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直径四十五センチの枠の中に二十四・五センチのボールを放り込む。数字にすると意外と大きな穴に小さなボールだけれど、何度右手から離れてもボールは枠に弾かれてしまう。床でバウンドしたそれをとぼとぼと一人、拾いに歩き、再び息を整えてから目標を狙い定め、飛び上がってシュートを放った。また駄目だ。入らない。
暗くなった体育館の一箇所だけ明かりが点いている。時計は暗がりで見えないが、もうそろそろ閉門時刻の八時だろう。そろそろ辞めようか、と思って、あと一本、もう一本とシュートを打つのだけれど、入らない。中学の頃は「岳斗のスリーは頼りになるな」と言われていたのに、これでは一体何のために特待生としてここに入ったのか分からない。
本当の最後だ。とばかりに右足に力を入れる。その瞬間、鈍痛が襲った。七号のバスケットボールはすっぽ抜けて舞い上がり、どこにも触れずに床に落ちて大きくバウンドした。
中学最後の大会でこれを決めれば準決勝に進める。そういう一本を無理をして決めに行き、相手と衝突した。その時に痛めた右膝は完治しているというけれど、まだたまに痛みを覚えてしまう。
雪見岳斗は暗闇に転がっていったボールを拾い、それを片付けてから、体育館の照明を消した。
ジャージのまま警備員にお礼を言って校門を出ると、特待生用の学生アパートまで三十分の道のりを歩いて帰る。空は星が煌めいていて岳斗が中学卒業まで暮らしていた菅野を思い出させてくれるけれど、ここにはマモルもユージもアキヒトもいない。
二学期が始まって既に二週間、未だに友だちと呼べる人間は岳斗にいなかった。
大通りから脇道に一本入り、住宅街を歩く。外灯も少なくて、時折出前か何かのバイクや自転車が走り抜けていくが、無灯火のものがあったりして危ない。
寮のアパートは二階建てで、入口すぐに寮母の津森さんの部屋がある。その隣に共同浴場があり、隣には洗濯コーナー兼談話室が、対面には食堂がある。岳斗が帰ってくる頃には大半の学生は食事を終え、入浴中か、既に入浴まで終わらせていることが多い。
「おかえり」
ぶすっとした声でボンレスハムのような津森さんが岳斗に言った。
「いつも遅くてすみません」
顔すら見られずに頭を下げながらそう答えると「さっさと食べておくれよ。じゃないと片付かないから」と付け加えられ、津森さんは行ってしまった。
岳斗はさっさと自室に鞄を投げ込んで、食堂に向かう。
明かりを点け、ラップされた野菜炒めとスープを見つけると、ご飯と味噌汁を装って、水を給水器からコップに入れ、長机の隅の席でちんまりと一人、食事をする。廊下側では野球部員たちの賑やかな声が聞こえる。風呂上がりらしい。そこに更に津森さんの明るい声が掛けられ、大きな笑い声が上がる。この学生寮には野球部の連中が多いからか、それとも野球部の連中の実にステレオタイプな体育系部員のハキハキとした様子が好きだからか、彼女に対応が他のスポーツ特待生に対してのそれと全然違っている。あまり積極的に声を掛けられたりするのが好きではない岳斗からすれば別にどうということはないけれど、それでもこんなにも人が変わったようになるのはあまり気持ちの良いものではなかった。
食べ終えると自分で皿とコップを洗い、乾燥機に立てかけておく。それから「ごちそうさま」を小さく響かせ、明かりを消して自室に戻った。
四畳間の大部分を占拠するパイプベッドの薄いマットレスの上に体を預けると、シャワーに向かう意欲も失われ、岳斗はそのまま微睡みに身を任せる。練習でくたくたに疲れ、何も考えずに眠りに就く瞬間が、一番好きかも知れない。
岳斗がバスケットボールに触れたのは小学校の体育の時間だ。三年生の秋だった。その頃、ちょうど学校でバスケットボールがプチ流行していて、みんな昼休みになると体育館に行ってバスケットボールを借りて、シュート練習をしたり、スリーオンをしたりして、遊んでいた。岳斗は口数が少なく、また誘ってくれる友人もいなかったので、一人黙々とシュート練習をした。ゴール下まで走っていってボールを片手で持ち上げて置くようにして入れるレイアップシュート。離れた場所から狙いを定めて手首のスナップを効かせて打つジャンプシュート。中でもゴール中心から六・七五メートル離れたスリーポイントラインから放つスリーポイントシュートが決まった時には、得も言われぬ快感が体の奥で広がり、それを味わいたくて何度も何度もボールを放った。
