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自宅、リビングにて〜夢と進学とホットコーヒー〜
人間というものは、たった一枚の紙にこんなにも悩まされるものなのだろうか。空欄をいつまでたっても埋められない自分に嫌気がさす。もともと印字されたもの以外何も書くことのできていないその紙をみていると、お前には何もないんだぞ、つまらない人間なんだぞと揶揄されているような気さえしてくる。とりあえず氏名の欄くらいは埋めておくか。
「五香櫻子っと……」
テーブルの上。学校から配られた進路希望調査票が、私の前に壁のように立ちはだかっていた。薄っぺらいA4用紙のくせに、こいつは今後の私の何十年先の未来までもを担っていますとでも言いたげな顔をしているのが鼻につく。夏休み明けに提出するようにと言われて渡されていたのをすっかり忘れていたのだ。夏休みはあと一ヶ月もない。いい加減書いておかないとと思い立ったのが今朝だった。
「ただいまー。なんだ櫻子、まだ書けてなかったのか」
コンビニに買い物に行った兄・湊人が帰ってきた。湊人が買い物に行く前からすでに調査票とにらめっこしていたので、かれこれ30分は何もできずにいたことになる。ほら、と兄から手渡された棒アイスを受け取り、ありがたく頂戴することにした。意外と優しいところもあるのだ。
「そんなに難しく考えることないよ。別にそこに書いた学校に絶対行かないといけないなんてわけじゃないし、大学行くって言いながら実際は高卒で就職したってだれに怒られるでもないし」
そう言って湊人はドカッとソファーに腰を下ろして、自分も棒アイスを食べ始めた。湊人はそういうが、そんな単純なものだとは私には思えなかった。「だってさあ」と思わず愚痴がこぼれる。
「やりたいことがとくにないんだもん。とりあえず大学に行った方がいいとかよく言われるけど、いまいちピンとこないし。かと言って一年半たったときにもう社会人として働いているなんて想像もつかないし」
「うん」
「だいたいさ、仮にまだ決まってませんって言って空欄のままで出したら先生には怒られるわけでしょ。でも適当な学校名とか書いたら、今の偏差値じゃとてもいけないぞとか言われるでしょ。じゃあ自分の偏差値に見合った学校名を書いたら、ここに行って将来はどうなりたいんだとか問い詰められるでしょ」
「まあ先生によるとは思うけどな」
「けっきょく自分の将来を見据えられる真面目な人以外は、やっていけない世の中なんだよ」
ああ。我ながらなんて卑屈なことを言っているんだろう。いやな女だ。
「あのな、やりたいことが既に定まってる17歳なんていたらそっちの方が怖いよ。あと何年人生が残ってると思ってんだ」
見ると湊人はすっかりアイスを食べ終わり、棒を右手で弄んでいた。
「やりたいことが今はなくてもかまわないんだ。やりたいことが見つかったときに、やればいいんだし」
「見つかったときには遅すぎた、みたいな展開になってそうだよ」
なんでだろう、泣きそうだ。やりたいことがすでに定まってる友人が、途方もなく遠い存在に思えてきた。
「学校でもさ、成績がいい人に限って専門学校志望だったりするんだよ。大学に行かないのって聞くと、自分のやりたいことを学べるなら専門で十分だってサラッと言われるんだよね。ちゃんと勉強してた人って、自分で自分の可能性を広げてたんだなって今さら気づいて。かと言って焦って勉強しなきゃみたいな気持ちになれない自分にも嫌気がさすし」
まるでなにかの栓が抜けたみたいに、一度言葉を出すととめどなくとめどなく、新しい言葉があふれてきた。あぁ、私そんな風に思ってたんだ、と自分で自分の気持ちに気づくこの感覚は妙に新鮮だ。
「じゃあ、ちょっと話してみるか。やりたいことがないのになにかをやらないといけないと焦ったときの対処法について」
「……うん」
私が今にも泣きそうなのを察したのかもしれない。湊人の提案は気遣わしげで、だけれどとても暖かかった。ほんと、意外と優しいところがあるのだ。
◇◆◇
どうせ話すならリラックスした方が、ということで、湊人はコーヒーを淹れてくれた。真夏なのにわざわざホットコーヒーを淹れるのは彼の癖みたいなものなのかもしれない。マグカップから立ちこめる湯気を眺めて、部屋にゆっくり充満してきたコーヒーの香りをかぐだけで、少し落ちつく感じがするから不思議だ。
