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 その二日後に先輩は練習に復帰した。  もう今週末には秋季大会がある。体育館そのものが熱を持ったかのように、誰もが汗を流して必死にバスケットボールを追いかけていた。  ただ岳斗はレギュラーにもベンチメンバーにもなれず、補欠という立場で野村先輩たちを支えていくことに、満足感も充実感も抱けず、やや蚊帳の外のように感じてしまい、そのことで内心、落ち込んでしまうこともあった。 「おい! 雪見!」  あっ――すっぽ抜けたパスボールが顔面を直撃し、岳斗は目の前に星が舞ったのを見た。    目が覚めると保健室のベッドの上だった。それも岳斗の顔を覗き込んでいたのは野村先輩だ。 「大丈夫か? 練習中に何考えてたんだ?」 「あ、すみません。考えてたっていうか、はい」 「まあいいよ。色々思うところはあるだろう。雪見だけじゃないさ。それより、この前の話なんだが」  すぐにはどの話のことか分からなかったが、先輩が照れくさそうに俯いたので“例の件”だと伝わった。 「付き合うってやつですか。具体的には、その、どうしたいんですか?」 「大会が終わったら、そうだな……デートでも、してみるか」  デート――という言葉の響きが、何ともむず痒くて、岳斗は思わず吹き出してしまう。 「何だよ。嫌ならいいよ」 「嫌とかじゃないです。しますよ、デート。ただ、何か男二人で照れ合っているのがくすぐったくて。先輩はどうです?」 「どうって……よく分からないから雪見にお願いしてるんだよ」 「僕も、よく分からないです。けど、ひょっとしたらそういうことを手探りで楽しむのが大事なんじゃないですかね」 「手探り、か」 「バスケを始めた時って、どうでした? ゼロから誰かに教わったりしたんですか?」 「俺は……簡単なルールだけ西ケ谷の息子さんに教わって、後は全部自分でどうすればいいか考えながらだったなあ」 「じゃあ、僕と一緒ですね。そういう手探り感を、楽しめたらたぶん良いんですよ」 「手探りを楽しむか」  先輩の表情が明るくなったので、岳斗はそれだけで何だか満足してしまった。額に手を当てるとまだ微かに痺れが残っていたけれど、痛みなんて感じない。寧ろ、こうして先輩と二人で話せる時間が作れて、何か一人で考え込んでいた時間も気持ちも、どこかに飛んでいってしまった。    秋季大会は、かなり健闘したものの、結局準決勝で優勝候補に力負けをして敗退してしまった。レギュラーメンバー五人の力は通用していなかったとは思わないが、やはりベンチメンバーを合わせた総合力では随分と差が大きいと感じさせられた。  それでも岳斗は春や夏の大会の時に思っていたような、孤立した感情は一切持たなかった。チームとして応援する気持ちがあったかと問われると少し疑問符も付くが、野村先輩たちを見て、自分も必死に手を握り締めていたのは確かだった。  大会終了後は、顧問の巻島先生に連れられ、駅前のラーメン屋に入った。普段はそこに野村先輩の姿は見られない。けど、この日は主将の大貝先輩たちと並んでカウンター席にその姿があった。  岳斗は吉沢君と一緒のテーブルで、目の前に店員が運んできた丼の縁ぎりぎりまでスープの入ったチャーシュー麺の匂いに目眩を覚える。岳斗の地元にも背中の曲がったおじいさんがやっている古臭いラーメン屋があったが、そこで食べたものとは全然違う。麺も野菜の量も多いし、何より脂がスープに膜を張っていた。  けれど誰もそれを多い、とは言わない。顧問の巻島先生の労いの言葉の後で「お疲れ様でした」の大合唱を終えると、それぞれ一気に麺を啜り出す。ずるずるという音が店内に響き、次々に「旨い」やら「たまんねえ」やら、男子学生特有の元気な声が上がった。 「どうしたんだよ。食わないのか?」 「あ、うん」  岳斗も遅れて箸を取る。レンゲに少しスープを入れ、ゆっくりと味わう。最後まで食べ切れるか自信がないものの、それでも味そのものは美味しい。  