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長い雪の夜のこと
寒い一日だった。鉛色の空から綿毛のような雪がちらちらと降っていて、職場から支給されたジャンパーだけでは、凍えるような冷え込みだった。
「今日みたいな感じで、担当者とは話をしてくるといい」
右斜め前を歩いている先輩、田口銀太の後ろ姿を眺めながら、十文字春介は、困っていた。
この寒さのせいではない。先ほどまで、面談をしてきた男のことを思い出していたからだ。
「田口さん、星音堂の担当者って、あの安齋さんなんですか? 来年度も?」
「それはどうだか、わからないな。なんだ、嫌なのか」
「嫌ですよ。怖いですもん」
その言葉に、田口は口元を緩めた。
「確かに。おれも苦手なんだよな。あいつ」
二人が訪問してきた星音堂とは、梅沢市内にある音楽ホール施設の名だ。市内には、複数のホールがあるが、パイプオルガンを備え、音楽上演に特化しているため、高い稼働率を誇る施設であった。
自分たちの仕事は、市役所内部において、この星音堂の予算取りや、イベント開催のサポートをすることであるため、こうして直接足を運ぶことも多かったのだ。
会話の中に登場する『安齋』という職員は、その星音堂事務所にいる男だった。十文字は彼が苦手だ。苦手という言葉を通り越して、嫌いというレベルだ。
長身で、冷徹そうな無表情さ。田口もあまり表情はないが、安齋のそれは氷のような冷たさを持っていた。
さらに、その無愛想でつっけんどんな態度。人を見下すその瞳。たまに見せる笑顔はよそ行きで、絶対心ない営業スマイル。「あれは……ない!」と心の奥で叫ぶ自分がいた。
「星音堂内部で、どんな業務の割り振りをしているのか、おれたちにもわからない。安齋が、来年度も本庁担当者になるのかどうかは、四月になってみたいとわからないな」
「そうなんですね~。怖いなあ」
少し堅い性格の田口は、どんな問いにも真面目に答えてくれるから、つい思っていることを話してしまう。十文字にとったら、頼れる先輩だった。
公用車を停めている駐車場は、庁舎の裏手にあった。吐く息の白さを見ながら、公用車を返した足で庁舎に向かって歩いていると、ふと一人の男が「田口」と声をかけてきた。
自分たちと同じ色のジャンパーを羽織っているということは、同じ市役所職員であると認識できる。田口や自分よりも小柄。身長は、160センチメール後半くらいだろうか。丸い顔で、目がくりっとしている様は、愛嬌を感じさせた。
「自分よりも年下?」と一瞬思ったが、田口と慣れ親しんだ口調で話す様子を見ると、どうやら同期のようだった。
「お疲れ。外勤?」
「ああ、星音堂へ行ってきた。そろそろ年度末だからな。仕事の引き継ぎだ」
田口はそう言うと、十文字に視線を寄越してきた。それにつられて、男もこちらを見る。そして、そこで初めて視線が合った。
彼に、自分を認識された、初めての瞬間だった。
「えっと」
「企業立地課の天沼です」
「あの……、文化課振興係の十文字です」
一瞬、なぜ言葉に詰まったのか、自分でも理解できなかったが、なんとか名乗ることができた。そんな十文字の様子に気が付きもしない天沼は、田口に視線を戻した。
「田口の後輩くんか」
「そうそう。頑張る後輩くんだ」
二人は、視線を合わせてから十文字に笑顔を向けてくる。その視線が何だか気恥ずかしくて、十文字は、思わず視線を逸らした。
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