じゃないよ?」
「松原も一緒に住まないか?」
「え?」
白井はゆっくりと茜に近づき、彼女の両頬を両手で優しく包んだ。
「僕の気持ちはもう知ってるよね?」
射抜くような瞳で見つめられ、茜の脳裏には以前二人で内見をした時の、建物外で鳴り響く雷鳴と一瞬の稲光、そして雨に濡れた冷たい白井の唇の感触が蘇る。
「松原と付き合いたいんだけど」
そう告げた白井の顔は、相変わらず心の内が読めない無表情なのに、色素が薄いせいか両頬と両耳だけがやけに朱く見えた。
茜の喉は急に詰まってしまったように何も発することが出来ず、ただただ彼のルビーのような紅い瞳を、必死に見つめ返すことしか出来ないのだった――
<完>
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