麺を少量ずつ啜り上げながら、けれどその岳斗の視線はラーメンではなく野村先輩たちの背中に注がれていた。  二年生が中心になっての初めての大会。一年からベンチ入りしていた主将の大貝先輩と野村先輩はもっとやれると思っていたのだろう。けれど現実の壁は思っていた以上に高かった。相手の情報が少なかったこともある。優勝候補とはいえメンバーががらりと変わり、こちらの弱みだったセンターの高さの点でかなり差をつけられた。  悔しい、というのが特に大貝先輩と野村先輩の背中には滲んでいた。  岳斗は先輩に何て言葉を掛ければいいのか分からないまま、麺をずるずると啜った。    その次の週末の土日は練習が休みになり、岳斗は以前から約束していた「デート」という名目で野村先輩を誘った。LINEには「明日、どうですか」という、よく分からない都合伺いをしてしまったけれど、先輩から「デートか」という苦笑付きの返信があり、こちらも「デートです」と真面目なコメントを打ち返しながら、何だか笑顔になってしまった。  待ち合わせは駅前で、と思ったけれど、先輩が指定したのは学校の校門前だった。  時刻は九時。いつも登校する時間よりはだいぶゆっくり出来たはずなのに、岳斗が校門にたどり着いた時には既に野村先輩の姿があった。 「おう」  先輩は青とオレンジのボーダー柄のセーターにジーンズ、その上に迷彩柄になったモスグリーンのジャケットを合わせていた。いつも眼鏡をしているのに、今日はない。コンタクトなのだろうか。  岳斗は自分が薄手の白いフリースに紺のパーカーを重ねて、足元はジーンズとスニーカーだった。こんなものでデートに参加していいのだろうか、という迷いもあったけれど、新しい服を買うことも出来ず、何とか有り合わせで間に合わせた。少なくとも先輩は嫌な顔をしなかったので、大丈夫だったのだろう。 「待たせましたか?」 「いや。五分程度だ。大丈夫。それより、悪いな。休日に」  校門の鉄格子はぴったり閉じられ、校庭は静まり返っている。 「休日じゃないとデートできないでしょう?」 「そうだな」  二人で顔を合わせ、苦笑する。 「とりあえず、駅前か」 「ええ」  岳斗は歩き出した野村先輩の左手側に向かう。けれど先輩はそれを見て、自分が左側に移動した。別にどちらでもいいかも知れないけれど、お互いに車道側を意識しての行動だ。 「その、一つ聞いておくんですけど、先輩はどっちなんですか?」 「どっち、とは?」 「男役というか、女役というか」  何て質問をしたのだろうと、先輩の表情を見て岳斗は気づいた。 「特に考えてなかったけど、やっぱ、そういうの必要かな」 「今日はそういう細かいこと、気にせずにいきましょうか」 「そうだな。悪い。やっぱ、なんか慣れてないから」 「いえいえ。僕の方こそ」  それでも先輩はさり気なく車道側に立って歩く。  先輩の隣を歩く。それも後輩として、ではなく。友だちか、恋人か、それはよく分からないけれど、ともかく今日は自分が引っ張るくらいの気持ちでいた方がいいのかも知れない。  左側を見る。少しだけ見上げる。僅かに高い先輩の首から肩に掛けてが意外と筋肉質なのが分かり、もっと鍛えないといけないと感じてしまう。 「ん? どうした?」 「いえ。先輩って、どうやって鍛えてるんですか?」 「地道に家で腕立てとか腹筋とか、そのくらいだが」 「地道に」 「そうだな。若本みたいに毎日百回を何セットも、みたいな真似は流石にしてない」 「若本先輩、バスケよりもボディビルダーになりそうですもんね」 「だな」  バス停にたどり着くと一分もしない内に次のバスがやってきて、岳斗たちはそのまま乗り込んで駅を目指した。  車内は結構混み合っていて、二人とも中央の通路に並んで吊り革を握る。 「そういやさ」  いつ頃からだろう。こんな風に野村先輩と気さくに話せるようになったのは。 「ああ、あのバスケマンガが映画になるって話ですか」  最初は先輩は本当に憧れで、バスケットボール選手としてだけでなく、人望の厚い人間性そのものが岳斗の理想に思えた。