2.恋心

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「あの……この間地元の震災の件を話していただきましたよね。まだご家族の方を探している最中で大変なのに、聞くタイミングが悪かったかなって思って……」 「そんな事はないです。気にされてくださっていたんですね」 「私も家族を神戸で亡くしているのでお気持ちはわからなくもないんです。いくら年数が経っても忘れられないものは忘れられないんです」 「そうですよね。僕もあの時から気持ちが不安定になって今通院しているんです」 「何か症状でもお持ちなのですか?」 「健忘症って知ってきますか?」 「ええ、名前くらいなら……何か忘れやすい事とかあるんですか?」 「震災前の家族のことや出会った人たちの事を思い出そうとしてもなかなか記憶が蘇らないんです。上京してからは人の名前や教えてくれた物事に対しても時間が経つと忘れてしまうことがあるんです」 「それって仕事にも影響は出ていますか?」 「たまにあるよ。会計事務って数字がきちんと揃わないといけないのにごくたまにミスしてしまう事もあって上司や社員さんに注意されることもあります」 「それでも続いているのが凄いな。箭内さんたちも色々気配りしてくださるんですね」 「はい。だから週末はいつも疲れがたまって帰ってきても着替えないでそのまま眠ってしまう事もありますよ」 「あまり無理しないでくださいね。たまにうちにも来て気晴らしになるようにご飯食べに来てください」 「ありがとうございます。あの、今日はいくらで?」 「ああいいんです。まかないの分なのでお代は取りません」 「本当に良いの?」 「はい。橘さんに尾花さんのこと話してあるので大丈夫ですよ」 「本当にありがとう、ごちそうさまでした」 僕は席を立ちドアの外に出ようとしたら雨が降っていた。傘を持ってきたことに忘れてしまいどうしようかと考えていると神村は一本の紺色の傘を差し出してくれた。 「使ってください」 「重ねてすみません。今度返しに来ますので、またその時に会いましょう」 「尾花さん、連絡先って聞いてもいいですか?」 「ええ、良いですよ。神村さんの連絡先も聞いて良いですか?」 「はい。スマホのこの連絡先が私のです。……いつでも連絡してきてください」 「……良い機会になりました。これからも会社とともによろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします。帰り気をつけてくださいね」 店から離れてしばらく道を歩いていくと傘にあたる雨音が鍵盤を軽く弾くように軽やかな音域が聞こえてきそうな気分になった。雨は僕に優しくないと思っていたがこのくらいのちょうどいい湿度の具合なら好きになれそうな気がした。 会社に戻り給湯室に他の社員が淹れてくれたコーヒーをカップに注いでいると三橋が来て、昨夜の事を聞いてきたが僕の家に来ていたことを話すと覚えていないので申し訳ないと返答すると困った顔をしてきては、彼女は小声である話をしてきた。 「尾花さん、私と付き合う気はある?」 「今その話をされてもすぐには返事ができない。周りの人も僕らの事を知らないしさ」 「こうしてコソコソしているよりもはっきりしたほうがいいわ。ねぇ、私とはどう考えてくれるの?」 「今度食事でもしよう。その時に話もしよう」 彼女は少し機嫌がよくないまま給湯室から出ていき、僕もその後に自分の席に戻って業務にあたっていった。 二週間後、僕は三橋を誘い新宿三丁目駅の近くにある中国料理店に入りいくつか品物を注文した後に先日の会話の続きをしていった。僕は彼女にも自分の症状を伝えてあるが内観からもそういう風に病を持っている人間に見えないから正規の社員として働いていくのもいいのではないかと話していた。過去に税理士として働いていた過去があるのなら上司に相談して障害者枠から外れて一般社員として再起するのも提案として考えた方が良いと言っていた。 しかし、通院先の医師にとも相談しているが独断で雇用形態を変えようとするのは一概に決めかねないことだからもう少し時間をかけて働きたいと返答した。すると彼女は僕の隣の席に座り、テーブルクロスの下に隠れている僕の太ももをさすってきては手を絡めるように握りしめてまた家に泊りに行きたいとねだってきた。 この時、三橋が次第に身体から鱗と鰭を見せ始めてきたので気が早いと耳元で告げると嬉しそうになりながら肩に頭を乗せてはこちらを見上げて瞳を潤している。 僕も身体の熱が上昇していくのを覚えると、酒の酔いに任せるように彼女の自宅に行きたいと誘い出し、甘い声で僕にいいと返答してその後に店を出て先を急ぐかのように手を繋いで電車に飛び乗った。 今宵の空に二十三夜月がひっそりと浮かび上がり街の明かりが海霧で覆われるように広がっていく。僕は三橋に水槽の中で泳ぎたいと言い出しては彼女は薄ら笑みをこぼして鱗を張り付けながら勢いよく身を剝がして僕の身体にしがみついて熱情とともに焦がしていった。
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