私の世界(幼少期)

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

私の世界(幼少期)

これはある捻くれた一人の人間が、捻くれた二人の分身と出会うまでの歩みである。 「母さん、多分もうながくないから」 歳の離れた看護師をしている姉が、運転をしながらそう言った。当時小学生だった私は実感は湧かないくせに、涙が溢れてきたのを覚えている。父は自営業の土木関係の仕事。所謂、昭和の親父だ。仕事から帰っては酒を片手に政治にくだをまく。機嫌によって妻や子供に当たり散らす、良いご身分だ。 今の小学生が居る家庭とかでは絶滅危惧種だろう。 母親の胃癌が分かったのは私が小学生の時だった。胃はほぼ全摘だった。 手術後、母が集中治療室に居る間、家族の中で一人だけ幼かった私は入る事が出来ず、廊下で姉達の面会が終わるのを待つだけだった。当時の私の家族にとって、母が居ない生活など考えられなかった。父と姉二人はずっと母の側に居た。 私は病室の外から、ただその光景を眺めていた。 当時を振り返ると、正直とんでもない家族だなと思う。でも家族それぞれにとって、当時間近に迫った母の死というのはそれ程までに恐れるものだったのだ。 可哀想 きっと当時の私を言葉で現すならこの一言だ。しばらくの間、私はその言葉や周囲の目にどっぷり浸かっていた。嫌な奴だ。 そして小学5年生の春、母は旅立った。 息を引き取る直前、父は枕元を陣取り、姉達は母の周りを囲んだ。母の兄弟も集まっていた。私は何となく、その部屋の空気に耐えられず屋上で時間を潰した。 いつも私を揶揄っていた、大嫌いだった叔父が何故か側についていた。当時はクソウザいジジイぐらいにしか思っていなかったが、今思えば気の使える優しい人だったんだろうと思う。 叔母の一人がけっそうをかいて屋上へ来て私を呼び戻した。 連れ戻された病室。はっはっ、とただ天井を見つめ短い呼吸を繰り返す母が居た。叔母に背中を押され、母の枕元に立たさる。 「しゃべる事は出来ないけど、耳はきこえるから」 医者が私を見ながら言った。 え、なんか言わないといけないの? 当時の私の心境だった。きっと私は生来から捻くれていたのだろう。漠然と迫る将来の不安から涙は溢れていたが、別れを悟っていた私は縋ることもなく、母の耳元で言い続けた。 「頑張るから、お母さん居なくても頑張るから」 母の目から涙が伝っていた。 何時何分、ご臨終です。 医者の言葉に一斉に周りの大人達が啜り泣く。私は心の中で「本当に言うんだ」と思った。 その後はバタバタと大人達は慌しかった。葬儀屋に連絡し、会場へと移動しようという流れになった時だった。 「貴方はお母さんと一緒に行きなさい」 皆さん、ここで一度冷静に考えて欲しい。私がこれから霊柩車で知らない運転手のオッサンに運ばれるのは、確かに数時間前までは母だった者だが、今ではただの肉の塊、死体だ。普通に嫌だろう。 「えっ……あ、うん」 当然、冷静な私は嫌だった。しかし嫌と言える空気でもない。死体と見知らぬオッサンとのドライブを承諾せざるを得なかった。 「大変やったね」 ドライブ中、運転手のオッサンが搾り出した言葉だ。 「……うん」 それにこれしか返せなかった当時の未熟な私を許しておくれ、おっちゃん。今はもう少し気の利いた言葉返せる大人になったから。 会場に着いて、私は車から飛び降りて駐車場で姉達の到着を待った。皆んなが会場につき、バタバタと動き回る大人達を見ながら、私は葬儀場の中を彷徨う。 死に顔を拝むあの謎の儀式の為に、葬儀屋さんは母の目を閉じさせようと頑張っていた。 しかし、葬儀屋さんがどんなに頑張っても、最後まで閉じる事は無かった。 大人になった今、私は思う。母のようにはなりたくないと。 ダメな母親とか毒親とかではない。 母は父に従い、身を犠牲にし母親を、家族を支えていた。一生懸命生きた。 家族の支えにされ立派な人だと尊敬している。でも単純に、私はそうはなりたく無い。 支えが無いと進めない人生は、それは自分の人生ではないから。 私を支えるのは私だ。 だって私の人生なのだから。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!