けれどこうして色々と話すようになると、自分が勝手に理想を押し付けていた部分があって、本当は先輩もちゃんと一人の人間で色々な悩みを抱えていて、想像以上に周囲に気を遣って生活しているということが分かってきて、だからこそ余計に岳斗は自分が情けなく感じてしまったりした。でも、同じ部分はあるんだと分かったことで、今は少しだけ野村先輩と心の距離が近い。以前と差があるとすればそこだろう。  駅前のロータリーで停車したバスからは、乗客の十割といっていい人間が降りた。その半分程度が駅舎の玄関に吸い込まれていったけれど、岳斗たちは別に電車に乗りたい訳じゃない。 「とりあえず、あっちか」  あっち、と先輩が見たのは大型商業施設ネオンモールだ。ノムラというローマ字が壁面に見えるけれど、誰もそんな名で呼んだりはしない。他にもノムラ不動産に、ドラッグノムラ、スーパーノムラと、いくつものノムラブランドの看板が目に入る。先輩が野村コンツェルンの跡取りだと知るまでは大して気にならなかったものが、自然と意識してしまうように変わっていた。 「ほんと、いっぱいありますね」 「昔はさ、この土地、全部田んぼや畑、あとは墓だな。そんなもんばっかりだったんだそうだ」  歩き出した先輩の後を慌てて追いかける。 「それをさ、小さな商店を始めて、そこが郵便局も兼ねていて、更には酒や煙草も扱うようになって。徐々に店は大きくなった。周辺に大きな農場を作って、雇った人間を住まわせる住宅作って、人が増えたら今度は鉄道を敷いた。そういう積み上げた歴史のことなんて誰も見ていない。今ある便利も大半はあれこれと苦労した野村の先祖がいたからだ。そう言ってさ、祖父ちゃんたちはどこか見下したような感じでいてさ、自慢なのは分かるけど、俺はそういう上から目線なのはどうかなって思うんだ」 「誰も褒めてくれないのかも知れませんね」 「え?」 「いや。だって頑張ったら認めてもらいたいじゃないですか。バスケットならシュートが入るようになったら褒めてもらいたいし、毎日地道にスリーポイント練習して試合にその成果が出たら、よくがんばったなって思ってもらいたいし」 「ああ、確かにな」  それは岳斗自身の心のうちにあるものでもあった。別に褒めて欲しい訳ではないけれど、それでもやっぱり心のどこかでは認めて欲しいという部分を持っている。 「そういやさ、雪見。最近ロングシュートの精度、上がったな」 「そう、思いますか?」 「ああ。そもそもシュートフォームも良くなってるし、もっと伸びる」 「やった」  言ったから思い出したように褒めてくれたのかも知れないが、それでも先輩の言葉は単純に嬉しかった。    ショッピングモールの一階ホールは人で混雑していて、流石に休日だけある。奥のフードコートは軽く行列が見える店もあり、これからもっと増えるだろう。ひょっとすると二人で話していたデミグラスバーガーは食べるのが難しいかも知れない。  まずは先輩がよく行くという服屋に向かう。四階がセレクトショップも入る男性向けファッション階になっていて、紳士服ブランドのコーナーを横目にカジュアルなマネキンが並ぶ通りに入る。 「先輩はいつもどういうの選ぶんですか」 「いや、特に拘りはないから、マネキン見て適当に買っちゃうことが多い」  確かにちょうど先輩が着ているのと同じような格好をしたマネキンを見つけ、二人で苦笑した。  服を見た後は雑貨屋と本屋を回る。  色々と手に取ってはいたけれど、結局は話の大半はバスケットについてだった。スポーツ雑誌のコーナーを前に、二人して同じ月刊誌を開いては黙って記事を読む。昔はNBAで日本人が活躍するのは夢だと言われていたらしいけれど、最近では挑戦する人も増え、徐々に夢は現実へと近づいている。それでも世界トップの舞台で活躍できるのはほんのひと握りの限られた存在だけだ。そういう存在はシュートの一場面を切り取ったスナップですら、どこか神々しさがある。派手なダンクやトリックプレーばかりじゃない。一つ一つの次元が違っていた。  二人してため息をつくと、空腹を感じてどちらからともなく「何か食べるか」と場所を変えた。  