「単刀直入にいうと、やりたいことがないのになにかをやらないといけないと焦ったときの対処法は」
湊人はコーヒーを一口、口に含んで、
「やりたいことではないけれど、やっててもそこまで苦痛にならないことを探す、だ」
「えーと……その心は?」
湊人はソファーの背もたれに身を預け、天井を見上げた。その顔が、どこか物憂げに見えたとき、今更のように思い出した。彼は私より少し大人なんだということを。高校も卒業し、大学も卒業し、今は社会に出ている。多分、私くらいの歳の頃には、私が今悩んでいるのと同じような内容で悩んでいたはずだ。あの時なんであんなに悩んでいたんだろう。どうしてこの考えが浮かばなかったんだろうと後悔していることもきっとある。目の前にいる私と、その奥に見える過去の自分自身に向かって語りかけているのかもしれない。
「例えば、このままやりたい事がとくに見つからなかったとしても、時間は待ってくれない。自分の中で何も固まっていなくても、時間がくれば高校は卒業しなければいけなくなるし、卒業したからには大学や専門学校に進むなり就職するなり何かしらの選択をしなければならない。それでもまだ何がやりたいのかがわからなくてモヤモヤしていたとしても、生活はしないといけない。だから、行きたくもない大学に行ってお金を使うよりはマシだなんて言って、とりあえず働き始める人もいる。多分この選択はかなり辛い。働き始めたら理不尽な嫌なことなんて毎日のように降りかかってくるからな。その度に『こんな仕事好きでやっているわけじゃないのに』ってぜったい思う。じゃあやりたいことやればいいじゃん、大学に行っておけばよかったじゃんって言われるけれど、それができていたら苦労しないことは自分が1番よくわかってる。これはかなりのストレスだ」
ぽつぽつと呟くように話す兄の声は、よく耳を傾けていないと聞き逃してしまいそうなボリュームのはずなのに、なぜかスッと頭に入ってきた。
「ここでさっきの、やりたいことではないけれど、やっててもそこまで苦痛にならないことを探す、という考えが重要になる。やりたくないけど苦痛じゃない、みたいな仕事について、どんなになあなあにやっていようが、お金は手に入るから貯金はできる。タスクをこなす程度の心の負担が少ない毎日を送っているうちに、やりたい事がふっと心に降りてくる日が来るはずだ。なんとなくテレビをつけた時にやっていたアニメに影響されて、急に声優になりたくなるかもしれない。そんな時、何かをするにはそれなりのお金がかかる。例で出した声優に本気でなりたいとしたら、今まで仕事をして稼いだそのお金で、専門学校なり養成所なりに入ればいい。それがまさしく、やりたくはないけど苦痛にならない仕事を続けていた結果が報われた瞬間だ。
でもその時就いていた仕事が、やりたくない上にあまりに苦痛で辛すぎると、せっかく『いつか自分にやりたいことができたときのために稼ぎたい』と思って頑張っていたのに、『もっと楽な会社で働きたい』みたいな違う目標にすり変わってしまう。だからこそ、そこまで辛くはないしやりたい事ができたときに使うための貯金ができそうな仕事を探すんだ。自分の心を守りつつ、やりたい事ができたときの自分に投資するために」
一息に話して、湊人はまたコーヒーを一口飲んだ。お金を稼ぎつつ、自分の心を守りつつ、か。今やりたいことを見つけなければもう一生取り返せないような気がしていた私からしたら、完全に別視点の意見だった。そう考えると、湊人が今やっている仕事は、本当に彼のやりたいことなんだろうか、なんてことが気になった。夏休み中の私とは違い、毎日のように仕事に出かけている彼は、本当にやりたいことをやっているのか。それか、いつか見つかるかもしれないやりたいことのために自分に投資してるところなのだろうか。
「でもさ……例えば私が本当に声優になりたいとか、なんならYouTuberになりたいとか思ったとするじゃない。やっと見つかったやりたいことが、そういう狭き門の物だったとしたら」
意思の弱い私は、どうせやれっこないと決めつけて、その時やっている仕事の従事に甘んじてしまいそうだ。「それも怖いところではあるよな」と湊人。見ると彼のマグカップはもう空だ。そういえば私はまだ一口も飲んでいない。
