56人が本棚に入れています
本棚に追加
四月一日。
「早めに出るんでしょう? 天沼さん」
玄関ドアを開けて、外から声をかけると、中から慌てている声が響いた。
「だって、十文字が時間通りに朝、起こさないから」
「いつまでも気持ち良さそうに寝てるんだもの。邪魔しちゃ悪いかなって思って」
「そういう気遣いはいらないから」
顔を出した最愛の男、天沼のネクタイが曲がっていることに気がついて直してあげると、彼は気恥ずかしそうに視線を伏せた。濃紺色のそれは、なんだかちょっと天沼をできる男に見せる。
「今日から秘書課か。なんだかいい響きですね」
「気が重いだけ」
「天沼さんのベストポジションでしょう? 人のサポートさせたら右に出る人がいないんだから」
そうは言うけど、二人にとったらしばしのお別れになるかもしれないのだ。天沼は澤井副市長付きになる辞令が出ている。あの澤井だ。副市長の忙しさは、市長同等だ。その彼に付き従うなんて、休みは期待できないということも肯けた。
「休みが、あるといいけど」
「そうだねえ」
「あったら連絡くれるんですか」
「そうだね」
「天沼さん」
「嘘だよ。ちゃんと連絡するって」
のらりくらりの返答に声を大きくするが、全く相手にされていないのか、天沼は笑顔を見せていた。朝日に光る彼の笑顔は眩しいくらい清々しい。あの時に泣いた彼ではないのだ。
あれから、二人は時間があれば一緒に時間を過ごした。結局は、強引に押し切っている十文字のペースのようにも見えるが、天沼は、そう嫌でもない様子。田口のことは、結局のところ、好きなのかどうかなんてはっきりしていないみたいだけど、自分のことを向いてくれるなら良しとするしかない。
「応援しています」
「十文字も人の心配している場合じゃないよ。保住係長も田口も抜けちゃって。新しい人が二人くるんでしょう」
「そうなんですよ」
玄関を施錠して、エレベーターに乗り込む。
「一人は先輩で議会事務局から。もう一人はおれと同じルートで市民課からですよ。渡辺さんも係長になるってテンパっているし。心配だらけですよ」
「でしょう? みんなそうなの。田口たちだって、議会でも注目の的事業の中核メンバーだし。プレッシャーも多いだろうね」
「本当は、一緒にやりたかったくせに」
「確かにね。でも、よくよく考えたら、おれには無理だったと思うね。おれ、一人で決断するって苦手だから」
「決められたことを、うまくやりこなす能力ですもんね」
「だね」
マンションから外に出ると、すっかり春の陽気だ。
「しばらく会えないけど、浮気なしですからね」
十文字がふと彼の横顔を見ると、天沼は笑顔を見せた。
「そういう、君もね」
「しませんよ」
「どうだか。おれにすぐ手を出すくらいだ。信用ならないね」
「それをいうなら澤井副市長の方が怪しい。四六時中、あの人と一緒にいるんでしょう? 妬けるな」
ブウっと口を膨らませると、天沼はそれを指で突いた。
「だったら市長にでもなれば? おれが全力でサポートしてあげるよ」
「な、え? 冗談でしょう?」
「あら? そういう野心はないんだ。お父さんの地盤、まだ生きているんじゃない?」
「それは」
久留飛との邂逅を思い出した。
まさかね……?
彼は、自分が市長の座に興味があるかどうか探りを入れてきたのだ。
おれが?
まさか。
そんなことは考えたこともなかったのに、こうして周囲から言われると「市長に興味を持たなければならないのか?」と言う気持ちになった。
「天沼さん、おれ。市長にならないといけないのかな?」
十文字の戸惑いを察してくれたのだろうか。
天沼は優しい笑みを浮かべてから、彼の手を握った。
「まあ正直に言えば、みんなが期待しているってことはあると思うよ。なにせただの一般人とは違って、君にはそう言う血が流れているんだから。でも、そこから先は君の人生じゃない。他の誰でもない自分自身のね」
天沼の視線を見返して、十文字は動悸こそするものの、心は穏やかになる。天沼がいるという安心感。
「どうしようもなく、抗えないこともあるかもしれないけど、君らしくいればいい。そうでしょ?」
そう。自分を肯定してくれる天沼の言葉に救われる。どんなことでも乗り切れそう。
「今、考えたって仕方がないと思います」
「そうそう。今日からの仕事のほうが目下の課題だ」
「仕事だけじゃありませんよ。おれにとっての課題は、これから忙しくなる天沼さんと、どう時間を作るかですっ!」
十文字の言葉に、天沼は軽く目を見開いてから微笑んだ。
「ありがとう」
「ありがとうとかの問題じゃないです。ちゃんと連絡寄越してくださいよ! 深夜でもいいんで。どうせ、遠慮して寄越さない気なんだから」
「なんでわかるの?」
「わかりますっ!」
颯爽と歩く天沼の後ろをくっついて、十文字は市役所へと足を踏み入れた。二人が顔を合わせるのは、言葉通り、しばらく先の話––––。
最初のコメントを投稿しよう!