長い雪の夜のこと

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 別に仕事熱心な(たち)ではないのだが、今日は朝から集中力に欠けている。残業は進んで取り組むタイプではないのだが、どうにも仕事が捗らないのだ。  保住から18時前には帰るようにと言いつけられていたのにも関わらず、書類に目途がついて顔を上げると、時計の針は19時を回っていた。  文化課の事務所には、もう誰もいなかった。自分ひとり。こんなことは初めてで、なんだか急に寂しい気持ちになると、動悸(どうき)がしてきた。  いつもは、誰かの話し声や電話が鳴る音で雑然としている空間なのに、耳鳴りが聞こえるほど、しんと静まり返っていると心がざわついた。 「帰らなくちゃ」 「ひとりである」と自覚した途端に湧き上がってきた焦燥感に駆られて、慌ててパソコンを閉じる。  それから、通勤用のコートを羽織って、荷物を抱えた。自分が事務所を消灯すると、完全に暗くなる様を眺めてから、廊下に飛び出す。どこの部署も暗い。教育委員会が入っている、東棟一号二階のフロアは完全に暗い。廊下で緑色に灯る非常灯の明るさだけが、頼りだった。  中央棟に足を踏み入れると、どうやら、まだ少し動いている部署があるようだった。十文字みたいな駆け出しの職員が足を踏み入れたことがない部署。  あれは、危機管理室か? 秘書課も動いているみたい。そんなことを考えながら階段を駆け下りた。  市役所庁舎は、昭和に建設されているため、階段の段差が現代サイズではない。当時の日本人の背丈が今よりも低かったのか、それとも緩やかである方が親切という配慮のおかげなのか、十文字の背丈からしたら、この段差は低く過ぎてリズムが乱される。  それは、日頃でも自覚していることなのだが、こう焦っていると、慎重さに欠けてしまった。  案の定、リズムが崩れて、一階に着地した際に、「おっとっと」とバランスを崩した。両手を振って、体のバランス感覚を戻そうと四苦八苦した瞬間、ちょうど一階からも出てきた職員とぶつかりそうになった。  二人はお互いに、踏み留まれたようで、衝突することはなかったが、「すみません」と声をかけあう。  慌てていると、ろくなことにならないと反省しつつ、謝罪をしてから、相手をじっくりと見つめると、「あれ?」見たことがあると思った。  ただし、見慣れた顔ではない。「」というレベルだ。そう、そう何度も会っているわけではなく……。  そして、ふと思い出すキーワードは「田口」だった。 「ああ、田口の……」  相手の男も同様の結果に至ったのだろう。十文字を見て、にこっと笑顔を見せた。 「今日はどうも」 「あ、あの。お疲れ様です」  そう。日中、外勤の帰り道に出くわした天沼(あまぬま)という男だ。田口の同期で、彼が「頭のいい人だ」と褒めていたことを思い出した。 「残業?」 「ええ。えっと。天沼さんこそ」 「うん。明日、東京出張があってね。資料揃えておかないとって思ったら、もうこんな時間。時間って、あっという間に過ぎ去るから嫌になるな」  半分、愚痴みたいなことを言っている天沼と十文字は、一緒に歩みを進めた。この時間、庁舎を出るには西口の裏玄関しかない。初対面に近い二人が共通の話題なんてあるわけもなく、適当な話をしながら職員玄関のところにやって来ると、十文字は息を飲んだ。  玄関から先に見える外の風景は、日中とは様変わりしていたからだ。 「ちょ、こんなに雪降るって、本当だったんですね……」  十文字は引きつった笑みを浮かべる。笑うしかないとはこのこと。朝から大雪警報が出ると予報で聞いていたのに、重要視していなかった自分の甘さに萎えたのだ。そこに、夜間受付から、宿直の警備員の男が顔を出した。 「すごい雪ですよ。おれの膝上くらいまで来ている。帰れますか」  年の頃は60代くらいだろうか。少し白い無精髭を生やした、丸々した男だ。帰る時によく挨拶はするが、こうして話をしたことはない。  しかし、帰れるのかと問われても、帰るしかないのだ。 「泊って行ってもいいんですか」  職場で徹夜は経験したことがないので、真面目な顔で尋ねると、警備員は困った表情を浮かべた。
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