覚悟していた行列は、けれどそこまで長く連なってはなくて、十五分ほどで約束のデミグラスバーガーを購入することが出来た。  二人でフードコートのテーブル席に就き、向かい合って頬張る。野村先輩はこの手のものを食べるのに慣れていないようで、少し手で千切ってそれを口に入れていたから、岳斗は「こうやるんですよ」と思い切り齧りついて見せた。 「だってそんなことしたら汚れるだろう?」 「汚して食べるんです。それが良いんですよ。風情ってやつです」 「風情か」  岳斗が二口目に向かうと、負けじと先輩も思い切り口を開け、目を閉じてハンバーガーに齧り付く。 「あ」  うまく食べたつもりだったのだろうが、やはり口の端にソースが付いてしまった。それも少し垂れて顎の方に滴る。岳斗は見かねて紙ナプキンを手にしたけれど、先輩は自分の指でソースを拭うと、それを美味しそうに舐め取った。 「これでいいんだろ?」 「はい!」  軽く空腹が満たされると、二人はモールの四階に入っている映画館にやってくる。本当はスパイアクション活劇が見たかったのだけれどちょうど時間が間に合わず、仕方なくホラー映画を見ることになった。  岳斗の方はいきなり音が鳴ったり、わっと驚かせたりするタイプのホラーは意外と平気で、それと対照的にびくびくしながら見ている先輩に「そんな恐いですか?」と言ってしまうくらいだった。 「恐いものは恐いだろ。そもそもだな、恐がらせようとして作っているんだから恐がってやるのが義務ってものだ」  そんな無茶な理屈をつけても岳斗の左腕をしっかりと掴んで、画面を見ていたかと思えばすぐに「うわっ」と声を上げて岳斗の腕に顔を隠す先輩の姿は何とも可笑しい。笑うというよりも愛らしい、それこそ小動物を見ているようで、岳斗は次回も映画はホラーにしようと心に決めたのだった。    午前中からたっぷりと六時間程度、二人で過ごした。それもバスケットは関係なく、だ。  駅前まで歩きながら、岳斗はこれが先輩が望んでいた“付き合う”ってことだったのだろうかと少し疑問に思いながらも、満足そうな表情でソフトクリームを食べ歩きしている先輩の横顔を見ていたら、細かいことは気にしなくてもいい、という気になる。 「ハンバーガーにポテト、コーラにガムにたこ焼きもだな。とにかくさ、学生なら誰だって一度くらいは口にしている食べ物や飲み物、入ったことがあるだろう店がさ、厳しく禁じられていたんだ。小さい頃はさ、何度も西ケ谷に愚痴ったよ。どうしてうちは駄目なの? って。けど体に悪いとか精神に悪いとか、将来を駄目にするとか言われて、結局臆病な俺はそういったものに手を出さなかった。ただ嫉妬と仲間にはなれないという寂しさ、そんなものをいつも感じながら、それでも笑顔を作って同級生の輪の中にいたんだ。あいつらが俺を御曹司とかお坊っちゃんとか、陰で笑っているのは知ってたし、でもそれは事実だから訂正のしようもないし、我慢するしかなかった。そのうちにさ、自分で言わなくても周囲が気遣うようになって、誰も俺を誘わなくなった。それをさ、親父たちは『環境が違うからだ』と言って誤魔化そうとしていたんだ。でも彼女、御崎さんはそういう俺にもっと広い見識を持ちなさいって。だから、友だちを作った方がいいって助言してくれたんだ」  駅前のバス停は既に十人ほどが並んでいて、岳斗たちはその最後尾についた。先輩は声を小さくして、話を続ける。 「けど、今までそうやって周囲に避けられ、また自分でも特別に踏み込んだりしないようになった俺が、今更どうやって友だちなんてものを作ればいいんだろうってなって。そんな時、ずっと気になっていた雪見がさ、風邪を引いて休んでるって聞いて、その時はたぶん誰も助けてくれないだろうし、少し様子を見に行って元気づけてやろうかと思ったくらいだったけれど、後から考えると、他の部員にはそんなこと思わなかったんだよな。何故だろうって考えてみると、それは雪見の孤立する姿に自分を重ねて見てたんだ」  全然違うと思っていた先輩の、心の奥に自分と似ているものがあった。今それを、先輩は取り出して見せてくれている。 