「でもそれも、やりたいことではないけれど、やっててもそこまで苦痛にならないことを探すの話につながってくるんだよ。たぶん、やりたいことがまるっきりないというよりは、あるけれどとても無理そうとか、具体性がないとか、そういう人もいると思うんだ。例えばYouTuberやってみたいなと思ったとしても、何を動画に撮ろうかすら決められてないんだからやれっこないよなって思っているとする。そしたらとりあえず何を撮影するとかどんな編集をするかなんかは置いといて、パソコン関連のことが勉強できそうな学校に行ってみる。そうすればいつか本気でYouTuberを始めようと思ったときに、そのスキルが間違いなく役に立つし、仮にぜんぜん関係ない仕事につくとしても、勉強自体は『これがいつか役に立つかも』っていうワクワク感があるだろ。まさにやっててもそこまで苦痛にならないこと、だ」
「……そっか」
つぶやいた自分の声が、さっきより寂しさを孕んでいないことに自分で驚いた。もっと柔軟に考えて良かったのかもしれない。そうか、そう考えれば、私は全くやりたいことがないなんてことはなかったのかもしれない。学校に行き資格を取り、同じ会社に何年も長く勤めなければならないんだ、と自分を追い詰めていたのかもしれない。
目の前にある進路希望調査票になんて書くかは、まだ定まっていない。けれど、そこにあるのはそびえ立つ壁なんかじゃなくて、やっぱりただのA4の紙だった。湊人も、私の表情がなんとなく変わったことを見てとったのか、どこかほっとしたような顔をしている。兄として一仕事終えた、とでも言ったところか。悔しいけれど、これは貸しができちゃったな。
ようやく一口飲んだコーヒーはすっかり冷めていたが、なんだか妙に美味しく感じた。
◇◆◇
「美化しすぎだよ」
渡されたタブレットに書かれていた内容に一通り目を通し、わたしは素直な感想を告げた。
「このキャラクターは創作だぞ?元からこういう人柄って設定なんだから美化もなにもないだろ」
わたしの兄、湊人は露骨に唇を尖らせながらタブレットを受け取った。「わりといいできだと思ったんだけどな」
「面白くないなんて言ってないよ。ただ年齢から名前から完全にわたしとお兄ちゃんがモデルでしょ?だとしたらやっぱり美化だよ。わたしこんな短時間でお兄ちゃんのこと二回も優しい人だなんて思ったこと一度もないもん」
自宅、リビングにて。わたしは湊人が書いた創作小説を読んでいた。なんでもネット上の小説投稿サイトでこの夏にコンテストを開催しているとのことであり、テーマが「就活・進学応援」なんだそうだ。今からコンテストを開き、厳正なる審査の結果、10月頃に受賞者を決定。最優秀賞を取った人の作品は大手リクルート系の雑誌の巻末に掲載され、来春からの就活生や新入生たちに届くらしい。
「というかお兄ちゃん、こんなこと考えながら就活してたんだね。まずそこにびっくりかも」
「だから創作だってば。キャラの名前が思いつかなかったからおれたちをモデルにしただけだって」
「小説家を志望して専門学校行って、卒業してからはすっかりニートになっている方が書くと重みが違いますなあ」
「おい、これはフィクションだぞ」
「『夏休み中の私とは違い、毎日のように仕事に出かけている彼は』……」
「だから創作なの! フィクションだから!」
少し顔を赤らめながら、もう少し加筆修正が必要か、なんてぶつぶつつぶやいている兄を横目に、わたしは「でも普通に面白いとは思うよ」と褒めさせてもらった。これは本音だ。
いい機会だからからかわせてもらったが、たまに兄が夜遅くまで頭を掻きむしりながらパソコンに食らい付いているのをわたしは知っている。いくつかの新人賞に応募して、小さい賞だけれど何度か受賞しているのだって知っている。兄のペンネームは、前に違う創作小説を読ませてもらった時になんとなく覚えていた。本好きのわたしは、文芸雑誌の巻末にたまに掲載される新人賞受賞者一覧の佳作の欄で、そのペンネームを見かけているのだった。小説の中の湊人くんほど優しくはないし、ちょっと変わってるけれど。応援はしてるよ、お兄ちゃん。
「櫻子、今面白いと思うって言ったか?!」
「えー? わたしそんなこと言った?」
「もうちょっとどこが面白かったとか具体的に、落ち着いて聞かせてくれ! そうだな、とりあえずコーヒーでも淹れるか」
「そこはノンフィクションかあ」
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