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頭を振った。起き上がった。眩暈さえも感じながら、霧夜は大きく肺呼吸をした。一歩目には身体が均衡を取り戻す。手ぬぐい一つ角帯に引っかけて、音無霧夜は部屋を出た。
旅館、白神荘の朝は早い。
もう残り客は3人しかいないというのに、朝も夕も露天風呂は設定がある。男湯ののれんをくぐりながら、霧夜は浴衣を散らかすように脱ぎ始めていた。冷えた汗で急激に体温が冷えていくのを感じて、それが未だに気持ち悪かった。
身体を洗うのもそこそこに、大きな岩風呂に身体を沈める。霧夜はそこで初めて人心地ついて、大きな安堵に似た溜息を吐き出した。
白い不機嫌な空を見上げる。曇天である。
旅館白神荘の三郷温泉は、湯温38度超と、ややぬるめの設定だが、それ故に長風呂向きである。霧夜もここの風呂は好きであった。
霧夜は無為な思考に身を沈めている。
女風呂はともかく、男風呂までも毎日手入れされている―――大層な手間であろう。俺しか客はいないのだ。手を抜いても良さそうなところ、最後まで手抜きされないのは、やはり意地なのだろう。朝なんて設定がなくても良いものを、それでも毎朝用意されている。岩風呂の蛇口から絶えず湯が注がれ、どぽどぽと耳に心地良い音を響かせて、湯気が寒空に上ってゆくのである。
ある意味至上の贅沢とも言えた。
俺の為だけの、露天風呂である。
他に邪魔者もなく、ただのんびりと湯に身を浸す。―――のんびり湯治出来たらどんなに良いだろうかという思いは、初日と変わるところではないが、それよりかは、緊張のほぐれているのは、自分でも認めざるを得ないところだった。
何せ、この旅館の中では、最早顔を見知らぬ者さえも、殆どいないのである。
だからか、湯の音と香りと温度とが、全て身体に染み入るようだった。悪夢に疲れ冷え切った身体に、ありがたい湯だった。
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