最初の朝

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最初の朝

三郷温泉郷は、来春、ダムに沈む―――湛水試験はだいぶ先らしいが、つまるところ、退去期限はそこなのだ。 三郷は過疎地ではあったが、人がいない、来ない訳ではなかった。 しかしそれにも関わらず死に体―――道のことごとくの旅館がシャッターを下ろし、飲食店は畳んでしまい、人家からも灯りの消えたのは、それに他ならぬところであった。 旅館、白神荘も、じきに閉まる。 その情報を知って、霧夜は予約を入れた―――最後になるように、女将に指定をしてまで、最後にして貰ったのだ。 人がいない方が、『計』には都合が良かったから。人目はない方が、都合が良かったし、だからこそ、それを狙った。 それにも関わらず―――どうして俺は画材なんぞを持ってきてしまったのかと霧夜は一人、思うのである。 「絵を描くのか、おぬしは」 「多少ですが」 朝食の席であった。 旅館、白神荘の朝は広間であるが―――当然のように霧夜と舞雪二人しかいない。二人で喋っていれば、女将も柚希も気を使って同じ席にしてくれたという訳であった。 良く色づいた沢庵を口の中に放り込みながら、浴衣姿の舞雪はどこか上機嫌そうである。 「眺望であれば、わらわの神社の景色が一番眺めが良いぞ。それか、神社のさらに裏山じゃな」 「覚えておきます。聞けて良かった」 「おぬし、絵を描きに来たという訳ではないのであろ?」 舞雪はふと箸を止めて霧夜に問いかける。一拍の間があった。 「…絵を描きにきました」 「よう嘘を言うわ」 「では何故俺は画材を持ってきているのでしょう」 「…それもそうさな」 舞雪は考える素振りであった。実際分からないらしい。当の霧夜自身だって分かっていないのだから、これはまあ当然のことであった。
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