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番外編 リロン
『リロン…ジロウさんに申し訳ないって伝えてくれないか?それと、もう来ないと思うから、俺の分だけ最後まで出してって、それもジロウさんに伝えて欲しい』
フィエロのレセプションパーティーの日。下野のテーブルをサーブしていた時に、言われたことだ。
キッチンに戻りジロウを見つけ、下野からのメッセージを伝えた。
フロアに戻り、他のテーブルのチェックと従業員の配置を確認する。食事が終わり、帰り支度をする人が多くなり、お客様をお見送りした時、あの人が来た。
「そんで?下野さんの相手に何を言ったんだよ。あの時、入り口で何か話したろ?」
「えっ…特にしてないよ?下野さんのテーブルに案内しただけ」
ジロウがやたらとしつこく聞いてくる。もう来ないと思ったあの人…下野の想い人が、慌てて来たから、その時の話が聞きたいらしい。
「いーや、お前なら何か必ず話をしたはずだ。ぜーったい何かしら気の利いたことを言ってるはず!」
「何も言ってないってば!もう、何?さっきっからそればっかり聞いてきて」
本当はジロウの言う通り、下野が恋焦がれてるであろう相手の人に声をかけていた。彼はあの時、可哀想なくらい身体が震えていたから。
お店に迷惑をかけている。
下野にも呆れられている。
あの人は、そう勝手に思い込み、焦りから震えが止まらなかったと思う。
事情はあるだろうが、それでも、遅れてでも来てくれている。その想いは無駄に出来ないと、リロンは咄嗟に考えた。
『今日は思ったより風が強かったですね。来るのは大変だったでしょう』
『えっ…風…?地下鉄で来たのでわかりません、それよりあの…遅くなって』
『風が強くて前に進めなかったんです。時間がかかって当然です。そんな中、来て頂いてありがとうございます。では、ご案内いたしますね』
あの時、リロンが彼と会話した内容だ。
風が強いから遅れたなんてこと、咄嗟に口から出たとはいえ、考えついたのは、我ながら苦しい言い訳だなと思ってた。
彼を、下野が待つテーブルに案内し『風が強くて、前に進むのに時間がかかったようです。今日は風が強いですからね』と、リロンは下野に伝えた。
下野は一瞬、怪訝な顔をしたがすぐに理解してくれたようで、爆笑していた。リロンの苦しい言い訳に付き合ってくれている。
『そうか…風が強かったか。そりゃ、時間かかるわけだよな。大変だったな、来てくれてありがとう』
と、下野は本当に嬉しそうに笑い、そう伝えていた。
その後は、気が抜けた彼を座らせ、まだ笑いが止まらない下野が話しかけているのを見ながらリロンはキッチンに行った。
「ふーん…まっ、いいけどよ。でも、よかったよな、あの人来てくれてさ。何となく帰り際はいい雰囲気だったし。今度また一緒に来てくれないかなぁ」
ジロウが大きく伸びをしながら、ごろんと横になりペラペラと喋っている。
ジロウと二人で暮らしている賃貸マンションから、また以前の家に引っ越しをすることになったので、二人で荷造りをしている途中である。
ジロウはその荷造りする作業が、飽きてきたんだと思う。さっきからリロンにちょっかいをかけたり、質問ばかりをしてきて、全く手が動いていない。
「ジロウさん、休憩する?」
「するするぅ!休憩!何か腹減らないか?うーん、作るか…何があるかな」
独り言をいいながらキッチンに行くジロウの背中を追った。やっぱり、荷造りは飽きていたようだ。
「うわっ!イチジクが熟してる!やっば、これ食べちゃおうぜ。パスタ食べるか?」
「やったぁ!いいの?イチジク大好き」
結局ちょっと休憩するつもりが、ジロウが作るイチジクと生ハムのパスタで、ガッツリと早めの夕食になった。
「んん〜っ…めっちゃ美味しい!ああ、イチジクのパスタなんて初めて。ジロウさんのご飯は本当にどれもドストライク!最高だよ、ありがと」
「あはは、どういたしまして。このイチジクは甘くて美味いよな」
食事をしているジロウは、今日も安心した顔をしている。
ジロウと共に生活を始めから、ジロウから微かな不安をリロンは感じ取っていた。それは二人だけで食事をする時、たまに少しだけ感じることだ。
そのジロウの不安とは、多分味覚のこと。リロンはそう感じている。
「人の記憶で一番最後まで残るのは嗅覚と味覚なんだってな。その嗅覚と味覚を思い出すと、自然にその時の会話も思い出すんだってさ」
「あはは、何?ジロウさんがそんなこと言うの珍しいね!いつもノリで生きてるのに。人の記憶なんて曖昧だよ?たとえばこのイチジクだってさ、ジロウさんは熟してたって記憶しても、俺は熟してなかったって、記憶しちゃうかもよ?」
「でもよ、それでよくないか?匂いと味はその人のものだろ?だから、いつかまたイチジクを食べたら、俺は今日を思い出すのかなぁって…お前が美味いって食べてくれたことをさ。それがいいなぁ…」
「ふふ…そうだね。本当、記憶なんて曖昧でいいと思う。自分のものだし。下野さんとあの人も、そうだといいね。特にあの人はさ、フィエロのメインメニューを食べてないんだから!ドルチェがフィエロの記憶なんだし。そう考えると面白いよね」
ジロウは何か昔の記憶に決着をつけているようだった。それでいいと思う。そうやって時間が経って曖昧になっていけばいい。
「お前の口から他の奴の名前が出るのは、面白くない!」
「えーっ、また?他の男って…下野さんたちの話じゃん。もう…じゃあ、別の記憶を書き換える?」
ジロウのヤキモチは嬉しい。
どんな些細なことでも。
そして、ヤキモチの後は激しく求められるのも、嬉しい。
「そうだ!イチジクを食べたリロンは、ベッドに行きたくなったようだって、記憶にしようっと」
食事を終えジロウはリロンの手を引き、機嫌良くベッドルームに連れて行った。
「いっただきまーす!」
ジロウに上から覆い被されて、キスの攻撃をうける。
「ジロウさん…愛してるよ」
不安なんて跡形もなく、無くなればいいな。そのためなら、いくらだって知らないフリも出来るよ。
それに風が強くて前に進めなかったら、二人で抱き合って立ち止まればいいじゃん。そんなのどうってことないし。
それくらいの覚悟はできてるよ?
「俺も、愛してるよ。リロン」
人生は食事と愛だね。ジロウさん。
end
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