「だから雪見とだったら、ひょっとしたら友だちってやつになれるんじゃないだろうかって思った。実際、今日は想像していた以上に楽しかったよ。たぶん、御崎さんももっとこういう時間を過ごしておいた方がいいって言ってたんだろうな」 「また御崎さん、ですか」 「ああ、すまん。気に障ったか?」 「そうじゃないですけど、でも、たぶん相手が恋人だったら、そういうの禁止です」 「どういうことだ?」  自分で言っておいて、岳斗もどう答えたものかと考える。  ただ奇妙な胸の中のもやもやがあって、その原因が先輩の口から出る「御崎さん」という言葉にあるのは確かだった。 「よく分かりませんけど、なんか、二人でいるのに他の人の話題が入ってくるのがラーメンに生クリームを急に入れられたみたいな、そういう感じです」 「ラーメンに生クリームか。それはちょっとごめんだなあ」  二人で笑い、やってきたバスに乗り込んだ。  バスの車内ではその話の続きは特にしなかった。それこそウィンターカップについて、どういう練習に取り組んでいくとか、チームを強化する方針とか、憧れの選手とか、プレイとか、そういうことについて話しただけだった。バスケの話をしながらも、けれど岳斗の中には先程浮かんでしまった違和感について、何も考えない訳にはいかず、もやもやとしたものが楽しいはずの時間を幾らか邪魔していて、なるべくなら忘れたいと思ったのに、そう思えば思うほど強く、その「御崎さん」という言葉について考え込んでしまった。 「じゃあ、また明日だな」 「ええ」  バスを下りて学校の前までやってくると、そこで別れることになった。  部活終わりなら何てことのない、普通のさよならだ。けれどこの日はどういう訳か、岳斗はすぐに歩き出すことが出来なかった。 「ん? どうした?」 「いえ。何でもないです」 「そっか。あ、そうだ雪見」 「何ですか?」 「今日は、本当にありがとうな。雪見がいてくれたお陰で、すっごく楽しかった。また、頼むわ」 「こちらこそ本当に楽しかったです。先輩とこんな風に一緒に過ごせるなんて、入部した頃は全然思いませんでしたよ」 「それは雪見が変わったからじゃないか?」 「先輩だって付き合ってみたら持っていた印象とかなり変わりましたよ」 「そうか?」 「そうです」  先輩と二人で笑顔を向け合う。  でも、まだ何か引っかかりが、心の蟠りが二人の間にあるようで、だから岳斗は思い切って口を開いた。 「先輩、いえ、野村さん」 「な、何だよ?」 「源ちゃんって、呼んでもいいですか」 「今更か? みんなそう呼んでるし、気にすることないぞ」 「やっぱちゃんは無理。源さんって呼びます」 「じゃあ俺は……岳斗。これで、いいか?」  ただ名前を呼ばれただけなのに、今まで抱えていたもやもやが一気に消え失せて、体の芯までが熱くなった。 「はい。お願いします、先輩……あ、源さん」 「わかったよ、岳斗。じゃあ、な」 「はい。じゃあ」  ようやく岳斗は背中を向け、歩き出す。でも数歩進んでから、一度振り返ってみた。そうしたら先輩もちょうど振り返ったところで、互いに見て、やっぱり笑った。    こうして岳斗は野村先輩と新しい関係の一歩を踏み出せた。そう自分でも感じていた。けれど、それが一体どんな関係かと問われると、正直分からない。友だちなのか、それとも恋人のようなものなのか。もっと別の、同じ部員というだけでなく、先輩後輩でもなく、色々と言い合える人間関係に発展していくのかどうかは分からない。ただ一緒にバスケをする以外にも接点が生まれたことは、岳斗自身、単純に嬉しかったし、高校生活そのものが楽しみになったのは間違いない。    その日の夜、先輩からLINEが来た。ただの「おやすみ」という一言だったけれど「岳斗」という名前が足してあるだけで、何とも心がぽかぽかと温かくなる。岳斗も「おやすみなさい」と返すと、その日は良い夢が見れそうな予感を抱いて布団に潜り込んだ。(了)
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