中学になり、バスケットボール部に入ってからはその状況は一変した。田舎の小さな学校だったから部員が沢山いた訳ではなかったけれど、それでも一緒にバスケをする仲間が十人以上に増えた。何も言わなくても誘われて、休み時間になればボールを取り合い、ゴールを狙い合う。そういうきっかけがあると普段の教室でも挨拶くらいはしてもらえるようになり、友だちと呼んでいいのかどうか分からなかったが、何人か自分から声を掛けられる同級生も出来た。
岳斗にとってバスケットとはずっと一人だった自分の人生に仲間という大切な存在を与えてくれた恩人のようなもので、だからこそもっと上手くなりたいと、ここ私立北山学園高校からの特待生の話を受けたのだ。
それなのに現実は厳しい。
特待生という立場も実力が伴ってこそだし、誰も自分のことを知らない土地で、しかも学生寮とはいえ一人暮らしだ。高校に来てから岳斗の生活は再び孤独と仲良しに戻ってしまった。
岳斗は授業が終わり放課後になると、真っ直ぐに体育館に向かう。ロッカールームで練習用のジャージに着替えると、用具倉庫からモップを手に取り、床を拭く。岳斗以外にも数名の一年生がその仕事をしていたが、今日はそれ以外にもう一人、モップ掛けをしている部員がいた。野村先輩だ。
身長は百七十ちょいの岳斗より五、六センチ高い。細身だがしっかりと筋肉がつき、猫のような細い髪は色を抜いていないのに光の下では微かに茶色い。眼鏡をしているが、知的というよりはいつも笑顔で愛らしさがある。下級生、上級生、関係なく誰に対しても優しく、いつも先輩の周りには人だかりが出来ている。名前が「源五郎」というので、先輩たちは皆「源ちゃん」と呼んでいたり、一年生もそれに習って「源ちゃん先輩」と呼んでいたりするが、岳斗の中では「野村先輩」で通っていた。
その野村先輩はモップ掛けが終わると一番にボールを手に取り、それでシュート練習を始めた。いつ見ても美しいフォームで、軽くジャンプして伸びた背筋から右腕の上がり方、リリース時のスナップの使い方まで含めて、今の岳斗が理想とする姿だった。
野村先輩がシュートを決める度に拍手が上がる。けれどそれを見て先輩は「俺ばっか見てても上達しないぞ。先輩たちが来るまでにやれる練習しとけよ」と、固まってにやにやしている一年生部員たちに声を掛け、それから一本、レイアップシュートを決めた。
先輩は岳斗の憧れだった。バスケの技術もそうだが、何よりその人柄や、周囲の人間からの慕われ方、人間性という面においてもいつかはそういう風になりたいと思わせられる。そういう圧倒的な存在だった。
この日の練習終わり、片付けを終えたところで顧問の巻島先生が声を掛け、部員を集めた。
インターハイが終わり、三年生が事実上引退したこともあって、中心は主将の大貝先輩と副主将の野村先輩に移っている。まだレギュラーメンバーの五名も、ベンチ入りの十五名も、何も決まっていない。どの席も開いた状態から再スタートになっていた。
「これまではどちらかといえば学年が上の、それこそ二年や三年の選手を使う風潮があったが、大貝たちの提案で、これからは完全な実力主義でいこうという話になった」
突然の先生からの提案に、一年生だけでなく二年生からもざわめきが漏れた。
「まあ実力といってもバスケットはチーム競技だ。単純にシュートが上手い、ブロックが出来る、パスやドリブルに長けている、ということだけで決まる訳じゃないが、それでも何かしら長所がある奴の方がプレイヤーとしては評価される可能性がある、という方式への転換だと思ってくれていい。何か問題提起する奴がいれば今だぞ。何かないか?」
文句があるなら今言っておけ、ということなのだろうが、誰も手を挙げる生徒はいない。
「まず最初の、仮の選考だな。それは今週末、土曜の練習の後で行う。簡単な練習試合をして、それを見ての判断となる。秋季大会まで一月以上あるといっても直ぐだ。ひょっとするとそのまま試合に望むということもあり得るから、仮の選考会だからって手抜くんじゃねえぞ。分かったか」
はい、という大きな声が返されたが、誰の心境も穏やかではないだろう。岳斗も内心ではチャンスかも知れないと思いつつ、最近の自分の調子からあまり手放しでは喜べなかった。
その週末の朝、ベッドの上で起きようとした岳斗はあまりに自分の体が重くて驚いた。額に手を当てると薬缶の肌に触れたのかと思うほど、酷い熱だった。
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